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ロカ -透きとおる君と喰らう私-

作者: 吉野花色

 ひとつの出会いがひとつの人生を大きく変える。

 その出会いを人は“運命”と呼ぶのだろう。


 同時に、人生とは数奇なものだ。

 とある少女の“運命”は緑眩しい皐月の頃、異形の姿でやってきた。




   ◆◆◆




 長い上にあまり気持ちのいい話でもないから、マチカの生い立ちについて今日のところは手短に済ませよう。マチカ――正確には、木野真知花(きのまちか)――という少女がこの世界に生まれてから今日まで、17年と少し。彼女が辿ってきた道程は決して幸福なものではなかった。


 マチカの父は彼女が小学校高学年の頃に死んだ。証券会社に勤め、それなりの地位に就いていたらしい。マチカの記憶に残る父親はいつも不機嫌な顔をしていた。仕事でいないことの方が多かったが顔を合わせれば馬鹿にしたような目でマチカを見て、散々毒のような言葉を吐き彼女を傷つけては喜ぶような男だった。


 けれど時が経てば、マチカもただ一方的に傷つけられるままの子供ではなくなっていく。彼女はいつしか母を真似て父の言葉を聞き流すようになり、やがて父は家の中にいながらそこにはいない存在になっていった。マチカの父は最終的にふらりと家を出たまま帰らず、橋から身を投げて死んだ。


 そんな男と「離婚は体面が悪いから」という理由で夫婦関係を続けていたマチカの母親。彼女は病的なほどに世間体と人の目を気にする性質の人間だ。女は結婚するのが“普通”だからと20代半ばで見合い結婚し、子供を産むのが“普通”だからと義務的にマチカを産んだ。


 マチカが問題を起こさず人並みの成績を維持すれば母は何も言わなかったし、必要なお金はきちんと用意してくれる。ただし問題を起こしたり、母の常識から外れた行いをすれば烈火の如く怒り狂い、罵倒し、マチカの全てを否定する人でもあった。母にとってのマチカの価値は自分が産んだ娘という肩書きだけで、問題を起こさないマチカには何の関心も興味も持っていなかった。


 父の死後、マチカはただ母の目に留まらぬようひっそりと日々を過ごしていた。不自由はないが、どこか息苦しい毎日。結果、マチカは高校に進学するのを待って家を出た。説得は拍子抜けするほどに簡単で、ただ「母さんには迷惑をかけない。自分のことは自分でやれるようになりたいし、一刻も早く自立したいの」とマチカが言えば、母は「あら、そう」と頷き「じゃあ、生活費は月々いくらくらい振り込むのが普通なのかしら」と首を傾げただけだ。


 そんな家庭環境に適応して育ったマチカは友達と呼ぶべき誰かを作る術を知らなかった。仮に知っていたとしても、果たして“本当の友達”を必要としただろうか。教室でおしゃべりをするだけの“クラスメイト”や、放課後を過ごす“クラブの仲間や先輩”ならいるのだから何の問題もない。マチカは実際、心の中でそう思っていた。教室に溶け込み、誰とぶつかることもなければ混じり合うこともない。それが一番平穏に過ごすコツなのだと。


 そんなマチカだって人並みに恋もしたし、交際に発展したことだってある。もっとも数少ないお付き合いがことごとく失敗に終わり、やがて恋愛すらも諦めるのにそう時間はかからなかったけれど。マチカに寄ってくる男は大なり小なり歪んでいるのだ。自分は引き寄せるのかもしれない。そう、自分や両親のような歪んだ存在を、とマチカは他人事のように考える。


 歪んだ両親の間に生まれ、友人も恋人もいない。そんな人生を、マチカ自身は特別不幸だとは思っていない。勿論、幸福だとも。そう――ただ自分はちょっと運が悪かったのだと――マチカは時折小さくため息をついた。


 そうやって自分の人生を特別愛することも憎むこともなく、マチカは今まで生きてきた。そんな人生が一変する日が来るなんて、マチカは想像しようとすら思わなかった。


 けれどマチカは、のちに思い知る。

 不運という言葉がある以上、幸運という言葉もまた必ず存在するのだと。




   ◆◆◆




 いつの間にか眠っていたらしい。マチカはぱちりと目を開けた瞬間に、自分は夢を見ているんだと気づいた。


 元々はっきり夢を見るタイプだ。例えば「寝坊した夢」とか「うっかりお風呂のお湯を出しっぱなしにしている夢」を見て目覚めてから大慌てすることも多い。それでも今日の場合、これは夢だとはっきり分かっていた。


