1.
パン
乾いた破裂音がした。
元の同業者だったらうまく聞きつければライフルの銃声だと判断できるかもしれないが、ニューヨークの雑多で騒がしい昼間の中心街で区別することは難しいだろう。
マーティンの放った弾丸が誰かに命中していたのならば、狙撃があったという事実と音を結び付けられるかもしれないが、それはまずありえない。
なぜなら、マーティンは確かにニューヨークのど真ん中で狙撃用のライフルの引き金をしぼり、弾丸を発射していたが、どんな人間も狙ってはいなかったからだ。
「よし……」
着弾したことを確認してスコープからそっと目を離す。
それから脇に置いておいた双眼鏡で広く目的の場所周辺を窺う。
ニューヨークのミッドタウンの中心部からやや外れた位置にある公園だった。
中央にジョガーが集うには十分なランニングコースがあり、今どき珍しいホットドッグの店舗が開いている市民にとっての憩いの場だ。
親に連れてこられた子供たちも多いし、暇な年金暮らしの老人、昼までの休みを取っている役人、はたまた全財産の入ったカートを押しているホームレスの類いまでが出入りする人気スポットだった。
すぐわきには車が始終渋滞するしかない道路があるので、タクシーで途中までやってきてこの公園を抜けて向こう側に抜けていき、また別の車を拾うなんてことをするビジネスマンもいる。
つまり、セントラルパークほどではないとしてもそれなりに人の出入りがあり、かつ人目につく場所ということである。
マーティンの鋭い視線は、公園内にどんな異常も起きていないことを確認する。
ただ一つ。
彼の放ったライフル弾が貫いた場所が抉れていることを除いては。
1000ヤード(900メートル)級の狙いとしては完璧に近い。
「いい腕だ。君の名は?」
狙撃手は愛用の銃の腹を軽く叩いて呟く。
「マーティン」
彼が極上の射撃を成功させたときに必ず呟くフレーズだった。
幼い頃にまだ健在だった父と見た映画のラストシーンだ。
射手としての彼の原風景といえよう。
マーティン自身の特性としては早撃ちよりも狙撃向きであったので理想通りとはいかなかったが、四十になった今でも彼は射撃をする度にこのやり取りを呟く。
ある意味では儀式となっていたのだ。
双眼鏡で公園の中心にある芝生に書かれた緑色のスプレーによる×印の中央を見る。
やはりマーティンの弾丸で綺麗に抉られている。
しかし、すぐそばにいるものたちの誰も気が付いていない。
やや大きなモグラの穴程度としか認識しないだろう。
余程観察力がある、例えばマーティンの元同僚たちよりは警察の、しかも鑑識班にでも所属していないとあれがライフルによるものと気が付くことはないはずだ。
そのために、火薬の量をぎりぎりまで減らしてある。
五分ほど双眼鏡を覗き込み、誰一人として今の弾着に気が付いたものがいないことを確認すると、マーティンはライフルから離れ、バッグに詰め込んでおいたハンバーガーを取り出してかぶりついた。
冷めていた。
四時間前に買ったものだから当然である。
もうこのアパルトマンの屋上にきて三時間以上経っていた。
滅多に人の来ない屋上であることは経験上知っている。
その間にマーティンが撃ったのは三発。
一時間に一発の割合だ。
どれも人が集まりやすい場所に彼自身が用意した×印を見事に射貫き、誰一人として気が付かせていない。
本来のスナイパーとしてならば、ミス以外のなにものでもない。
目標に命中せず、狙撃手の存在を誇示して敵兵の足止め、自軍の兵士の援護等々の役割を果たしていないのだから。
だが、問題はない。それどころか、彼の独自レギュレーションの中では満点に近い得点をあげているといっていい。
なぜなら、マーティンがしているのは、約1000メートル離れた場所から誰にも気づかせることなく人混みの中を撃ち抜くというゲームなのだ。
もし誰かに見つかれば通報されてすぐに逮捕されるおそれがあり、また銃を所持しているのだから射殺もありうるし、下手をしたらテロリストして速やかに処理されることさえある。
いや、リスクがあるからこそ面白いのだ。
この遊びを始めてからもう三か月になるが、誰一人として射殺してはいないとはいえ、大都会の真ん中で狙撃を繰り返すということがどれほど危険な真似であるかわからないほど馬鹿ではない。
だが、マーティンはそういう趣味の男だった。
開戦以来、灼熱のイラクに三回も赴き、その度にそれなりの戦果を挙げて帰ってきたことで帰還兵にありがちなPTSDにかかっているという訳ではない。
元同僚たちにはご多分に漏れずイラクでの戦いによって神経を病んだものがいる。
クリス・カイルにはならなくても、戦場で童貞を切って何人も敵兵を無機質に射殺していった結果、心の潤いと緑がすべて枯れ果てただの砂漠へとなっていく兵たち。
かつてのベトナムのように、イラクに出兵した兵士たちが追う精神への被害は並大抵のものではなかった。
人を殺すために戦場に行くということは人間性を消却するということなのである。
