生焼けの憎悪
ルーカスは一瞬何が起こったか理解できなかった。
昼食を食べた後、ルーカスは書類を整理していた。それも一区切り付いて、目の前の特注の扉を見て息を吐いた。
その時、もの凄い音を立てて扉が木っ端微塵に。
飛び散る破片が机の上のグラスに当たって、グラスは粉々になる。目の前の扉は、子供がチョコレートでも囓ったようにぐしゃぐしゃになっていた。
そこから現れた一人の人物は破片の中の一つを踏みつぶしてルーカスに近づいてくる。それを見て、やっと状況を把握したルーカスはこう言うのだ。
「お陰様で、扉屋の娘と仲良くなれましたよ。デュークさん」
デュークは執務机の縁に無遠慮に片足を預けて、机をルーカスの腹に押しつけている。
「そうか、今度は葬儀屋の娘と仲良くなると良い……。それで何時になったら支払うのだ?」
「ああ、その事なんですがちょっとじ――」
「それは私が知ることでは無い。全部お前の仕事の筈だ」
ルーカスは、デュークの名を借りて仕事を取って、報酬の一部を貰っている。そのかわり、交通手段や宿屋、報酬の管理などは全てルーカスが手配する約束になっている。デュークは、ルーカスなど居なくても幾らでも仕事を取ってこれる。だからこのような条件だ。
「私の名を借りて仕事をするのだから、それくらいのことはしろ」と言った具合だ。
「まあまあ、聞いて下さい」
「……」
デュークは無言で続きを促した。
「貴方に支払われるはずの報酬は防衛費としてあの町のギルドが隣町に請求しているのですが、その町の領主が払えないと言うのですよ。ギルドの職員も粘り強く取り立てているのですが、聞く耳持たずで――」
「行ってくる」
デュークの行動は早かった。ルーカスが言い終わらないうちに背を向け、部屋の敷居を跨ごうとしている。そこへルーカスは一声かけた。
「行くなら早いほうが良いですよ。あの領主、脱税をしていますから多額の罰金を払う羽目になるでしょうな。そうなれば貴方も取り切れないでしょう」
「どこの情報だ?」
「……税務官の娘からです。私にも色々あるんですよ」
「……」
デュークはそれ以上は何も言わずに部屋を出て行った。
扉の上に飾ってあったギルドの紋章が落ちてきて、机の所まで転がった。滅茶苦茶になった部屋の中で何時もと変わらずに書類を見るルーカスの姿があった。
その頃、婦人の屋敷ではニアンが丸い奴らの世話をしていた。婦人と丸い奴の食事作り終えた後、ニアンは休憩に入った。
「ちょっと、ニアン。彼よ、彼」
「え、まじで? 行ってくる」
彼の来訪をリッカから聞いたニアンは弾かれたように調理室を出た。
その際に服の袖がボウルに引っかかって、大きな音を立ててボウルが落ちた。リッカはそれを苦笑いしながら拾う。
デートの休みが取れなかったニアンはそれ以降、口数が減って気が滅入ったようにリッカは思えた。しかし、意気揚々と出て行ったニアンの姿を見たリッカは安心するのであった。
ニアンが外へ出ると、彼が何時ものように門に寄りかかっていた。そこでよく掃き掃除をする給仕はニアンに目配せをすると、そそくさと屋敷の中に入っていった。
「元気そうで何よりだなあ」
「あの……。なんか、ごめ――」
「はっはっは、別に構やしないって」
ニアンは謝ろうとしただけだが、彼にはそれが何のことかすぐに分かった。
この領主の給仕という仕事の性質はよく分かっており、ニアンが一番気に病まないような返答を彼は選んだのだ。そう、何でも無いように応えるのだ。それが自然で優しいやりとりだ。もちろんニアンもその事は感じていた。
デートに来れなかったからと言って機嫌を損ねるような人ではないと言う事はニアンは知っていた。しかし、それでも不安はあった。だから今の彼の返答を聞いた時、安心した。結局は何時もの彼なんだ、と。
少しの間、沈黙が続いた。少し冷たい風が吹いて地面の砂が巻き上がった。
「あの――」
「大事な――」
二人が同時に喋ろうとする。ニアンが慌てて彼に譲った。彼は後頭部を掻きながら続けた。
「大事な話があるんだ」
ニアンは目を丸くした。どう返事して良いか分からなかった。
彼は続ける。
「住む場所を変えないか?」
ニアンが予想もしなかった質問だ。ニアンは驚きで何も言えない。
「実は首都のギルドの所長から声を掛けられて、首都で仕事をしてみないか、て言われたんだ。隣町の所長も推薦状を書いてくれるって」
彼の実力は中々のものであった。等級も三級で、冒険者の中では才覚のある方だ。だから隣町の所長に可愛がられていたのだ。
そして最近になって、もうすぐで二級に昇格しようかと言う話が来た。この時、所長は大層嬉しげに、「うちのギルドから二級が出るなんて。凄いわ」と言ったのだ。
彼は続けた。
「そうなったら、今まで以上に収入も増えるし条件も良くなるんだ。まあ多少のリスクはあるけどさ。それでも、君をこんな所から出せるんだよ!」
ニアンは両手で口を覆った。こんなに嬉しいことはない。しかし、一つの心配事があった。
「でも、親が……」
「知ってる。だから、ご両親も連れて行こう! 僕が居れば住むところにも食べるものにも困らないよ」
「いや、あいつに借金してるでしょ? 返すまではきついかも」
それを聞いた彼は両手を振りながら答えた。
「はっはっは、何せ一回出てしまえば良いんだよ。後は僕が引き受けるよ。借金だって、ね」
二級の冒険者は、はっきり言って“勝ち組”だ。収入も、下手な事業者の頭取より多い。
貴族街まではいかないものの、一等地に戸建ての家を建てて何人かの家族も不自由しない暮らしが出来るのだ。
そして彼の言ったこと。両親を連れて住む場所を変える、居住食に困らない。これらが表すことは、即ち結婚!