 ちょっとややこしいけれど、夢の中のマチカは自分の部屋のベッドで目覚めたところだ。現実と違うのはかけている毛布が随分昔に捨てた水色のものだということ。それと、ここ数年短めのボブにしているはずの髪が肩にかかるくらいに伸びていて、汗ばんだ首にまとわりついて気持ち悪いということ。何より細くて頼りない――いっそ貧相というべき――自分の体が懐かしい制服に包まれていたから「あ、これは高校生の頃の夢を見ているんだな」と気付いたのだ。


 それを理解したところで、彼女はキッチンの方から聞こえてくる水音に気付いて首を傾げる。誰だろう、私は1人暮らしなのに。だが、起き上がって様子を窺おうにも困ったことに体が動かない。


 風邪でも引いたんだろうか。節々と言わず体中が痛んでかなりの熱を持っている。滲み出る汗を吸い込んだ制服が肌に貼りついて気持ち悪い。かけているのは薄手の毛布1枚なのに、抑えつけられているみたいに体がズシリと重かった。胃も捻じれるように痛んでいる。


 それでも、これが夢だからだろう。マチカの意識はどこか別のところから、自分の置かれた状況を客観的に観察していた。


 しかし、やはりキッチンに誰かがいるらしい。狭いリビングと狭いキッチンを隔てるドアは閉まっているけれど、その向こうで何やらガサゴソと動き回っている気配がある。やがて蛇口をひねるキュという音がして水が止まった。代わりに今度は誰かの鼻歌が聞こえてくる。ちょっと怪しい音程。マチカが高校生の頃に流行ったアイドルグループの曲。低めの男の声。


 一体、誰なんだろう。マチカに兄弟はいなかったし、父もすでにいない。家に勝手に出入りするような関係の恋人もいなかった。それでも何故か、マチカはその声をよく知っているような気がしてならない。いつの間にか鼻歌は小さく口ずさむ歌声へと変わっていた。


 と、不意に歌声がキッチンから、マチカのいる寝室の方へ近付いてきて――カチャ、キィ――ドアが開く。



「ア……エエト」


 途端に歌声はピタリと止まって、代わりに言葉を探す“誰か”の声。ベッドの中のマチカと、部屋のドアを肘と足と背中を駆使して開けたお行儀の悪い“誰か”の目が合う。正確には目が合ったような気がした、か。その“誰か”には目玉らしきものが見当たらなかったから。


 その“誰か”の姿について説明するのは意外と簡単だ。端的に言うならば、それは真っ黒い人型の“何か”だ。髪も肌も何もかも、その“誰か”は全身真っ黒。固まってしまった絵具みたいな黒じゃない。大部分は艶を消した黒瑪瑙みたいだけれど、所々は半透明で向こう側の景色がぼんやり透けて見える。そんな黒い鉱物を彫って作られた、人の彫像を想像してもらったらいい。


 不思議なことに、その誰か――面倒なのでそのまま、ダレカと呼ぼう――が危険だとマチカはこれっぽっちも思わなかった。その真っ黒けのダレカが、何故だか洗面器を持っているからかもしれない。マチカがこの部屋に越してきた時に買ったピンク色の安物。成程、肘と足と背中でもってドアを開けたのは水を並々張った洗面器で両手が塞がっていたからか。


 だが、肝心なダレカが一体“何”であるのかを説明することはマチカにもできなかった。明らかに人ではないのだろうけど、人でない存在を目にするのは初めての体験だ。とにかくその真っ黒な存在はあまりにも異質過ぎる。


「あなた、だれ……?」


 マチカは掠れた声で、絞り出すように囁いた。“誰”ではなく“何”と聞いた方が適切だっただろうか。そんなどうでもいいことを熱にとろけた頭で酷く冷静に考える。


 それに対してどうみても人ではない真っ黒なダレカは動きを止めたまま、ただ口を――口内まで黒いのでちょっと見え難いのだけれど――ぱくぱくさせて、心底対処に困っているように見えた。その仕草が妙に人間臭くて、何だか可笑しい。


「あの、ことば、つうじてる?」


 それだけの言葉を発するのも苦しかったけれど、マチカは自分の身体に鞭打ってさらに聞いた。するとダレカはようやっと、こくりと頷いてそれに答える。よかった、朗報だ。言葉はちゃんと通じるらしい。マチカはほっとして息を吐いた。