ただし、マーティンは記録にある限り三十人の敵兵を射殺していたが、そのことでなんらかの傷を負ったりはしなかった。
受けたとしてもおそらく掠り傷程度であったのだろう。帰還してからすぐに現実の平和な街並みに溶け込んでしまった。
ゆえに、この遊びもそういったPTSDの代償行為というものではなかった。
単にマーティンは「いい射撃」が好きなだけなのだ。
しかも、彼は自分の腕をひけらかし誰かに賞賛されるという承認欲求らしいものはほとんどなく、むしろ自己満足のためだけの射撃に憑りつかれているのである。
イラク時代、彼は仲間たちの護衛任務に就くことが多かったが、彼は狙撃による敵兵の排除そのものよりも敵をいかに気づかれずに狙って射殺するかに重心を置きすぎていた。
ゆえに上官はおろか同僚ですらマーティンの功績について把握することは少なかった。
ただし、作戦の度に提出するレポートと実際の戦果(例えば敵兵の死体だ)を突き合わせれば、マーティンが十分な仕事をこなしていたことは認定できる。
目立たなすぎる救い主。
部隊の仲間は彼のことを〈タンスの中に潜むブギーマン〉と揶揄っていたほどであった。
どこに潜んでいるかわからない―――ハイド&シークの鬼のような奴という意味だ。
プラグマティストの兵士からすればそれだけ頼りになるということであるから、自分たちの作戦行動を影ながらずっと守っていてくれるマーティンは仲間たちに十分に受け入れられていた。
もっとも、マーティン自身は兵士としての任務に忠実だったわけではなく、ただ隠れてライフルを撃つという行動が何よりも好きだったというだけであって、仲間のためにしていたの訳ではないのだが。
いい射撃が好きなだけ。
復員してからも、こうやって週に一度ニューヨークのど真ん中で的のない狙撃を繰り返して悦に入る程度に。
マーティンはイラク時代に使っていたマクミランTac-338ではなく、レミントンM700をもう一度手にとった。
性能は落ちるが、軍用を入手するのはなかなか難しかったのだ。
次は今日で四発目。
陽が落ちる前にもう一発撃つことにする。
あまり連射すると音から怪しまれるかもしれないが、怪しまれないようにたまにしか撃つ機会がない以上、次はいつになるかわからない。
下手をしたら十日は先になってしまう。欲求不満だ。
ただの射撃場ではマーティンは満足できないので、こんな場所に忍び込んでいるのだから、可能な限りもっと堪能したい。
スコープを覗き込む。
朝のうちに用意しておいた×印は五つ。
そのうちの三つはもう撃った。
一つはさっきからずっとタクシーが停車している路上にあって邪魔だし発覚の危険が伴う。
あと残るのは、公園内に用意したもう一つだ。
さっきまでホットドッグ屋の移動店舗があったため、さすがに避けていた噴水傍の芝生に緑のスプレーで描いたものだった。
近くで見るとほとんど目立たないが離れて見るとわかるように薄い緑でマークしている。
マーティンは腹這いになって伏射の態勢をとった。
イラクのときもずっと伏射でやってきたから、これが一番落ち着いて撃てる姿勢なのだ。
二脚は使わず、持ち込んだ砂袋にタオルを丸めて置き、その上に銃の銃床をそっと乗せる。置くのが銃身だと弾着点が狂うのだ。
身体の正中線を射軸からずらす。
足は揃える。
通常は開くのが普通だが、マーティンの好みは揃えるやり方だった。
スコープを覗き込むとレティクルが視える。
彼にとって最も使いやすいのは十字のクロスヘアーに真ん中に丸のついたクロス&サークルだ。イラク時代に色々と試してみたが、レティクルはこれが一番いい。
スナイパーにとっては何でも自分に合うものが一番で、他人の真似をするべきではなかった。
ミルを合わせるにはドットが合った方がいいが、マーティンには不要だ。
それから視差の調整をして、ようやく目標の×印を確認する。
すると子供がスコープに入ってきた。
多少戸惑う。
別に子供を怖がらせたくないという理由ではない。
子供は大人に比べて身長が低いため、狙点の修正を求められるからだ。
もちろん子供を撃ったりはしないが、比較対象物の規格のズレは微妙な問題をはらむ。
気をつけなくてはならない。
(四歳ぐらいか……)
親の姿はスコープの中にはない。
いくらアメリカとはいえ、親が多少はなれていても、これだけ人のいる公園ではさほど危険はないだろう。
一度起き上がって双眼鏡で親の位置を確認するのも億劫だ。
放置することにしよう。
子供のいないマーティンにはわからないが、おそらく四歳ぐらいだろう子供は汚れのない金髪の女の子だった。
おしゃまな感じを受けるのは、カールの入った髪型のせいだろう。
まるで人形のようだ。
手にした玩具らしいもので何やら遊んでいる。
この子供がいなくなったら始めようと思っていたら、×印との射線からは3フィートしか離れていない位置に気まぐれにも座り込んでしまった。
「邪魔だよな……」
3フィートも離れていれば巻き込みもないか、とは思うがこの狙撃地点から公園まではちょうど1000ヤード(900メートル)。突然の風によってずれることもある。