断る理由なんて無い。
ニアンの目が赤くなった。両手で顔全体を覆うと、鼻水を啜る音が聞こえた。
「はっはっは、泣いているのかい?」
「ち、違うし! 目にゴミが……」
風も同じように、誤魔化すように吹いた。さっきよりも強い風らしく、地面の落ち葉が一気に舞い上がる。
一頻り泣いた後、ニアンは落ち着いた。
「でも待って。辞める頃合いを探すから」
「いつでも良いよ。じゃあ僕は手続きしておくね」
彼は揚々と去って行った。
残されたニアンの腹の内でこみ上げるものがあった。
もう扱き使われなくて良いんだ。もう、ねちねちと文句を言われることも無いんだ。もう糞婆の顔を見ることもないんだ! もう奴らの世話なんてしなくて良いんだ!
仕事を辞めた後の受け皿。いや、箱船と言っても良いほどの居場所が出来た彼女にもう怖い物は無かった。
ニアンは、「死ね、ババア」と書いた辞表で糞婆の頬を叩いて、丸い奴をハンバーグにして屋敷を去る自分の姿を妄想した。
その日の夕方、ニアンはこれまでに無い上機嫌で、時折鼻歌を歌いながら夕食の支度をしていた。そして唐突に呟いた。
「あたし、ここ出るから」
「はっ?」
リッカは素っ頓狂な声を上げた。「へぇ」で済ませられないような話をまるで世間話でもするように言ったのだから、訳が分からないのだ。
「ちょちょ、そりゃまた……。急すぎでしょ!」
「ほら、彼がね――」
バアァン! と耳をつんざくような音が玄関の方から聞こえてきた。続いて木が割れるような乾いた音が等間隔で響いた。
「ちょっと何なんですか! あなた! ひっ、ひいいぃ……」
近くにいたであろう給仕の一人が悲鳴を上げた。
それを聞いたニアンとリッカは調理室の入り口から玄関広間をのぞき込む。何人かの屈強な男が調理室の入り口を横切って広間の方へ走っていった。
リッカは口をぽかんと開けたままニアンに包丁を渡し、自分は麺棒を持った。
「ここに来るとは限らないわ」
「そうだと良いけど……」
二人は入り口近くの棚の陰に隠れた。
広間の方では何やら、凄まじい破壊音が響いている。
何かを叩く音、ガラスが割れる音、野太い悲鳴。そして鈍い音が何回か鳴ったと思えば、急に静かになった。
少しすると、カーペットを踏む足音が聞こえてきた。
二人は顔を見合わせた。
「こっちに来る?」
「いや、階段の方だと思う」
「家の主はどこにいる……!」
「良かったあああ……」
二人は安心した。襲撃者はここには――。
「ひ! ひ、ひゃい!?」
来ていた。
「い、いい今なんと?」
二人は青ざめた。フードで顔も見えない襲撃者がこちらを見下ろしているのだ。先ほどの破壊音の源だ。二人は慌てて武器を背中に隠した。
「包丁と棒を捨てろ。今すぐだ」
甲高い音と低めの音が響いた。意外にも心地よい音だった。
得体の知れない襲撃者にニアンは勇敢にも問いかける。
「あ、ああ……あの、何の用で……」
「家の主はどこにいる?」
「あ、案内……しましゅ」
知らない、と答えられるはずも無かった。ましてや、あの糞婆を庇う義理もない。ニアンとリッカはビクつきながら襲撃者を案内する。前が二人で後ろが襲撃者という配置だ。
襲撃者は常に二人の背中を見ている。二人は恐怖で後ろを向くことが出来ない。まるで首を石膏で固めてしまったかのようだ。
調理室を出て広間にたどり着くと、広間の真ん中で男達が、布団を投げ捨てたように積み重ねられていた。そして入り口の扉は無残にも破壊され、風がひっきりなしに吹いてくる。
二人は二階へ上がり、何時も婦人がいる部屋の前へ来た。
「もういい。下がれ……」
「ひっ、ご、ご……ごゆっくりぃ!」
「ごゆっくりい……」
二人は慌てて廊下の角に隠れた。
一人残された襲撃者は脚を上げて、勢いよく扉を蹴破った。
耳が潰れるような音がして、扉は前方へ回転しながら飛んでいき、壁に激突して飛散した。