「じゃあ、あなたはだれ? どうして」


 ここにいるの、と言おうとして、込み上げてきた吐き気ごと言葉を飲み込む。ぐ、とお腹に力を入れれば連動するように体中が痛んで堪らず呻き声が漏れた。苦痛の波をやり過ごそうと、マチカは体を丸めてぎゅっと目を瞑る。


 すると固まっていたダレカが何かに弾かれたように動いた。ベッドの傍らに膝をつき、汗で額にはりついたマチカの前髪を指先で恐る恐る横に流して、水で濡らしたタオルをそっと乗せる。ひんやりとしたそれにマチカが薄目を開ければ、真っ黒なダレカの顔はすぐそこにあった。


 妙な感じだ。マチカはその顔を見上げながら思う。ダレカの顔の造作はほとんど人と同じだ。鼻もあれば口もあって、けれど何故か目だけがない。だから視線が絡むことはないのに、それでも確かに見られているのは分かる。それもダレカは間違いなくマチカを気遣い、心配しているらしい。


 じっと見つめてくるマチカの視線を受けダレカはたじろぐように身体を引いて、やがて観念したのか深い溜息を吐きながらベッドの横に胡坐をかいて座り込んだ。長く節ばった指で頭を掻き、ついにダレカが口を開く。


「ソノ……散歩ヲシテイテ、君ノコトガ見エタンダ」


 随分と妙なイントネーションだった。どうやらこのダレカは人の形をしていても口の構造や性質が異なるらしい。それでも聞き取りにくくはなかったし、低くて落ち着いた口調でとても流暢な日本語を話す。


「君ガ学校ノ窓カラ身ヲ乗リ出シテイテ、危ナイナアッテ。ソレデ、近クデ見テタ」

「きが、つかなかった」


 マチカの怪訝そうな声にダレカが初めてクックと楽しそうな笑い声を上げる。


「ウン、僕ハ人ノ目ニハ映ラナイカラ」


 その言葉に、マチカはゆっくりと首を傾げた。それなら今は何で見えているのかと。だがマチカが口を開くよりも早くダレカは1つ頷いて「普通ナラネ」と言葉を続ける。


「トニカク……吃驚シタ。マサカ君ガ本当ニ落チテクルナンテ思ッテモミナカッタ」

「おちる……?」


 眉を顰めたマチカの表情が、次の瞬間に何とも言えない苦いものへと変わった。体の痛みにすっかり忘れ去っていたけれど、そもそも何故体が痛むのか。マチカは例によって恋愛のイザコザに巻き込まれ――詳細については長くなるから後にするとして――放課後、諸事情により窓から身を乗り出し、そして校舎の3階から突き落とされた。


「咄嗟にニ受ケ止メタケド……ゴメンネ。上手ク受ケ止メキレナクテ」


 申し訳なさそうなダレカの説明をまとめればこうだ。受け止めはしたもののダレカの体は薄いクッション程度にしか役に立たず、結局マチカは落下の衝撃を受けてあちこち骨を折ったり内臓を傷めることになったと。それは瀕死の重傷というやつで、発見が遅れれば死んでいたかもしれなかった。だから、とダレカは言葉を詰まらせる。


「ソレデ、ソノ、ゴメン」


 もごもごとダレカはマチカの反応を窺い見る。


「マズ、ボクハ……簡単ニイウト人間ジャナイ」

「みればわかる」

「ア、ダヨネ」


 あっさりと答えたマチカにダレカもあっさりと頷く。そしてダレカは言った。


「ボクハネ、魂ヲ濾過スル存在」


 魂を、濾過する存在。ダレカは自分のことをそう説明した。死して肉を離れた魂を体内に取り込み、魂に蓄積された記憶や経験、感情を濾過してまっさらな状態へと戻す、そういう物なんだと。


 マチカを受け止めた瞬間ダレカはぶつかり流れ込んできた彼女の魂の記憶を覗き見ることになった。けれど伝わってくるのは“諦め”ばかり。それは長い長い時間をかけて、数え切れないくらいの魂を濾過してきたダレカにとっても切なくなるような魂。


 自分の体を押し潰して、マチカが地面に激突する衝撃。ダレカ自身はその衝撃に痛みを感じることはない。だというのにダレカは紛れもなく――自分が人間だったら、きっと涙を流して泣いていただろう――千切れるような痛みを感じていた。


