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名良村  作者: ブービー
1/6

名良村 1日目

季節は八月。

緑も本格的に濃くなり、青々と葉を繁らせた木々が立ち並ぶ殆ど整備もされていない山道を、俺はオフロードのバイクでひた走っていた。


俺の名前は月里修二つきさとしゅうじ、二一歳の大学生。

今は学生最後になるであろう平和な夏休みを利用して、趣味である山村巡りをしているところだ。

日本に残された古き良き文化、そういったものが山間の村々には息づいている。

そういう空気に触れ、現地の人と交流する事が俺はとても好きだった。


一度バイクを停め、スマホを取り出し現在位置を確認する。

良い時代になったものだ、こんな周囲の様子がまるで分からない山林の中でも、空さえ見えれば自分の位置がほぼ正確に分かるのだから。

先程まで立ち寄っていた森見村という戸数一〇件程の小さな村を出て三〇分程になる。

森見村でお世話になった中林さんという老夫婦の話では、この村から先は獣道のような山道が続くだけで、人が住む集落は無いという話だった。

それならば道が続くところまで進んでみようと、現在俺はその道無き道をバイクで進んでいる。

どうしても進めないようなら引き返せば良いのだ、どうせ急ぐ旅ではないし、いざとなれば野営の準備もある。


時刻は昼前といったところだろうか、まだまだ日は高い。

中林さんが言った通り、スマホの地図を見てもこの進路の先には集落などは無いようだ。

……引き返して別の山村へ移動しようか。

少しだけそう考えたが、すぐに気を取り直し山道を進むことにした。


それから一〇分ほど進み、ただでさえ獣道のようだった道幅がさらに狭くなった。

最早道などといったものではない、周りよりも草の背丈が低いだけの藪の中をどんどん突き進む。

足はオフロード仕様のバイクなので大抵の場所は進む事が出来るが、どう楽観的に考えたところで、この先で道路事情が改善する見込みは無い。

ここまでかと思い、俺は反転する為に前方に見えていた、木々が少なく少し開けた場所へとハンドルを切った。


その瞬間、俺の体を妙な浮遊感が包む。

バイクの前輪が下がり、極端な前傾姿勢になる。


何が起こった?


突然の事態に状況を把握する間もなく、俺の乗るバイクは速度を増して坂道を下り始めた。

俺が開けた場所だと思っていた場所は、平らな地面などではなかった。

背の高い藪のその先は急斜面となっており、そこに突っ込んでしまったバイクは山の急斜面を凄い速度で下り始めた。

恐ろしいほどの急勾配、恐らく三〇度……いや、四〇度以上はあるのではないか。

とにかく止まらなくては。

俺は後輪のブレーキをかけてみるが、全く速度は緩まない。

この状態で前輪のブレーキをかければほぼ間違いなくバイクは前転し、俺はバイクから放り出されるだろう。

状況を理解した途端「死」という言葉が現実のものとなってくる。


目の前に迫る木々を二度、三度と回避するが、こう速度が乗ってしまってはあと何度も木々を避けるのは不可能だろう。

最早バイクを斜面側に倒して、無理矢理止まるしか無い。

十分に速度が乗っている状態で自分からコケるというのは非常に勇気の要る作業だが、命には替えられない。

意を決して俺はバイクを内側に倒した。

足に強烈な圧迫感があり、地面を滑っているのが分かる。

痛みなど感じない、ただ早く止まってくれと祈るだけだった。


永遠とも思われるその時間は唐突に途切れた。

土をえぐり、木々をなぎ倒す音が消失し再び俺を浮遊感が襲う。

最後に見えたのは、下方に流れる川に向かって落下する俺のバイク。

山の急斜面を降った先は崖となっており、そこから放り出された俺はそのまま川へ向かって落下した。



――――



……頭が痛い。

朝方まで飲み明かした後に昼過ぎまで寝て起きた時のような、そんな倦怠感が全身を包んでいる。


……背中が痛い。

ゴツゴツしたものに背中が押されている。

まるで石を敷き詰めた健康マットの上で寝ているようだ。


……時折、俺の額や頬に冷たいものがかかる。

俺は何をしていたのだったか。確か山の斜面から滑落して……川に落ちた。


ぼんやりとしていた思考が次第にまとまり、俺は自分が倒れている事に気がついた。

体のあちこちが痛いが、痛いというのは生きている証拠だ。

だがしかし、目を開けるのが怖い。

命はあるが、全身ボロボロで死を待つだけの体だとしたらどうしようか。

それに何より、先程から俺の体を触っている何か……野犬か、熊か。

どちらにしろ碌なものではないだろうが、それを確認するのが恐ろしかった。


ピチャリ……


音がして、また俺の頬に冷たいものが当てられる。

何で冷たいんだ? 動物が舐めているなら生暖かいのではないか?