「そ、そそ……そこまでよ!」
部屋の隅で震えている婦人が苦し紛れに言い放った。両腕に五匹の丸い生物を抱えている。
デュークが近づくと婦人は壁にめり込みそうな勢いで仰け反った。
「こ、こんな奴。早く片付けてちょうだい!」
婦人が合図すると入り口から二人組の男が入ってきて――。
崩れ落ちた。
一人は口から血を出し、もう一人は腹部から紐状の物を溢れさせて絶命していた。
婦人は何が起こったのかまるで理解できなかった。襲撃者の体が一瞬だけ震えたかと思えば、護衛が泥のように崩れ落ちたのだ。襲撃者は体の向きすら変えていなかった。いや、そういう風に見えただけかも知れない。
「延滞金込みで二億だ。払え」
婦人の頭の先、心臓、腹、足のつま先をおぞましいほどの寒気が通り過ぎた。婦人は歯をがちがちと鳴らし、部屋着の下半身の部分を盛大に濡らした。目は見開き、化粧はひび割れ、顔は段々と青くなっていく。本当に貴族なのかと疑うほど醜い顔であった。
その時、婦人の腕の中の丸い奴が歯を見せて唸った。
何時もなら、どんな人間も声一つで動かせてしまう婦人が、たった一人の人間に恐ろしい目に遭わされているのだ。丸い奴はこの状況を婦人の危機だと感じた。
自分ならやれる、と思った。日頃からニアンに噛みついたりして、尚且つ反撃も貰わなかった事から、自分は婦人の次に強いと思い込んだのだ。目の前の人間など、ニアンと同じ。反撃すら出来ない弱虫であると。
だから丸い奴は飛びかかった。しかし、襲撃者の直前で掴まれてしまった。体の後ろの部分を掴まれて、噛もうと思っても噛めない。もはや打つ手がない。
そして襲撃者は、勇敢にも飛びかかった丸い奴をブチ投げた。
婦人の目に一瞬だけ肌色の残像が見えた。その次に水を打ち付けたような音が聞こえた。音のした方を見ると、壁に赤くて歪な染みが出来ていた。その染みから一筋の血が下へ流れて、潰れたトマトによく似た物体にたどり着いた。
静寂が部屋を支配した。そしてどこからともなく、喉の潰れたような声がした。
「あ゛あ゛……、ち……ち、ちち、ちが……違う。天使ちゃんが、天使ちゃんどこ? ちょっと、ちょちょニアン……どうしてあんな所にトマトが。は、はやく掃除しなさいよ。はやく天使ちゃんを探して……ちょうだい。どうして急に消えちゃったの? 天使ちゃんが、天使ちゃんが、天使ちゃんが、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」
婦人は残りの四匹を抱えたままへたり込んだ。
襲撃者は婦人に近づいて、一匹の丸い奴を引ったくった。そしてその腕を真上に上げて――。
「ま、まって!」
叫んだのは婦人ではなかった。襲撃者が振り返ると、そこにはニアンの姿が。婦人は藁にも縋る思いで話しかけた。
「ひひっひ……ニアン、早く天使ちゃんを探し……」
「あたしにやらせて! それ!」
ニアンは婦人のことは無視して襲撃者に話しかけた。
「何のことだ?」
襲撃者は訝しんでいる。ニアンは意気揚々として説明した。
「ちょっと、その出来損ないに恨みがあるの。貸して」
「まあ良いだろう……」
ニアンは襲撃者から丸い奴を受け取った瞬間、思い切り地面に叩きつけた。
赤い血を撒き散らし、ニアンの足下を汚す。だが丸い奴はまだ生きていた。ニアンはその丸い奴を足で踏みつける。
「はっはっはっは! 何なのよ、その顔。まるで訳が分からないって感じ。そりゃそうだろ。昨日まで貴方が噛みついてた相手だもんね」
婦人も何かが壊れたように、ニアンの何かも粉々に砕け散ったようだ。
「なんであたしがやり返さなかったか分かる? あの糞婆がいたおかげよ。でもそれも今では関係ないわ。気分はどう? 貴方の大好きな大好きなお婆ちゃんがこんな事になってんだよ。ていうか、聞いてんのかよ」