「本当ナラ、見ナカッタコトニシタ方ガヨカッタ。デモ」


 どうして、この少女はこんなにも人生を諦めているんだろう。ダレカはたくさんの魂を知っている。素晴らしい人生も、どうしようもないどん底の人生もあった。死にたいと強く願う心も、死にたくないと強く願う心もダレカは濾過し、その残滓は今も真っ黒な身体の中にある。


 人生の両端を知っていて、それでも尚ダレカは人間が好きだった。憧れなのだろう。出来ることなら自分も人間として生きてみたかった。いや、生きてみたいのに。


 この年若い少女は、マチカはその全てを諦めている。命を捨てようとは思っていない。だが、手の中からこぼれていってしまうならそれはそれでいいのだろう。一瞬のうちに感じとったマチカの魂にダレカは酷く悲しくなって――それからそっと、地面に倒れた少女の体を見下ろした。


「ドウシテモ見捨テラレナクテ」


 有り得ない方向へ曲がった右足、投げ出された細い腕、頭も強く打っているだろう。額の傷口から流れ出した血が、いつか誰かが見ていたドラマのワンシーンのように地面に広がっていく。


 今ここで自分が立ち去ればマチカは死んでしまうのだろう。彼女はそれを、きっと「不運だった」のひと言であっさりと片付けてしまうに違いない。ダレカは――ぎゅっと手を握りしめる――それが酷く癪だった。こんなにも自分が憧れているのに、それを“不運”の一言で諦めてしまえるマチカにダレカは悔しさを通り越し怒りすら覚えて。


「エエトネ、事後承諾デ申シ訳ナインダケレド……」


 だからダレカは、選んだ。見捨てずに、マチカを助ける道を。彼女がいつか「生きていてよかった」と思うだろう方に賭けて。


「延命処置ヲシタンダ、ボクナリノ」


 肉体の欠損は、魂の欠損に等しい。逆を返せば魂の欠損は肉体の欠損に等しい。だからダレカはマチカの損なわれた魂に処置をすることを選んだ。欠けているなら、そこを別のもので埋めてしまえばいいと。マチカにとって幸か不幸かダレカにはそれが可能だった。近くに漂っていた死者の魂を濾過しそれをマチカに与えて、彼女の欠けた魂を補えばいい。そうすれば肉体の欠損もある程度まで回復するのだから。


「たましい?」

「ウン」

「それで、わたし、しななかった?」

「ソウ。デモ、チョット人トシテ不自然ナ状態カナ。ダカラ、ボクノコトガ見エル」

「……わけ、わかんない」


 ぽつぽつと言葉を選んで説明されてもダレカの話は突飛過ぎて、マチカは何をどう反応していいかすらも分からなかった。それでも、確かなのはマチカがまだ生きているということ。


 死んでいたらよかったとは思わない。けれど、じゃあ生きていてよかったかと問われれば――ダレカの推測通り――マチカにはそう思う気持ちもなかった。ただ「ああ、死ななかったんだ」とそれだけ。助けたダレカからしてみれば助けがいのない話だろうと思う。けれど結果として、苦しくて熱くて死にそうなほど身体が痛んでも彼女は生きている。


 思考をぐるぐるさせる間に、どうやらまた熱が上がってきたらしい。苦しそうに浅い呼吸を繰り返すマチカ。その熱に赤く染まった顔には玉のような汗が浮かんでいる。ダレカは額のタオルでそれを拭ってやった。それから温くなったタオルを手元の洗面器に浸して絞り、またマチカの額にそっと乗せてやる。それくらいしかダレカがマチカにできることはなかった。


「ゴメン……苦シイダロ」


 その苦痛の原因をダレカは知っていた。拒否反応だ。普通の人間の身体は自分の魂だけに適応している。そこに他人の魂を無理矢理詰め込んだから、マチカの身体はそれを受け入れることができずに悲鳴を上げている。


 他人の魂とマチカ自身の魂が馴染み固まるまで、彼女の苦しみは続く。そして、今後も継続的に彼女は魂の不具合と付き合っていかなくてはならないだろう。そんな運命をマチカに運んできたのは紛れもなくダレカだ。


