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強者の苦悩  作者: 林葉
砂の王
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純白の追跡者

 少年セトは森を歩いていた。

 木の枝にぶら下がった蔦同士が空中で絡み合い、セトの鼻先に垂れている。少し湿った土の匂いが辺りに立ちこめ、どこからともなく聞いたことも無いような鳴き声が聞こえてきた。


 人の手が一切加わっていない自然の迷宮。それが境界線だ。足を踏み入れ、越えようとすることが無謀だと言われているこの境界線に少年は足を踏み入れたのだ。


 ガサッとセトの横で音がした。衝撃でちぎれた葉が舞う。その瞬間、隣で歩いていたアラマンの腕が光った。一瞬の閃光と悲鳴、そして血しぶき。鈍い音を立てて土に沈んだのは、獅子と山羊の頭を持つ魔物キマイラであった。


 獲物を襲う顔のまま息絶えたキマイラが生前の凶暴の眼のままでセトを睨んだ。遅れて地面がどす黒く変色する。流れてきた血がセトの足下に到達した。それに気付いたセトは慌てて足をどけた。


 セトの目の前に死の見本があった。死ぬとはこういう事だ。体に穴を開け、血を流し、何とも言えないような顔で虛空を見つめる。これが死だ。幼いセトですらそれは充分に分かっていた。しかしそれは知識としてあるだけで、今までは脳裏におぼろげな状態で宙に浮いていたのだが、今この瞬間それは嫌らしいほどに綺麗に縁取られてセトの網膜に焼き付いた。


 やがてセトは時間を取り戻した。いつまでもこの肉の塊を観賞するわけにはいかない。血の臭いは他の魔物を誘う。早いところ歩き出す必要があるのだ。


 上を見ると何層にも重なった葉の隙間から日光が零れて、歩くたびにその模様が変わっていく。下を見ると蛇や蜘蛛が「我らの物」と言わんばかりに列を成してセトの目の前を横断している。

 美しさと濃厚な殺意が入り交じるこの密林。藻掻けば藻掻くほどに足を取られるだろう。それでもセトは歩を前に進める。


 逃げる時一丁だけ持ってきた腰のサーベルを握り、視界を塞ぐ蔓を右へ左へ薙ぎ払う。その古くも良く手入れされたサーベルはセトにとっては頼りになった。黒い蛇やキマイラにとっては玩具のような物でもだ。草木を豪快に薙ぎ払うサーベルに、セトは在りし父の背中を見た。


 父は若い王であった。そして強かった。疲れを滲ませる狩人のためと一肌脱いだ日には「じゃあ行ってくる」と一言だけ残して、狩人に混じって城を出たものだ。狩から帰ってくると水浴びで汗を流し、ご神木の側で自分と一緒に座り、王とは何かをよく語った。


 セトは父を案じた。だが訳の分からぬ輩に平伏すような父では無い。その事がセトにとっては少しばかりの気休めになった。いずれにせよ、今のセトに出来ることは森を歩くということだけあった。


 ぐう、とセトの腹が鳴った。それもそのはず。セトは街を出て以来飯を食べていない。セトは辺りを見渡して食う物を探し始める。しかし食えるような物はちっとも無い。いや、あるにはあるのだが、蛇や蜘蛛をサーベルでぶっ刺して丸かじりするほどの気構えは無い。


 よく、童話の主人公が森にいる兎やら蛇やらを丸焼きにして食べるという場面があるが、素人が真似をするべきでは無い。火加減を間違えれば生焼けとなり、雑菌で腹を壊して下痢や嘔吐を引き起こす。水が得られにくい場所で下痢は致命的。高熱と脱水症状であっという間に木々の肥料と化すだろう。


 従ってセトが探すのは果物であった。そのお国柄、ありとあらゆる種類の果物が流通するサンマドに住むセトは果物には詳しい。


 その時、丁度セトの目の前にパイナップルが群生していた。

「……パイナ、ップル?」

 それはセトに目には奇妙な代物に映った。「これはパイナップル」と言われてしまえばそうだと思うのだが、どうにも違う。何かが違う。それはうろ覚えの老人が書いた絵のような、間違った知識を持つ人間が説明するそれのような何かだ。ぱっと見るとそれであるが、全体をよく見るとまるで悪意を持って似せたような部分が浮いて見えるのだ。


 これを見たらフルーティアは怒り狂うだろうな、とセトに思わすほどの出来だ。ちなみにサンマドでは果実を侮辱したり粗末に扱うことが法律で禁止されている。このパイナップル擬きはその法律に触れかねないほどの代物であった。