ニアンは半笑いで、丸い奴を踵で小突いた。小突いたのが三回目の時、丸い奴がついに噛みついた。しかしニアンは脚を上げて、同じように叩きつけた。
婦人は口を開けたままこの光景を見ている。そして何か言いたげにニアンの方を見た。
「あら、貴方もやる? 結構面白いよ、これ」
「そ、そそそんなことしたら……うった、うったえ――」
「訴えてごらんよ。この人連れてくるから。はっはっはっはっは」
ニアンは隣の襲撃者を指さした。婦人は声にならない悲鳴を上げた。
「さて、この家に金はどれくらいある?」
「な、無いわよ! 出て行って」
「そこの本棚よ。壊してごらん」
婦人の否定にかぶせるようにニアンが説明した。
襲撃者は本棚を蹴りつけた。粉々になった木材から覗いたのは、取っ手の付いた色目の違う床であった。
襲撃者は取っ手を握って蓋を開けると言うことはせずに、やはり蹴破った。
隠し部屋へ入っていった襲撃者を見送ったニアンは婦人に向き直った。
「さてと、続けようか」
ニアンは懐から包丁を取り出した。
「なっ! 何する気よ!」
「そういえば夕食がまだだったわね。作ってあげる」
ニアンは足下に転がっている息絶え絶えの丸い奴を引っ掴むと、いきなり包丁でぶっ刺した。
血が只漏れの丸い奴をワイングラスの上空に持ってきて、血を溜めた。
そしてそれは一先ず机に置いて、青白くなった丸い奴を半分に切ろうとする。
しかしニアンの包丁は切れ味が悪いらしく、押したり引いたりするたびにゴリゴリと音を立てる。
その音に他の三匹は怯え、婦人の腕の中で震えている。婦人は呆然とした顔でニアンの所業を見ていた。
ニアンは何回も何回も執拗に切りつけて、丸い奴の元の形などさっぱり分からないくらいに細切れにしてしまった。
包丁は錆が付いたように真っ赤になり、ニアンの爪の間に汚い肉が入り込む。ニアンがその手を拭くと、黄色い脂肪のような物がボロボロと床に落ちた。
「生ハンバーグのできあがり、と」
「ひっ、ひひ……」
婦人の頭の中に言葉などという物は何一つ浮かばなかった。浮かんだのは恐怖と絶望であった。
ニアンは肉片を鷲掴みにして婦人の口の前に持ってくる。
「食えよ。せっかく給仕が作ってくれたんだよ。はよ食え」
ニアンが肉片を握りしめると、ニチャニチャと音を立てて指の間から白い脂身が飛び出す。
中々口を開けようとしない婦人にニアンは苛立ちを覚え、婦人の口元を思い切り握った。
婦人の口内を酷い痛みが襲う。歯が口の内側に食い込み、中いっぱいに鉄の味が広がった。この女性とは思えない力に屈し、ついに婦人は口を開けてしまった。その刹那、ニアンの右手が婦人の口に押し込まれる。
鉄の味、生臭さ、生肉の不快感。様々な要素が婦人を襲い、思わずはき出そうとする。
「吐くな。食え。人から出された物は残さず食べるのが基本でしょ」
ニアンは丸い奴の一匹を奪い取って包丁を突きつける。
「早く食わないとこいつ殺すわよ。ほら、はよはよ」
婦人は明らかに怯えた目をして、仕方なく咀嚼を開始する。
「も゛っ! うんも゛おおおお!」
「飲み込めよ。ていうかさあ、一々言わないと分からないわけ? 噛んで飲み込んで初めて“食べた”っていうのよ」
「だ、だべだら。ごろざないでぐれる?」
「こいつのこと?」
婦人は頷いた。
「仕方ない、許してあげるわ。だから早く食え」
婦人は意を決したように喉を動かした。肉、肉、肉が喉の奥に入ってくる。しかし食品として適切な処理を施されていないそれは、体が異物と判断するようで、無理にでもはき出そうと胃が暴れ始めた。
婦人は必死に我慢した。今ここではいたら目の前の子を殺されるかも知れない。
「た、ぐんも……。食べたわよ」
「随分と美味しそうに食べるのね」
ニアンはにっこり笑った。許して貰えたのか、と婦人は思った。
「美味しそうだったから、もう一個作ってあ、げ、る」