この場から生還する方法が全く思い浮かばないが、こうしていても近くにいる何かの餌食になるだけだろう。

野生動物なら大声を出せば少しは怯むだろうか。

手と足の指先を軽く動かし、何とか四肢が動くことを確認した俺は、意を決して肺に力を入れた。

カッと目を見開き、力いっぱいに叫ぶ。


「うわあああああああああああああああああああああああああ!」


「え、きゃあ!」


……きゃあ?

今きゃあって言った?


素早く立ち上がって走り去る体勢を作ろうとしたが、思った以上に体がうまく動かずその場でヨロヨロとしゃがみ込んでしまう。

これでは奇襲が上手くいった所で逃げる事など叶わなかっただろう。


「あ、だ、大丈夫ですか?」


そんな俺を見て心配そうに声をかける少女。

そう、少女だ。

俺の目の前にいたのは、高校生程度になろうかという少女だった。

人がいる、この事実を認識した瞬間、今まで張り詰めていたものがぷつりと切れ、俺はその場で尻もちをついた。

俺は……助かったのだ。




少女は久木早苗ひさぎさなえと名乗った。

年は一七歳で、この近くにある村、名良村ならむらに住んでいるのだという。

周りは山々に囲まれた場所で、近くには大きめの川が流れている。ここがだいぶ山の奥地だと言う事が伺えた。

森見村の中林さんの話では、山の方に村は無かったはずだがどういう事だろうか。

俺は早苗に軽く自己紹介をすると、急いで身辺を確認し、現在の状況把握に努めた。


まず体は痛いながらも骨折などした箇所は無く、ライダージャケットは腿や腕の部分が破れてしまっているが、他に大きな怪我も無い。

これはまさに奇跡と言う他無い。

次に周囲を確認してみる。

背負っていたリュック類は見当たらず、バイクも見渡した範囲には無い。

俺が落ちたと思われる崖も、それらしき場所はこの付近には見当たらなかった。


「早苗さん、俺はどこにどうしていたんですか?」


「えっと、山菜を取りに来たら、川辺りで月里さんが倒れていて……この辺では見ない人だったから驚きました」


「俺の周りに何か無かった?」


「いえ、特には……近づいてみたら息をしていたので、水に浸かっていた足を川から出して、付いていた泥を拭って様子を見ていたんです」


「そうですか……ありがとうございます。早苗さんが通りかからなかったら本当に死んでいたかも」


俺がそう言うと、早苗はほっとしたように笑顔を見せた。


早苗の話からすると、俺が倒れていた付近には何も無かったらしい。

体が水に浸かっていたという事は、もしかしたら俺が落ちたのはもっと川の上流の方なのではないだろうか。

リュックとバイクはもしかしたらそこにあるかもしれない。


俺は空を見上げる、山に囲まれているので正確には分からないが、太陽は西にだいぶ傾いていた。

恐らく今は午後四時頃といった辺りではないだろうか。

最後に時間を確認してから三、四時間は経っている事になる。

そんな時間、気を失った状態で川に流されて生きているとは何という幸運だろうか。

しかしバイクや荷物を探しに行くにしても、今からだと時間的に心許ない。

さすがにこんな山の中を装備もなしに日が暮れてから歩き回るのは自殺行為だ。

となれば、まずは外部に助けを求めるのが先決だろう……気は進まないが非常事態だ、仕方がない。


「すいません早苗さん、電話なんかがあったら貸してもらえませんか?」


「え、電話? 無いです」


「あ、備え付けのものでもいいので」


「すいません、村にもそんなものはありません……」


は? 電話が無い?

この平成の世にそんな集落がまだあるのか?

