忍び寄る影
何て不味い朝食だ!
目玉焼きは焼きすぎてパサパサ。
パンもパッサパサ。
食後のコーヒーも中途半端にぬるい。
何が、「それなりの宿を用意させて頂きます」だ。
だが私は大人だ。食堂のど真ん中で店員を怒鳴るなどと言ったことはしない。睨んで皮肉を言うだけにしておいてやるのだ。
「デュ、デューク様。朝食の方はいかがでしたか?」
「……堅めの目玉焼きをどうもありがとう」
「ありがとうございます」
「……」
ああ、恐らく通じていない。まあいい。もう来なければいい。
外では無駄に身体のでかい荒くれ共が朝から酒を飲んでいる。
この町は鉱業が盛んで、大陸で流通している鉱石の多くはこの町から出ている。
金属石材加工の技術も発展しており、この町で作られた武具は一定の信頼を得ている。
「これはグルト製の武器だぞ」と言えば、「おお!」と言われる程だ。
勿論こんな町に遊びに来ていると言う訳ではない。仕事だ。
相談料の支払いを確認したので依頼者の元へ行くことになっている。
朝冷えのする中、ある貴族の家へ向かった。
今日は霧が濃い。脇を走りすぎた子供はもう見えなくなった。
小汚い男が土袋を担いで鉱山の方へ行く。
石造りの無骨な家が建ち並ぶ区間とは違って貴族街は嫌らしい程に上品な面構えの家が多い。
大きい門と噴水、貴族屋敷のトレードマークか。
私はその中の一軒の門の前に立った。
黒い鉄製の門の両脇に私兵が立っている。
外見だけで意味のない装備をしている。血を吸っていない武具に価値はない。
「デューク様ですね。お待ちしておりました」
兵は一礼した後、門に手を掛ける
キィと音を立て、門が開く。
執事の男に連れられて家の中に入った。
玄関にはよく分からない女神像がこちらを見下ろしている。
金色だが、恐らく塗ってあるだけだろう。実に浅ましい。
私の視線に気付いた執事が自慢げに話しかける。
無表情のようだが微妙に口角が上がっている。
「お気に召しましたか? ルクレシアの方から取り寄せた一級品で御座い……」
「お前には聞いていない」
「ひっ……、さ、左様でしたか」
執事は滑稽な髭を上下させた後黙って歩き出した。
二階の客室に入ると、小太りの男が椅子から立ち上がって礼をした。
さらに手を出して握手を求めてきた。殺気の類は感じられないからまあいいだろう。
誇りの欠片もない手だな。手も禄に洗っていないとは。黒い砂が手についてしまった。
左手の人差し指と中指に大きな宝石をあしらった指輪をしている。
男は手を広げ、ソファーを指す。
「お忙しい中お越し頂いてありがとう御座います。ささ、紅茶を」
「茶を飲ませに呼んだ訳じゃないのだろう?」
「そ……そうでしたなぁ。あっはっはっは。デューク様は仕事熱心で」
私は目の前の緑のソファーに座った。
ふむ、それなりのソファーか。だがもっと良い物を私は知っている。
よく見ればこの家の物品は外見だけで、実際は本来の役割を果たしきれないような物ばかりだ。
さっきの兵の装備も、そこの飾ってあるだけの皿も。
まるでこの家の主の性質を表しているようだ。
男は咳払いをすると用件を話し始めた。
「私は鉱山を持っているのです」
「……西山だな。ギルドからある程度聞いている」
「あ、もう知っておりましたか。それで――」
その鉱山に魔物が出たのだ。
坑道を馬鹿みたいに掘っていったお陰で魔物達の巣穴を掘り当ててしまったらしく、今や坑道は魔物の聖地と化しているようだ。
彼の持つ鉱山はこの町を支える大きな柱である。
労働者もほとんどがこの家が雇った者だ。
このままでは町全体に影響が出てしまうと言う訳か。
さて、出現した魔物が並みの魔物であれば荒くれ共だけで何とか処理出来ただろうが、そうもいかないようだ。
『岩竜』が出現したそうだ。これは強力な魔物であり、冒険者ギルドでは危険度一級に指定されている。