 しかしセトは空腹だ。目の前に現れた瑞々しいパイナップル擬きを見て判断力が鈍っている。すぐさま駆け寄り、パイナップルをもいだ。


「――うう゛ぇ!」

 セトは腕を真横に振った。遅れて何かが潰れる音が鳴る。木に激突して黄色い液体を撒き散らしながら地面に転がったのはパイナップルだった。


 おかしな物を見た、空腹による幻覚に違いないとセトは己に言い聞かせた。大体パイナップルが噛みついてくるなんておかしな話だ。いや、おかしいのは自分だ。何が起こってもおかしくは無い境界線で、これしきのことを予測出来ないようでは二流。


 そんな奇妙な思慮にふけっていたセトはまた悲鳴を上げた。頬が燃やされるような感覚を覚えたからだ。実際に燃やされたわけでは無い。しかし似たようなものであった。今まさにパイナップルの群生地が燃えていたのだ。犯人は想像しなくとも分かる。

 隣に立っているアラマンは腕を真っ直ぐ伸ばしたまま目に赤い光を灯していた。


「はっ……はは。はっはっは」

 思い出せば実に馬鹿馬鹿しい光景であった。セトは地面に座り込んだ。せっかくパイナップルが食べられると思ったのにこの有様だ。こんな魔境で普通の果物にありつけるなどと、少しでもそんな甘い考えを持った己を叱責した。パイナップルのように甘い考えであった。空腹が与える意識の傷は深かった。


 さっきまでは大したことなかった空腹感が、お預けになってからもの凄い勢いで増大した。「食いたい」という心中の言葉がけたたましく響き渡る。体が、脳が訴えかけるのだ。食事という生きるために最低限必要な行動を。


 セトは果物のこと以外を考えるのが困難な状態だ。一歩歩くごとに、蔓を一本薙ぎ払うごとに、果物達が軍隊のように綺麗に整列して飛び跳ねながら少年の眼前まで迫ってくるのだ。


 果物の国だ。果物の国へ行きたい。林檎の果肉で出来た城に住んで、胸はオレンジ、尻は桃で出来た召使いを頭から丸かじりしながら、ブドウが敷き詰められたベッドに寝っ転がってバナナを枕代わりにする日々。城の中の果実を断り無しに食す輩を断頭台の錆にして、名を刻んだスイカの墓を真っ二つに割って種ごと食べたい。


 ――という具合に妄想は激しくなる一方だ。空腹で気が触れたセトは雄叫びを上げながら地面を思い切り叩いた。

「うわあああああああ!」

 今のは怒りの雄叫びでは無い。驚きの雄叫びであった。

 当たり前だ。拳が地面に当たった瞬間、めきめきめきと音を立てて木が現れたのだ。


 セトは腰を抜かした。目の前一面が真っ茶色! 何てでかい木だ。でかい、と言う言葉で済むのかどうかさえ怪しい。それは自分がいつも見ているご神木程では無いが、それでも驚くには十分であった。

 

 やがて、一瞬で沸騰したセトの精神は徐々に冷めていった。

 セトの脳裏にフルーティアの顔が思い浮かぶ。そうだ、あの果物だ。あの夜、セトは去り際にフルーティアから一つの果物を貰った。それは砂漠を荒く途中に食べた物だ。これしか無い。あのフルーティアの力だろう。


 セトの目の前に赤い実が落ちてきた。燃えるような、林檎によく似た実だ。それを一口囓る。言葉が出なかった。甘みが、塩味が、酸味が、苦みが舌から食道へ、食道から胃へ、胃から全身へゆっくりと巡回していく。


 体の芯から火照って、思い切り手足を動かさなければ気が済まないほどに力がわき上がる。向こうの方で飛び立つ鳥を見れば、その羽の一本一本の繊維が綺麗に縁取られて見えている。


 恵みだ。神の恵みだ。故郷の砂漠全てを見守る守り神フルーティアの慈悲そのものだ。

 セトは確かに見た。葉の隙間から差し込み木を照らす光にフルーティアの後光を見たのだ。もう飢えとはおさらばだ。もう食料を捜す必要は無い。

 セトは確信していた。この木を出す力は己の感情と繋がっており、必要に応じて使える物だと。


 セトの目の前にまた似たような果実が落ちてきた。セトはそれを食べようと掴んで持ち上げる。

 その時、影のような物がセトの視界の隅から飛んできて果実の姿が消え失せた。


 何か鈍い音が鳴った。音の方を振り返ると白く長い槍のような物が、自分が出した木に刺さっており、その切っ先にさっき持ち上げた果実が刺さっている。果実の黄色い汁が白い槍を濡らし、水滴が地面に落ちた。