冗談かとも思ったが、早苗はキョトンとした顔で俺を見ているだけだ。

とても冗談を言っているようには見えない。


よく見れば早苗の来ている服は、何というか随分と古めかしいものだ。

もんぺ……というのだろうか、ダボッとしたズボンと、袖を切った着物のようなものを着ている。

正直なところ、そんな服装をしている人間は初めて見た。

日本史の教科書でくらいしか見たことがない服装だ。


「……とりあえず、村に案内してもらっていいかな?」


「あ、はい!」


体が動くことを確認した俺は、とにかくその村とやらに行って助けを呼ぼうと、早苗に案内を頼んだ。

いくら電話が無いとはいえ、だからこそ携帯の一つも持っている人間はいるだろう。

今の時代に通信手段を何も持たない集落が存在するとは考えにくい。

そう、ここに来る前にお世話になった森見村にだって電気と電話は通っていた。

水道は川から直引きではあったが付いていたのだ。


しかし、俺の期待は最悪な形で裏切られる事になった。




「ここが名良村です」


「……えぇ」


早苗の後を付いて歩くこと二〇分程度、ついに俺の目の前に名良村が姿を現した。

しかし、そこは俺の想像を越えていた。


まず電気が無いということが、電柱の一本も立っていない事から容易に想像できた。

家はこれまた歴史資料館に載っているような藁葺きの古い民家で、大きさもそれほど無い。

しかも村と名が付いているにも関わらず、見た限り家は四軒しか確認できなかったのだ。


「え……これが、村?」


「はい、名良村です」


「家が四軒しかないけど……」


「はい、私の家を含めて四軒だけの村なんです」


俺の質問に早苗は淡々と答える。

この状況に全く疑問を抱いていない様子だ。


さすがの俺もここまで小規模な集落を見るのは始めてだった。

そりゃあ森見村より山奥なのだから家は少ないだろうと思っていたが、まさか四軒だけとは。

しかも電気も……ガスすらもある様子はない。


「早苗さん……学校とかどうしてるの?」


「学校は、山を降りた麓の学校に……通ってました」


「生活用品とかどうするの? まさか全部自給自足?」


「いえ、月に二回くらい、町から購買の人が尋ねてくるのでそれで……あとはこの先にある森見村の人に分けてもらったりしています」


初めて目にする世間から完全に隔絶された環境に驚いたが、早苗から森見村の話が出たことで一応安堵する。

さすがに他の地域との交流はあるらしい。

それはそうだな、こんなところで完全自給自足なんて、それこそファンタジーだ。

……しかし、学校へは「行ってました」という辺りには何か深い事情がありそうだ。

こんな場所にひっそりと四軒だ、もしかしたら“そういう”場所なのかもしれない。

世間から隠れざるを得なかった人達の……みたいな。


しかし俺は今までもそういった“いわくつき”の場所には行ったことはある。

最初の頃は身構えていたが、いざ行ってみればどこもごく普通の、気のいい人達が住まう地域だった。

余計な先入観は良くない、ここにはここの事情があり、こういう生活を営んでいるんだ。

部外者である俺はただ一時、その空気を味あわせて貰えればそれでいいんだ。


事故はあったが、結局のところいつもの旅の延長。

そう考えると今までの得体の知れない不安も、現代に残った秘境を見つけたというワクワク感に変わっていく。

人が住んでいて、人が生活しているのだ、何を恐れる事があるだろうか。

それよりもほぼ完全に自給自足生活をしている集落なんて滅多にお目にかかれるものじゃない、しっかりとその生活を体感せねば。


「早苗さん、いきなりで本当に申し訳ないのだけど、もし良かったら今晩の宿をお願いできませんか? キャンプ用の荷物も全て事故で無くしてしまったようなので」