「魂ガ固マルマデ、少シカカルカラ」


 申し訳なさそうに呟いて、ダレカはそっとマチカの頬を撫でた。その手は水に触れていたからだろう、ひんやりとして気持ちいいとマチカは思う。


「トニカク、眠ッテ。チャント全部、アトデ説明スルカラ」


 抗う理由もなくて、言われるままにマチカは目を閉じた。ほっとしたような吐息が隣から聞こえてくる。そうしてマチカは夢の中で、さらなる眠りへと落ちていった。




   ◆◆◆




 いつの間にか眠っていたらしい。マチカはぱちりと目を開けた瞬間に、困惑して瞬きを繰り返した。見覚えのない家の縁側に座って、色褪せた木の柱に重たい身体を預けている自分。一体、ここはどこだろう。


 そして記憶を辿り始めてすぐに思い出した。そうだ、また魂がすり減って動けなくなってきたから、新しい魂を食べにきたんだったと。


 見上げれば眩しいくらい透きとおった青色の空に、真っ白くて大きな雲がゆうゆうと流れていく。5月の晴れの日、マチカの目に世界はどこか浮き立って見えた。反射的に五月晴れという言葉を思い浮かべたけれど、あれは今の時期の言葉じゃないんだったか。こんな気持ちのいい天気、是非とも五月晴れと呼んであげたいのに残念だ。日本語って時々不思議、とマチカはぼんやり思う。


 それにしても懐かしい夢を見たものだ。マチカは苦笑し、そして小さく眉を顰めた。心地いい天気とは裏腹に今日のマチカは絶不調のどん底。身体に上手く力が入らず、歩くのもやっと。感覚は鈍り全身は何かに憑かれたかのような倦怠感に包まれている。白い肌はさらに血の気を失って、元々線が細い彼女はなんだか幽霊みたいだ。


 それもこれも、数日前から少しずつ身体の違和感が増していたのを無視していた所為。まだ大丈夫だろうと思い込んだ数日前の自分をひっぱたいてやりたい。


 あの日、肉体と同時に魂を大きく損なったマチカ。それを他人の魂で補ったツケは意外と大きかった。本来であれば魂も肉体も、自身の力で治さなければいけない。なのに、それを他人の魂で無理矢理修復してしまった結果、マチカの自身の魂は欠けたままで固まってしまった。


 そして、他人の魂は自分の物と違って脆く、時間の経過と共に少しずつすり減っていってしまう。すり減ればマチカは消耗し、体調を崩し、放置すればいずれ死に至るだろう。だからマチカは魂がすり減るたびに他人の魂を食べなくてはいけない身体になってしまった。


 マチカは全身を包む怠さに溜息をひとつ。ちなみに、ここは彼女の暮らすマンションから徒歩5分とちょっとのご近所だ。木造の家や、木塀に囲まれた昔ながらの平屋だとか、懐かしい雰囲気の家々が集まっている所謂下町。家の周りには手入れされた植木や鉢植えが並んで、そこここで猫達が毛繕いをしている。耳をすませれば、テレビやラジオの音声に交じってご近所の人達の他愛無い話し声も聞こえてくる。


 マチカがお邪魔しているのはそのうちの一軒で、広々とした立派な庭のある平屋のおうちだ。表札には「吉田」とあったが、住人である吉田さん達はみんな留守にしているらしい。侵入者の分際で開けっ放しの雨戸に「不用心な」とつい心配をしてしまったけれど、きっとご近所さんの目もあるし、そういう土地柄なんだろう。ちょうど今も、マチカの目の前でお向かいさんがチャイムも慣らさずに木戸を開けて入ってきて、玄関に回覧板を立てかけて帰っていった。お向かいさんがマチカの存在に気付くことはない。


 それにしても、とマチカは辺りを見渡した。中々素敵なお宅だ。腰を下ろしている日に焼けた木の縁側はじんわりと温かく、手のひらで撫でれば少しざらざらしている。柱に寄りかかり、足をゆらゆら揺らしては靴先で地面に跡を残す。


 こうして誰にも咎められずに、のんびり吉田さんちの縁側に座っていられるのはマチカとその“連れ”が特殊だからだ。さらに言えばマチカの“連れ”はその存在自体が特殊そのもの。一方のマチカは特殊ながらもちゃんとした人間だ。今のところは、だけれども。


「ロカ」


 囁くようにその名前を呼んだけれど、背を向けているマチカの連れ――ロカ――は聞こえなかったのか振り返えらない。まあいいか、とマチカはその後ろ姿をじっと見つめてみる。


