風竜王リラ
扉がそっと閉じられる音がした。
その音を合図に、レイナはベッドから起き上がる。
今の音はルークが出て行った音だった。
「ね、セレナさん。起きてる?」
「無論、起きている」
レイナが起き上がるのと同時に、長椅子からも人影が起き上がる。
闇の中でも赤いその瞳はぼんやりと輝いた。
首を傾げたらしいセレナに、レイナがそっと囁いた。
「ルークがどこに行くのか追いかけましょうよ」
その提案に、不思議そうにセレナは訊ねる。
「何故だ?」
もうとっくに月が昇り、人間は眠る時間であることをセレナは理解していた。
実際に、レイナも眠るためにベッドに潜り込んだはずだった。
それなのに、明かりを消した部屋の中でレイナはごそごそと夜着の上に上着を羽織る。
「ルークがどこに行くか気になるじゃない。寝るところは続きの部屋だっていうのに出かけちゃったりして」
「そういうものか。人間の気持ちは私にはよくわからないな」
セレナも首を傾げながらマントを羽織った。
そして思い出したかのようにレイナに聞く。
「ところで、夜なので身を隠す魔法が使えるのだが、必要だろうか?」
月明かりの下を、ルークは進む。
目指すは母である風竜王が滞在する、城の外れにある塔だった。
城に滞在する竜は、王族の護衛をするのが原則だ。
母が護衛するのはフイネイ王妃。
王妃はこの塔から滅多に出ることがない故に、ルークは母に会うためにはその塔を目指さなければ無かった。
だが――。
「おや、ルーク。王女を放って出歩いていいのかい?」
一人城の庭を散歩しているような気軽さで、出会った母に絶句する。
会うのは実に数百年ぶりというから、自分の目を疑った。
昔の姿が嘘のように痩せ細った姿。
月の淡い光でもわかるほど、彼女は顔色も悪かった。
白い物が混じった髪も、ルークは今まで知ることはなかった。
恐らくジークは知っていたはずだ。
「母さん……」
「久しぶりだねぇ。すっかり立派になって――とは言えないのが悲しいわ」
くすっと笑う仕草は、まぎれもなく母のものだった。
母であるリラ・エアスト・ヴィント。
会ったら伝えなければならないことがあった。
それをも忘れてルークは思わず言っていた。
「護衛はどうした!?」
リラはフイネイ王妃のサーラの護衛のはずだ。
護衛対象を放っておいて、何をしているのだとルークは自分の事を棚に上げた。
「サーラの事かい? あの人は今王都まで散歩に出ているよ。私は、留守番だね」
「護衛を置いて、か? 俺が言うのも何だが護衛を何だと思ってるんだ」
「闇竜の気配が街の方でしていたから、様子を見に行ってもらったんだよ。私はもう長いことは動けないからねぇ。まあ、行ってもらったのが貰ったのは無駄になったみたいだけどね」
風竜王であるリラは、気配にも敏い。
だから城に来た闇竜の気配を感じてそう言ったのだろうとルークは判断する。
しかし、リラはルークの背後に視線を向けていた。
「連れてきてくれるとは、会いに行く手間は省けてよかったよ」
「え?」
「あ、バレた……」
微かな声が聞こえて、ルークは硬直して一瞬後に振り向く。
しかしそこには誰もいない。
ただ夜闇が広がるだけだった。
「?」
「上手に気配を隠しているけど、出ておいで。私は何もしやしないよ」
リラがそう声を掛けた次の瞬間に、闇の中から二人の影が現れた。
「何故わかったんだ?」
無感情な赤い瞳に疑問符だけを浮かべて、セレナは呟く。
隣のレイナも不思議そうだった。
ルークは突然現れた二人に、驚き何も言えない。
「闇の匂いがあれだけ濃ければわかるよ。やっと会えたね。私はリラ・エアスト・ヴィント」
「セレナ・ツヴァイト・ドゥンケル。――風竜の使者とここまで来た」
セレナの言葉にリラは目を見開き、笑った。
ルークは自分が報告するべきことを先に言われて、唖然とした。
どうして尾行してきたのか、どうやって闇に紛れてやって来たのか。
問う暇もなく、事態が進んでいく。
「そう。カルアからの使者ね。その子も城に来ているの?」
「来ていない。彼は王都の宿にいる」
セレナは聞かれた事にのみ淡々と答える。
そうなると疲れそうだが、リラは気にしていないのかのんびりとしたものだ。