 その次に槍はぬっと木から抜けて、セトの視界の左から右に走った。セトはそれを目で追った。そして目を見開いた。

 全身真っ白の人が人差し指をこちらに向けている。その指の先は黄色い汁が付いていた。セトの脳裏に電流が走った。


 明らかに異常な光景だ。真っ白な人間が服も着ないで自分のことを凝視しているのだから。いや、そもそも人間かどうかすら怪しい。というか人間では無いだろう。


 蛇に睨まれた蛙とでも言うべきか、セトはその場から動くことが出来ない。自分を真っ直ぐに見つめる鋭い視線が、小指の動き一つでも逃さまいと捉えている。


 その時、アラマンが動いた。

 腕を真っ直ぐに伸ばして閃光を放つ。雷鳴のような轟きが辺りに広がって、閃光が白い奴の胸を通過した。遅れて焦げた匂いが立ちこめて、白い奴の胸に風穴が開いた。

 白い奴はその穴をしげしげと観察すると、その場所を撫でた。すると、みちみちと音がして風穴を白く塗りつぶしたように元に戻った。そしてニヤリと笑った。


 その刹那、白い奴が残像になった。セト背中が一気に冷える! セトは勘で後ろに転がった。アラマンがセトの前に躍り出る。

 耳を突き刺すような甲高い音がして、アラマンの胸に白い槍が突き立てられる。


 だが槍は一向に刺さる様子が無い。アラマンの硬い素材によって防がれている。白い奴は一瞬だけ戸惑った顔をしたが、またニヤリと笑った。そして片方の手の人差し指をセトの顔の方に向ける。

 アラマンは手をセトの顔の前にやった。槍が弾かれた。


 アラマンが反撃の閃光を放つ。腕が光った瞬間、白い奴は素早く横へ跳躍。元いた場所を閃光が通過し、周辺の草が燃える。

 白い奴は腕を棒のように伸ばして、一気にその場の木を登った。上一面に広がる葉が白い奴の姿を隠した。


 アラマンは即座に分身を作り出し、セトを抱えさせて駆け足を始めた。アラマンは走りながら幾つもの分身を作る。

 分身達がセトの周りを覆うように隊列を作る。


 地面が突然陥没して舞い上がった土が人型に形成されていく。その人型がアラマンの分身となり、セトの守りを固めるように列に合流した。

 それが同時多発的に行われ、今やセトの周りにはもの凄い数の分身で埋め尽くされた。

 見渡す限りの石の兵。どこを見ても兵、兵、兵! もし彼ら一体一体に記号を付けていくならば、インクがいくらあっても足りない。


 人海、まさしく人海だ。石の海だ。その海は一つの動きを作り、まるで波のように森を突き進む。歩幅、歩く速さ、腕の振り方全てが同期され、どんな優秀な軍隊による行進でも、それが霞んで見えてしまうだろう。

 森が揺れている。何層にも重なった足音が森に木々を揺らし、異変を察知した鳥たちが一斉に飛び立つ。


 これだけ分身がいれば白い奴も手が出せないだろう、とセトは思った。ふと余所を見ると、白い奴が太い枝の上に立ってこちらを見下ろしていた。

 それに気付いた分身達が一斉に閃光を発射する。嵐の時の横殴りに降る雨のように閃光が走り、白い奴が立っている木もろとも破壊した。


 だが白い奴は閃光が当たる寸前で真上に跳躍して難を逃れた。そして凄い速さで着地し、姿が消える。


 分身達は攻撃を止めた。どこを見渡しても白い奴がいない。

 あまりの数の多い戦力に閉口して逃げたのだ、とセトは思った。普通に考えれば、一人が大多数を相手に出来るはずが無い。鋭い槍を通さないアラマンが相手なら尚更だ。

 この調子では、森を抜けるのは早いだろう、と安堵した。


 目の前で土が舞い上がった! 

「ぎゃふっ!」

 突然、セトの首が絞まった。何て冷たい手だ。セト自身の首に巻き付いている物の感想であった。

 感情の無い無機質な目がセトを見つめる。人間が藻掻き苦しむ様を、意見や感想無しにそのままの事象として観察しているかのような目だ。


 セトはとっさに白い奴の腕を掴んだ。その時、突然腕から長い蔓が生えて、あっという間に白い奴の腕に絡みついた。さすがの白い奴も驚きを隠せない様子で、片方の腕を刃に変えて蔓を切ろうとする。だが分身達はそれを逃さなかった。


 すぐ隣にいた分身が、下からすくい上げるように白い奴の顎先を殴る。とっさの判断を失ってまともに攻撃を受けた白い奴は空中高く飛ばされた。

 そこへ無慈悲な閃光が雨のように注ぎ、まるで絵本に出てくるチーズのように白い奴を穴だらけにした。


 白い奴は無様に地面へ崩れ落ちて動かなくなった。

 分身達はそれを見ること無く前へ進んでいく。


 やがて雨が降り出した。降りしきる雨粒が動かなくなった白い奴の体を濡らす。どこかに隠れていた蛙が意気揚々と跳びだし、白い奴の上を跳ねた。蛙は白い奴の胸を蹴って、手の辺りに着地した。


 ――ぐしゃっ。


 動かなくなったはずの手が握りしめられて、その隙間から赤い水が滲み出た。

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