岩のように硬い頭を振り回し、獲物を叩き潰すことから『ハンマーヘッド』という渾名で呼ばれている。
「……標的はそれか」
「はい、それさえ何とか出来れば……」
男はハンカチで顔の汗を拭いた。
「それで報酬は口座の方に……」
「……ああ」
私は早速仕事に取りかかることにした。
カツカツと音を立て町を歩く。
町はこれから働きに出る者達で賑わっている。
全体的にゴツゴツとした町並みか。
人はその住む地域で外見や性格も違ってくる。
例えば雪国に住む人は多くは喋らない人が多い。口を開けると寒気が入ってくるからだ。
この町の人は皆声が大きく、動作は大雑把である。良くも悪くも職人気質だ。
流行の木挽き歌が聞こえる。
ここの職人は歌やかけ声で調子を合わせるのだ。
町の外れ、山の入り口に立つ兵に声を掛けられる。
「ここは現在立ち入り禁止だ。魔物が出たんだよ」
感じの悪い兵だ。愛想を求めている訳ではないが。
試しに『気』を出しながら話しかけてみた。
「ギルドから依頼を受けた。通せ」
本来なら冒険者の証を見せるべきだが私のソレは少し特殊な物だからあまり見せたくない。
「え……あああ……いや、はははは……はい! 申し訳御座いません!」
上ずった声で叫んだ後、お辞儀をしすぎて柵に頭をぶつけている。実に滑稽だ。
山に入ってから足音が変わった。
山の土は若干湿り気があるようで、歩くと土の匂いが顔に当たる。
道はある程度整備されている。労働者が歩いている道だ。閉鎖されているため人の姿はない。
山の風音は若干寂しそうである。
十分程歩くと坑道の入り口に立った。
古くなった木の柱で補強されている。地面は何回も踏み固められているようだ。
先ほどの風音とは違う風音が聞こえる。
山全体の息吹が感じられる。
「山は生きている」とよく言われるがそうかも知れないな。
○○○○○○○
デュークは薄暗い坑道に足を踏み入れる。
通路に取り付けてある火が揺れ、それが手招きをしているように見える。
複雑に入り組んだ坑道を歩くには地図が必要だが、情報は彼の頭の中に全て入っているため迷いはない。
一流の冒険者は意外にも大雑把である。
なぜなら、どこかで問題が生じても大抵自分の力で解決してしまうからだ。それで駄目なら最悪生きていれば何とかなると考えている。
だからといって警戒しない訳ではない。常に自分の周りに気を配り三百六十度どこから襲撃されても対応出来る様にしている。そのようなことを無意識下で行っている。
だが彼はまだ剣を抜いていない。それは彼の索敵能力がきわめて優れているからだ。まだ近くに敵はいないと確信していなければこれは出来ない。
単に剣を抜くのが億劫だからと言うのはもう一つの理由だが。
彼はふと足を止めた。
若干空気が変わったのを感じたようだ。
(この先の広場か……)
現状とギルドからの説明を照らし合わせ、間違いがないことを確認する。
彼は徐に手を合わせた。
その瞬間、周辺の空気が一変した。
一瞬で誰もいない坑道と化した。いや、居なくなった訳ではない。
彼は気配を消したのだ。
規則正しい唸り声だけが坑道に木霊する。
(寝ているのか……。呑気だな)
狭い通路を抜け広場に出ると、その真ん中に遠慮なしに寝そべる竜の姿が。それも三匹。
身体は黄色、頭は四角く、尾は短い。庶民の一軒家程の大きさである。
三匹が身を寄せ合うようにして眠っている。
(今日の仕事はもうそろそろ終わるな……)
――カシャッ。
剣を抜いた。
紫色に輝く剣である。
刀身は反り返っており、刃は片方しかない特殊な武器である。
(――我に力を)
剣を握る力が増す。
戦闘魔法だ。
彼は静かに構える。
刀身が輝きだし、濃密な殺気が全身から放たれる。
「フッ!」
気合いと共に剣を一閃する!