狙撃の失敗でマーティンの遊びがバレて逮捕されることも覚悟はしているが、それが子供への誤射というのでは後味が悪すぎる。
止めていた息を吐き、
「畜生、諦めるか」
と、呟いた。
マーティンは別に殺人鬼でも戦場に魂を置いてきたPTSDでもない。
あくまで趣味でそっと狙撃を続けているだけだ。
子供殺しをしてまでするようなものでもない。
×印以外を狙うという手段もあるが、どうも気がのらなかった。
マスターベーションにはマスターベーションなりのマイルールというものがあるのだ。
自分で設定した目標を誰にも気づかせずに1000ヤード遠くから狙撃して命中させるというのが、この遊びのルールなのだから従わなければ面白さは半減する。
それに子供は集中力がなく飽きっぽい生き物だから少し待てばいなくなるだろうと気を取り直した。
彼はスナイパー。
じっと待つことにかけては定評がある。
その点でガキが敵う大人ではない。
もう一度2インチほどのアイリリーフをとってスコープを覗き込む。
何気ない行動だったが、妙なものが見えた。
スコープの倍率は10倍だから実際に把握できる部分は少ない。
だから、マーティンに見えたのは子供と×印とそして少し離れたところにぽつりとあらわれた黒い影だった。
最初はズームがあっていないのかと思った。
しかし、そんなことがあるはずはない。彼のスコープはナイトフォースの最高級品だ。
少しの調整で完璧にはまる。
軍の本物の狙撃手であったマーティンが満足できるほどの逸品なのだから、そう簡単におかしくなることはない。
では、あの黒い影はなんだ?
人の姿をしているが輪郭はぼやけていて靄のように見える。
ゆっくりと二本の足で動いている。
マーティンは×印からスコープをずらした。
そいつをじっくりと見るためだ。
ぼやけているのは黒い服を着ているからかと思ったが、よくよく見るとブルブルと震えているからのようだった。
全身は、ただ黒いだけだ。細部などもっと近くで見ないとわからないぐらいはっきりとしていない。
しかも、両手の長さが完全に違う。両脚も。
背骨にだけ針金が入った奇形の人形のようだった。
それだけではない。
顔がおかしかった。
眼も口も鼻もない。
あるのは黒い凹凸だけ。
黒いレゴで組み立てられた四角い貌。
冒涜的な蟲が湧いた玩具のようであった。
「―――なんだよ、アレ……」
残酷な死の支配する戦場帰りのマーティンが息を呑む不気味さだった。
あんな恐ろしげなものは見たことも聞いたこともない。
道端に転がった地雷が制作したバラバラ肉片よりも気持ち悪かった。
だが、もっと何よりも恐ろしいことは……
「誰も気が付いてないってのかよ」
そうだ。
公園にはあの子供を初めとして何十人もの人間たちが散歩をしたり、ジョギングをしていたり、読書を楽しんでいるというのに、誰一人としてあの不気味に捻じれた黒い影に死線を向けるものがいないのだ。
ここはアメリカだぞ。
ニューヨークのど真ん中だぞ。
どうして誰も気が付かない。
おかしすぎる!
そうなると、自分の頭が、眼が、狂っているだけという可能性もある。
ついに戦場帰り特有の疾患が発症したのかもしれない。
だからあんなものが視える。
もしくは普通の人間があんな風に見えてしまう。
視えてしまっている。
ついにイカれたのかよ、俺は。
背中に冷たい氷柱が突き刺さったようだった。
軍の精神病院に閉じ込められたという海兵隊の仲間のことをつい思い出してしまった。
しかし、そのマーティンの自虐を止めるかのように閃いた事実がある。
あの不気味な黒い影が向かう先だ。
そこには座り込んだ金髪の子供がいる。
黒い影のただの進路上のいるという動きではない。
まっすぐに子供目掛けて向かっている。
そうとしかいえない。
(もし、もし、だ。あいつがあの子供を狙っているのだとしたらどうなる? しかも、俺がおかしくなっているんじゃなくて、あいつが周りの連中の眼に映っていないだけだとしたら、どうなる? あのガキはどうなる?)
マーティンはわずかな時間だけ躊躇した。
兵士として培った合理的な理性が状況を分析する。
その間―――二秒。
彼は息を吸い、呼吸を止め、引き金を絞った。
スナイパーのもつ鉄の決断力の賜物であった。
パン
聞き慣れた破裂音とともに弾着を見送る。
黒い影の頭部が揺れた。
確かに命中したと勘が告げる。
次の瞬間、スコープのどこにも黒い影は映らなくなった。
まるで消えてしまったかのように。
あとかたもなく、死体どころか存在すら霧散したかのように。
貫通したと思われる.300 Win Mag(ウィンチェスター マグナム弾)が芝生のどこにめり込んだのかもわからない。
そんな些末事を気にしている余裕もなかった。
ただ、マーティンは本能的に理解した。
「俺はあのガキを助けた」
もちろん、あのマーティン以外には誰にも不可視の黒い影から。
……そして、イラクから生還したときよりももっとずっとはっきりと生きた心地がしたのであった。