「あ、はい、お父さんに聞いてみます……多分大丈夫だと思いますよ」


「すいません、本当に隅っこで寝られればそれでいいので」


すっかり不安の無くなった俺は、いつもの調子で民泊の交渉をする。

荷物を全て失っている為、交渉になる材料など持っていなかったのでストレートに情に訴えたのだが、早苗からは快い返事が返ってきた。

これが断られたら今日はその辺の木の下で寝るしかなかったところだ、屋根を確保できそうな流れに俺はとりあえず安堵した。




案内された家の中は、これまた教科書通りの古民家だった。

入り口は土間のようになっており、左手奥に石と土を積んで作った窯のようなものが見える。

壁には農具のようなものが立て掛けられており、その殆どが木製だった。

広い土間の先には一段高くなった位置に木の板が張られた六畳程度の居間があり、その中央には囲炉裏が設置してあった。


「お父さん、お客さんを連れてきました」


早苗が囲炉裏の隣に座る人物に声をかける。

家の中を見回していた俺は姿勢を正してその人物――早苗の父に目を向けた。

髪はやや長く、手拭いを額に巻いて髪が目にかからないようにしている。

目つきが鋭く、顔つきは精悍そうに見えるのだが、その表情はどこか疲れ切っているようにも見えた。

そして最も俺の目を引いたモノ……その男には左目の上を通過するように大きな傷があり、左腕が肘の先から無かったのだ。


「つ、月里修二です、東京から来ました。山中で迷ってしまったところこちらのお嬢さんに助けて頂いて……」


無言でこちらを見つめる早苗の父に正体不明の威圧感を感じ、どもりながらも簡単に自己紹介する。

早苗の父は聞いているのか聞いていないのか、特に表情を変えることもなく俺をじっと見つめていた。


「お父さん、修二さんは近くの崖から落ちて怪我したんだって。

荷物も無くなっちゃったみたいで、今日はもう遅いし、泊めてあげてもいいですか?」


父の無言に不安を感じたのか、早苗も続いて説得を初めてくれる。

何とも心強い事だが、考えてみれば若い娘のいる家だ、どこの馬の骨とも分からない男を泊めるとなると、敷居が高いのではないか?

家に上げてくれとはさすがに虫が良すぎたか?


「あ、あの、そこの土間の隅でもいいんです、雨風が凌げれば……明日には帰りますので」


「……ってけ」


「え?」


「泊まってけ」


早苗の父は短くそうとだけ言うと、すぐに何やらゴソゴソと作業を始めた。

見てみると片腕と足を使って、器用に藁を編んで縄のようなものを作っているようだった。


「ありがとうございます、お世話になります」


俺は早苗の父――久木玄氏ひさぎげんじというらしい――に礼を言うと、振り返って早苗にも礼を述べた。

早苗はホッとしたように胸をなでおろした後、俺ににこりと微笑んだ。




日没まではまだ少し時間がある。

早苗が夕食の準備のために川に水を汲みに行くというので、俺はその仕事を手伝うことにした。

それにしてもここは水道も井戸もないのか……まあ川が近いから井戸はいらないのだろうが、それにしても本当に不便を絵に描いたような村だ。

俺は木製のバケツを二つ持ち、歩いて5分ほどの場所にある川に早苗と向かった。


道すがら、早苗と色々な事を話した。

この村に住んでいるのは家の数と同じ四家族で、元はもっと南の方に住んでいたのだが数年前に引っ越してきたのだそうだ。

皆顔見知りで、この村で一つの家族のような関係らしい。

まあ四軒合わせても一〇名程しかいないのだからそうなんだろうな。

何故こんなへんぴな所にわざわざ引っ越してきたのか、もしかして変な宗教系の団体だったりするのだろうか?