 吉田さんちの庭は手入れが行き届いていて居心地がいい。苔むした大きな柿の木と桜の木は緑の葉が美しく、それから椿と、名前の分からない数本も気ままに枝葉を伸ばしている。お手製らしい藤棚は今が花の盛りだ。薄紫色の花びらがはらはらと散っては庭石の上に積もっていく。


 降り注ぐやわらかな日差しが身体に染み込んでいくようで心地いい。ここはとても静かで、穏やかで、光に溢れ、暗いものなど寄せ付けない場所のよう。けれどマチカは知っている。最近、この庭で誰かが死んだのだということを。


 死んだ誰かの年齢も、性別も、名前さえもマチカは知らない。知っているのは「誰かが死んだ」のと、その誰かの死んだ場所が庭の片隅、もう半ば緑になった躑躅(つつじ)の茂みの前であったことだけだ。何故なら今その場所にロカ――人の形をした、黒い影のような彼――が佇んで、死んだ誰かの魂を片手に掴んでいるから。


 ふわふわ綿菓子みたいな魂を手にし、それを吞み込もうとしているロカは人ではない。人の魂を濾過する存在だ。それを特殊な存在と呼ばずして何と呼ぶのか。マチカだって彼と出会わなければ、そんなものが存在するなんて知りもしなかったのだから。


 とは言え濾過する存在はそう珍しいものでもないと本人は言う。濾過するのも、本来は人の魂に限らないそうだ。ただ、少なくともロカは人の魂だけ。一番よく濾過するのが男性のものだから、彼は人間の男性そっくりの形になったのだという。


 もっともそっくりなのは形だけ。見た目は真っ黒けだし、温度は冷たくもなければ熱くもない。感触もやっぱり人のものとは違うけれど硬くはなくて、程よく弾力があって、さらりとしている。マチカはロカに触れるたび、子供の頃に遊んだ白いゴムのテニスボールを思い出した。


「マチカ、ドウシタノ?」


 ぼんやりしていたマチカをロカが呼んだ。妙なイントネーション。でもマチカにとっては聞き慣れた声。なんでもないと小さく首を振れば、彼は不思議そうにひょいと肩をすくめて彼女の方へ歩いてくる。


 ロカの身体は今ちょうど心臓の辺りが半透明になっていて、日の光を透かして見ると仄かに色がついていた。若葉のような緑色。濾過する魂の色だ、とマチカは思う。前にロカが教えてくれたのだ。人の魂は成長するにつれ、それぞれ自分の色に染まっていくのだと。


 そして死後、ロカが呑み込み濾過した魂は限りなく無色透明になる。色のついたままの魂は中々消えないけれど、濾過された魂は解き放たれるなり溶け消え再び世界の一部に戻る。それが理というもの、なのに。


「終わった?」

「ウン、オ待タセシマシタ」


 笑うような声音で言いながらロカは身をかがめた。マチカの肩にそっと手を置いて、もう片方の手は彼女の頬辺りに優しく添えられる。マチカはその感覚にくすぐったそうに目を細め、間近に迫ったロカの顔を見つめた。


「マチカ」


 ロカのかすかな囁きを合図にして、マチカはそっと目を伏せた。マチカの唇と、ロカの唇が触れる。戯れるように1、2度触れるだけの口付けを、それからするりとロカが舌を差し込んでくる。ついで、流れ込んでくるのは誰かの魂だ。


 自分の物でない魂を体内に取り込むという行為に身体は拒否反応を起こす。吐き出してしまいたい。水分を大量に含んだ空気を丸呑みにしているようで、この瞬間はやっぱり苦しい。苦しいけれど、こうして魂を食べなければマチカは死んでしまうのだから仕方がない。


 流れ込んでくる魂を無理矢理に嚥下して、マチカは固く目をつむった。そうすると口付ける音や息遣いがやけに耳について、耳を塞ぎたい衝動に駆られる。口の端を垂れていく涎や喘ぐような声が恥ずかしくて仕方がなかった。こうして口移しに魂を喰らう行為は何度も繰り返しているけれど、そんなことと開き直れるほどには慣れていない。


 ロカが頬に触れていた手をマチカの背に回して、宥めるようにさする。縋りつくようにロカの身体を抱きしめながら、ふと自分が食らった魂は一体どこへ行くのだろうとマチカは考える。けれどそんな思考は苦しさに飲まれて、あっという間に霧散した。