「あら、そう。じゃあ今度その子を城に呼ばなくてはね。ルークもその話かい?」
話を振られたルークは渋面で頷いた。
自分の口から話そうと覚悟を決めてやって来たというのにそれが無駄になってしまうとは。
がっくりと内心思ったが、後にはもう戻れない。
「そうだよ。連れて来るのか? いつがいい?」
「そうだね。次に今いる竜王が集まる会議があるから、その時にでも……」
「大事じゃないか」
フイネイの竜王は何年かに一度会合を開く。
そこで人間との関わりを今後どうしていくのか話し合うのだが、昔の出来事があってからは関わるのは風竜だけ。
炎竜はその事件で王を失って以来、後継者も決まらず人間を憎み嫌っている。
他の竜は常に静観を保っていた。
「私の後継者を決めるのだから。それぐらい当然だと思うけどね。その時はルーク、よろしく頼むからね」
「え? 俺なの? ジークの方がふさわしくないか?」
母から指名され、ルークは狼狽える。
長年変わらず人間と交わる立場をとり続ける風竜。
その王ともなれば、やはり長年人間の護衛を続けていた弟がふさわしい。
そう思っていたのだが、母の考えは違うらしい。
「ジークが跡を継いだだけでは意味がないんだよ。変わらず人間と共にいるあの子では。一度人間から離れた貴方でなければ、炎竜は歩み寄ってはくれないだろうさ」
「……」
「貴方が王にふさわしくなければ、使者はそう告げて帰るよ。炎竜がそうだったようにね」
炎竜は数百年前の事件で王は自分の子を庇って亡くなった。
それ以来後継者候補だったその子は人間を忌み嫌っている。
数年前に、南大陸から炎竜の使者がやって来たことがあるが、後継者候補を見て王にはふさわしくない、とそのまま帰ってしまった事があった。
自分がもしそうなったら、と思うと頭が痛い。
「まあ、きっと大丈夫だよ。さて、王女とは久々に会うね」
「そうだったかしら……」
親しげに話しかけるリラにレイナは不思議そうに首を傾げた。
目を細めてその仕草を見つめた後、リラは意味ありげにルークに視線を移す。
何だか居心地が悪くて、ルークは身じろぎする。
「ルークと仲良くおやり。息子をよろしく頼むよ」
「はい!」
レイナが元気よく返事をする。
それは何か間違っているのではないかとルークは思う。
しかし言えるわけもなく、顔をしかめているしかない。
「さて、ルーク。王女を部屋まで送っておやり。私は闇竜の子と話があるんだ」
「わかった。そのうち風竜の使者を連れて来るよ」
ルークには言えないような密談をするのだろう。
セレナをこの場に残すことに少し不安を覚えたが、母に逆らう事も出来ずにため息をついた。
「戻るぞ」
「えー?」
「昨夜うなされたところだろう。今のうちに休むんだ。まったく、休んだと思ったら部屋をこっそり抜け出すなんて」
不満そうなレイナの手を強引に握って、ルークは歩き出す。
「ちょっと、ペース早すぎるわよ」
ルークの足のスピードに、引っ張られる形で歩き出したレイナは文句を言った。
もうセレナやリラの姿も見えない闇の中だ。
竜は夜でも少し目が利く。
その竜に合わせて、夜目の利かないレイナが歩くのには無理がある。
レイナはそのうちに躓いて倒れかかる。
「っ……!」
それをとっさにルークが抱き止める形になる。
触れあった温もりに慌てたのは、だきとめられたレイナではなく、抱き止めたルークの方だった。
「だ……大丈夫か……?」
「もう、ルークが歩くの早すぎるのがいけないのよ」
プリプリと怒るレイナは身を起こし、裾をはたく。
そして歩き出そうとして、また何かにつまずいてこけかけた。
「危ないって。ちょっと戻り方考えよう」
それを腕で支えて、囁く。
実行するには、少し問題のある内容だったのだが。
「どうするのよ」
聞いたレイナに返答するのに、ルークは少し躊躇った。
しばらく後に手を伸ばして小さく囁く。
「飛ぶ。しっかりつかまってろ」
レイナの腰に手を回し、ルークは彼女を抱き上げて空を飛ぶ。
はじめからこうしていればよかったのだ。
抱き上げられたレイナの頬がほんの少し赤くなっていることにも気づかず、ルークはひたすら部屋を目指した。