それとなく聞いてはみたものの、早苗はよく分からないと首を捻るだけだった。


川と早苗の家を三往復し、家に置いてある瓶を水で一杯にする。

毎日こんな事をしているのかと聞いたら、当たり前のように「そうです」と返ってきた。

早苗には妹が一人おり、普段はその妹と二人でやっているのでそこまで時間はかからないそうだ。

それにしても重労働過ぎるだろう……もっと川の近くに家を作れば良かったのにとぼやいたところ

この川は強い雨が振ると増水して川幅が広がるため、近くは危険なのだそうだ……そういう事なら仕方ないね。


最後の水を汲み終えたところで、今度は早苗が俺の話を聞きたがってきた。

話していて何となく分かったのだが、この村は外界と隔絶されていると言っていい。

早苗は俺の知っている外の世界――東京などの事は殆ど何も知らなかった。

電気がないのでテレビもネットも使えないのだから仕方ないとは思うのだが、今の時代にここまでの情報難民が存在する事が驚きだった。

驚きを通り越してちょっとまずいんじゃないかとも思ったのだが、俺自身が厄介者の身分である今、この村のあり方など説教できるはずもない。

それに、ここに村が無ければ俺だって命を落としていたかもしれないのだ、そう考えればお互い余計な事には口を出さないのが一番ではないか。


早苗は俺が話す東京での生活や学校の話を、まるで魔法の国の出来事を聞くかのように目を輝かせながら聞き入っていた。

普段は何の自慢にもならない当たり前の生活をすごいと言ってもらえる。これはこれで気分がいいものだ。


……それにしても、一つだけどうしても気になった事がある。

早苗はこういった寒村には似つかわしくない、控えめに見ても可愛らしい顔立ちで、全体的には素朴で純粋な印象を受ける娘だ。

着ているモノはダサいなんてレベルは遥かに超えているが、素材が良ければそれすらもエッセンスになってしまうようで、数時間見たら大して違和感は無くなった。

女性にあまり縁のない俺としては、そんな娘がニコニコと笑いながら俺の話に聞き入る様を見ていると、心が踊るような気分になってくる。


……しかし臭うのだ。

肘が当たる程度の間隔で並んでいると、隣の彼女から汗の臭いとか……一週間くらい風呂に入っていないかのような髪の臭いなどが風に乗って俺の鼻に届く。

それに微妙に口臭も気になる。

食事や飲料用の水汲みだけでこの重労働だ。

風呂などどうしているのか想像できないが、村の有様を見る限り、十分な量の洗浄剤など常備されているはずもないのだろう。

勿体無い、素材は良いのに非常に勿体無い話だ。


しかしさすがに本人を、しかも女性を前にして「お前臭うよ」とも言えず、俺は気付かない振りをしながら話を続けた。

東京に戻ったら色々送ってあげようと密かに考えながら……




「いけない、そろそろ夕ご飯の支度をしなくちゃ」


薄暗くなった周囲を見て、早苗が焦ったように立ち上がった。

既に日は落ち、辺りには山向こうに沈んだ太陽から発する光が間接的に降り注ぐのみだ。

あちこちでひぐらしが鳴き、その声が山々に吸い込まれていくように響き渡っていた。


「修二さんのお話、とても楽しいです、また聞かせてくれますか?」


「ああ、こんな日常の話で喜んでもらえるならいくらでも」


「ふふ、東京ってすごいところなんですね、私も行ってみたいな……」


振り返ってそう呟く早苗の言葉に、一瞬ドキッとする。

しかしすぐに俺は自分の行き過ぎた妄想を振り払い「もし遊びに来るなら東京案内は任せてくれ」とだけ言うに留まった。




「おう、早苗じゃねえか何やってんだこんな所で……その男は何だ?」


早苗の家に帰る途中、俺達は二人組の男に呼び止められた。

こちらはどちらも作務衣のような服を身に纏っている、一人は俺と同じくらいの年齢だろうか、もう一人は中学生から高校生といった程度だろう。

背は俺よりも大分低く、髪の毛は二人共ボウズだった。


「次郎さん、この人は……」


「おいお前、見ねえ顔だなどこの村のモンだよ」


次郎と呼ばれた年長の男は、早苗の答えを聞く前に俺に向かって因縁を付けてきた。

しかしその文言のシュールさから、思わず吹き出しそうになるのをすんでで堪える。

どこの村のモンって……村限定なんだ。


「何ニヤけてんだてめえ!」


しかし俺の余裕もそこまでだった。

いきなり頬に強い衝撃を感じたと思った瞬間、俺の体は後方に倒れ、背中を地面に強かに打ち付けた。

次郎と呼ばれた男に殴られたのだと気付いたのは、背中に走る衝撃で息が出来なくなってからだった。病み上がりの体には堪える衝撃だ。