 一体人の魂はどれほどの大きさなのか。長い長い時間をかけて魂を飲み干し、ようやくマチカの唇は解放された。待ち焦がれていた空気を大きく吸い込み、ちょうど胃の辺りで存在を主張する魂の不快感に眉根を寄せる。本来は自分の体内に受け入れるようなものじゃないのだ。気分が悪くなるのも仕方のないことだろう。


「美味シイ?」

「マズイ」


 荒い息を吐きながらぐらりと縁側に倒れ込むマチカを支え、ロカが含み笑う。マチカは不機嫌に間髪入れず答えたが、その声音は弱々しかった。


 それでも、とマチカは思う。魂を食べ終わって動けなくなるのは相変わらずだけれど、最初の頃のように胃が捻じれることはもうない。自分の魂が変質してきているのだろう。そのうち食べた直後に動けるようになったり、果てには味の好みなんかも出てくるかもしれない。


「大丈夫、スグニ馴染ムヨ」


 ロカがマチカの前髪をかき上げる。少し熱が出てきたらしく、じんわりと汗がにじんでいた。気遣うように大きな黒い手のひらがぽんと頭を撫でる。


「サテ、帰ロッカ」

「ん……帰ろ」


 気怠げに答えたマチカをロカが慣れた動きで抱き上げた。それから、なるべく揺らさないようにと慎重に歩き出す。マチカの身体を支える腕はただただ優しい。




   ◆◆◆




 黒くてところどころ半透明なロカと、ちょっと欠けてしまった人間のマチカ。マチカがまだ高校生だったあの日から、2人は結局ずっと一緒にいる。


 仕方なくと言えば、半分はそうだ。何せマチカひとりでは他人の魂を捕えることすら出来ない。けれどじゃあそれだけが理由かと聞かれればそうとも言えない。


 ロカはそもそも出会った時にはまだ名前すら持っていなかった。聞けば、名前はいつか誰かにつけてもらいたかったんだそうだ。そうして期待するような空気を滲ませた彼に、マチカがつけたのがロカという名前。


 濾過する者だから、ロカ。本当はもっと、本人曰く格好いい名前がよかったらしい。しばらくは呼ばれるたびに微妙そうなリアクションを返していたのをマチカはよく覚えている。それでも今では、マチカのつけた安易な名前が随分と馴染んできたようだった。


 マチカのマンションで暮らし、寝起きし、普通の人には姿が見えないのをいいことにロカは四六時中マチカにくっついている。自分のことが見えて、気味悪がらないどころかまるで人にするように接してくれるマチカを彼が愛さない理由はない。ロカはマチカへの好意を垂れ流しにしながら、初めての“同棲生活”を満喫していた。


 かたや人とつかず離れず生きてきたマチカだったけれど、人でないロカに対してはどうにも勝手が狂うようだ。自分のスペースに踏み込まれても、好意を垂れ流されても邪険にすることができない。ただロカとの生活は思っていた以上に居心地がよかった。マチカと過ごすうちに人間は勝手に歪んで本性を露わにしていくけれど、ロカという存在はそもそもが異質で歪みようもなかったから。


 そうして2人で年月を過ごしていくうちに、マチカは成人を迎えていた。大学までは出ると母親に約束していたから、今のマチカは普通に大学生をしている。卒業すれば、今度はどこかで普通に働いて暮らすことになるだろう。


 異質だけれども今のマチカはまだちゃんと人間で、それならば人間らしく暮らさなくてはならない。だが、ロカ曰くマチカもいずれは魂が完全に変質して、人ではない“ナニカ”になる日がくる。その“ナニカ”が何と呼ばれる存在なのか、それはロカすらも知らなくて。


 とはいえ、マチカが人間でない“ナニカ”に変質するにはまだ長いことかかるらしい。今のところ変化と言えば、前より魂が身体に馴染むのが早くなったことくらいだろうか。他人の魂を喰らうことにマチカの身体が慣れてきている。少しずつ、人ではなくなっていく。


 人間でなくなったら何をしようと想像するのがマチカは好きだった。だが、ロカはそういうマチカに複雑そうな顔を向ける。ロカは人間が好きだから。


「じゃあ、私が人間じゃなくなったら、嫌いになる?」


 なんて意地の悪い質問をすればと、ロカは慌てたように大きく首を振って「ソンナコト、ナイ!」と思い切りマチカに抱きつくのだ。


 ロカは人の形をしてこそいるけれど、当然ながら人ではない。その黒くて半透明な体の中に、人と同じように脳味噌や内臓や骨その他いろいろが詰まっているのかは知らなかった。