何より、こんな突然に暴力を振るってくる人間がいるとは考えていなかった為、俺の対応は随分遅れてしまった。


「止めて次郎さん! この人は町の人なの!」


「ああ!? だったら何でこんな所にいるんだよ、俺達の事をチクるために様子見にでも来たのか?」


「ちがう、修二さんはそんなのじゃないの。山歩きで山を歩いていて崖から落ちたの、だから……」


二人の話を聞く限り、早苗が必死に俺を庇ってくれているようだ。

俺は痛む背中を擦りながら、二、三度咳をした後、呼吸を整える。


「おい早苗、お前さっきから何でソイツを庇ってるんだよ」


もう一人、若い方の男が早苗の腕を掴んで引き寄せている。

一人が腕を封じ、もう一人の男――次郎が早苗の顎を手で掴み、強引に上を向かせた。


「おめえ、変な事は考えるんじゃねえぞ、おめえの旦那は俺って決まってるんだからなぁ」


そう言って次郎と呼ばれた男は、早苗の胸を鷲掴みにし、唇の周りをベロベロと舐め始めた。

早苗は目と口を閉じ、何かを耐えるようにじっと我慢しているようだった。

突然目の前で繰り広げられた余りに野蛮な行為に、現実味が遠のいていく。

この村ではああいった事が許されているのか?

この付近に警察などと言った公的な機関があるとは思えない。

閉鎖的な故に理性が働きづらくなっているのだろうか。


先程の短い会話の中で、この二人がどういった関係なのかまでは推し量ることが出来ないが、一つだけ間違いの無い事があった。

早苗は嫌がっている。

女性の力だけではろくに抵抗も出来ないので、相手を刺激しないように大人しくなるしかないのだ。


そう思った瞬間、俺の体は動いていた。

早苗の腕を掴んで動きを封じていた小柄な男にタックルする。

見た目以上に軽いのか、小柄な男は大げさに数メートル後ずさった後、勢い良く後ろに倒れた。

間髪を入れず次郎の胸ぐらを掴み、早苗から引き離した所で先程のお返しとばかりに頬に拳を入れた。

次郎はそのまま顔を押さえながら後ろに倒れ込む。

本格的な喧嘩など初めてだったが、奇襲が効いたのか大した抵抗も受ける事無く二人の男を退けることが出来た。

もう一度やれと言われても恐らく無理だろう。


「早苗さん、行こう」


俺は倒れた男達には目もくれず早苗の手を取り、駆け足で久木家へと向かった。




久木家に帰ると、既に食事の用意がされていた。

囲炉裏の方に目をやると、玄氏の向かい側に一人の少女が座っているのが見えた。

彼女は早苗の妹で、名をきくというらしい。今年で一四歳になるそうだ。


俺は玄氏に遅くなった事を詫びると、玄氏は一言だけ「食え」と言って菊の隣を指差す。

そこには早苗と、恐らく俺の分であろう膳が用意されていた。

特に何を聞かれる事も、叱責される事も無いようだったので、俺は靴を脱いでそそくさと居間に上がり、膳の前に正座する。

早苗はてっきり座布団が空いている俺の向かい側に座るのかと思ったが、予想に反して俺の隣に座った。

狭いのではないかとも思ったが、まさか退けと言う訳にも行かず、そのまま並んで食事を始める。

そして改めて置いてあった膳を見て、その内容に驚いた。


簡素な木製の膳に乗せられていたのは、麦飯、たくあんと山菜の漬物、味噌汁のみ。

しかも腹一杯になるには程遠い量である。

助けてもらった分際で非常に図々しいのは百も承知なのだが、それにしてもこの食事は俺の予想をさらに下回っていた。

近隣の村や行商とのやり取りがあるという話だったので、もう少し食生活は豊かだと思っていたのだ。

試しに麦飯を口に入れてみる、ツルツルしていて上手く噛めない上に、なんとも言えない臭みがある。

たまらず味噌汁で掻き込もうとするのだが、この味噌汁も非常に味が薄い。

そうかと思えば付け合せのたくあんと山菜は凄まじい塩辛さだった。

しかし腹はこれ以上無いくらい減っているし、何より招かれた家で出された食事を残すのはポリシーに反する。

俺は麦飯と漬物を一緒に口に放り込んで、薄い味噌汁で塩気を緩和しながら一気に飲み込み食事を平らげた。


「……おかわり、いる?」


食事中ずっと黙っていた菊が始めて言葉を口にする。

とても澄んだ笛の音のような綺麗な声で、思わず聞き惚れてしまいそうになったのだが、それは同時に、俺に新たな難題を突き付ける音色でもあった。


菊の隣に置かれたおひつを覗いてみる。

家族三人で食べるにはいささか多すぎる量の麦飯がそこに残っていた。

……気を使われている。

間違いなく俺の分にと玄氏と菊が用意したのだろう。


「お願いします!」


もはや他に取るべき道は無かった。


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