 けれど彼は人と同じように物思いに耽ったり、マチカと軽口を叩きあったりすることができる。マチカが体調を崩せば心配してあれこれ世話を焼いてくれるし、一緒にコメディ映画を見て笑うこともする。マチカの体をぎゅっと抱きしめて、吐息のような声で「好キ」なんて言いもする。


 それでも彼は紛れもなく、マチカが生きる世界においては異質以外の何物でもない、人以外の“ナニカ”だ。そして、そんな彼に特別な――きっと恋と呼ぶべき――感情を抱いているマチカもまた異質。果たして自分はまだ人と呼べる“ナニカ”なんだろうか。マチカは時々、そんなことを考えた。もし人でなくて、そう、ロカと同じようなものになれたならいいのにと。


 マチカの身体は少しずつ変わっているけれど、相変わらず人間に対しては何の期待もしていなかったし、大学でも“教室に溶け込み、誰とぶつかることもなければ混じり合うこともない”付き合いを貫いている。恋愛についても、心の奥では諦めたままだ。ロカのことは、多分好き。それでも、それをロカに伝えようとは思えなかった。


「デモ、マダマダ先ハ長イカラ」


 そんなマチカにロカは期待を滲ませて、何度でもそう繰り返す。


 ロカは人が大好きで、嫌なところもひっくるめて愛おしんでいる。きっとそんな自分のそばにいたら、マチカもいつかは少しくらい人を好きになれるかもしれない。そして折角人として生まれたんだから、人であることをもっと楽しんでくれるように。人を心から愛することはできなくてもいいのだ。それは人でないロカが全力で引き受けるから。マチカはずっと自分のそばにいたらいい。


「ロカって変わってるよね。人なんてろくなもんじゃないよ」


 対して、マチカの答えはいつもこう。そして彼女の言う“人”には勿論マチカ自身も含まれているから、ロカはしょんぼりと肩を落とすしかない。


 ただし、最近のマチカはお決まりの台詞を答えながら困ったように微笑んでいることが多い。出会った頃はバッサリと否定していたのに。さらには「もしかしたら、そのうちね」なんて呟くようにもなった。


 マチカは、人が好きだなんてこれっぽちも思えそうにない。自分自身についてもろくなもんじゃないと心から思っている。けれどそう言えばロカが悲しそうにするから、それなら別にわざわざ否定しなくたってよかった。もしかしたら、もしかするかも。そのくらい信じている振りをしてみせたって構わない。そんなマチカの些細な気遣いは、紛れもない彼女の変化だ。


 だから、もしかしたらもしかするもしれない。ロカは希望を捨てていなかった。今のマチカはロカの好意を肯定も否定もしてはくれないけれど、いつかは「好き」と言ってくれるかも。


 そうなったら奇跡だ。けれど今までの不運の帳尻を合わせるようにマチカはロカと出会えたのだし、奇跡はもう一度くらい起きるかもしれない。


「マチカ」

「なあに、ロカ?」


 マンションへの帰り道、ロカの腕の中でマチカがそっと顔を上げれば、彼女を抱く腕にほんの少し力が込められる。


「大好キ」


 笑いながら、楽しそうにロカは言った。そう言えること自体が嬉しくて仕方がないような、そんな声で。汗で少し重たくなったマチカの前髪に口付けながら。


 対して、マチカは何も言わない。ただ、繰り返されてきたその言葉を受け入れる。けれど――心のどこか片隅で何かが緩んでいくような心地がして――何だか、幸せだとマチカは思う。そう、多分、間違いない。これは幸せで、幸運なこと。


「……あっそ」


 そっけなく呟いたマチカは今、幸せの形を、ゆっくり、ゆっくりと知り始めていた。




 - end? -

こんにちは、吉野花色です。


人外っていいですよね……と言いつつ、世間様の言う「人外」からは大きく脱線した感満載です。

さらに、設定を盛り込み過ぎて短編というより長編のダイジェストっぽくなってしまいました。反省。もしも元気と余力と機会があれば、もう少ししっかり書き込んでみたいなと思っています。


※この小説は『人外カーニバル』http://nanos.jp/amamami18/page/27の参加作品です。

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