三日月の様な飛ぶ斬撃が三匹一纏めに襲いかかる。
――ザンッ!
衝撃で彼の周りの土が舞い上がる。
竜の延長線上の壁に大きな傷が出来る。それほどの攻撃。
三匹の竜は悲鳴を上げることなくその身体を真っ二つにした。
○○○○○○○
標的の始末は完了した。
まだ坑道内に魔物が残っているかも知れないがそれは契約外だ。する必要はない。
一撃で終わってしまうのも考え物だな。
強くなりすぎると面白みも無くなるらしい。
ん? 誰か居る?
一瞬だが人の気を感じた。気のせいではないな。
突然爆音が鳴り響いた。
おっと何だこれは!
坑道全体が大きく揺れ、天井の桟が拉げる。
拙い! 崩落か!
全身の血が沸き立つ。私の感覚が即座に鋭くなる。
火薬の匂いが辺りに立ちこめる。
さっきの気配、そして火薬の匂い。脳内で導き出した答え……、つまり罠!
謀ったか!
(――速さを!)
私は身体を魔法で強化して高速で移動した。
来た道は全部頭に入っている!
魔法を駆使して地面すれすれを飛ぶ!
右っ!
左っ!
目の前に落ちてきた岩石が迫る。
だが……避ける!
避けきれない物は斬る!
音、影、通路の明暗、全てを感知してそこから予測する!
的確に剣を振るう!
何てことはない。熟練の魔術師と戦うより簡単だ。
坑道を出て十秒後に入り口が岩で塞がれた。余裕があった。
爆音を聞いた兵達が集まってくる。
「どうした!」
「魔物か!」
「坑道が崩落した。単なる事故だ」
「そ、そうですか。無事で何より」
あえて火薬があったと言うことは伏せておいた、“絞る”ためにだ。
間違いない、何者かが侵入して火薬を爆発させたのだ。
まるで私を狙ったように……。
私に対する挑戦か。これは徹底して調べる必要があるな。
ひとまず依頼者の屋敷へ向かうことにした。
あの男が黒か白か確かめる必要がある。
門番に話しかけ、執事を呼ぶ。
「標的は処理しておいたぞ……」
「そうでございますか……」
「途中で事故が起こったがな」
「情報はもう届いておりますぞ。なんでも、ば……ごほっ! 崩落事故があったとか」
……わかりやすい。黒だ。
やはり年寄りはボロが出やすいようだ。誤魔化しているときに限って余計なことを喋り出す。
それ以前に顔を見れば分かる。そもそも爆発と言いかけているしな。
後は脅せばいくらでも情報は出るだろう。あの男は守秘するために命まで投げ出す程の人間ではなさそうだ。
ギルドに報告を済ませて宿に戻り、時間を潰した。動くなら夜だ。
窓の外では仕事帰りの農夫たちが酔っ払いながら道を歩いている。
人は徐々に少なくなり、やがて誰も通らなくなった。
宿の外に出て歩き出す。
(――影のように溶け込む)
隠れ蓑の魔法を使い早足で歩く。
特に訓練を受けていない者なら私を認識することは出来ないだろう。
着いた。
寝室は三階の端の部屋か。
一旦屋根まで飛び上がる。そして軒先に手を掛けてぶら下がる。
(――熱を)
私の左腕が赤く光る。
その手で窓ガラスを触ると、まるで飴を溶かすように溶けていった。
勢いを付けて部屋に飛び入る。
無駄に広い部屋だ。
様々な絵画や壺が飾られているがその芸術的価値は分かっていなさそうだ。
いや価値はどうでもいいのかも知れない。単にそれだけの財力があると言うことを主張したいだけかも知れない。資産の額で言えば私の足元にも及ばない癖に。
ベッドにはあの男が寝ている。
汚らしい口を開けて大きな欠伸を立てている。
布団をはがしてもまだ起きない。
……丁度良い。
男を肩に担いで外に出る。
家の屋根から屋根へ飛んで移動して路地裏まで行く。
特に治安の悪い区間だ。
着地すると男を地面へ軽く叩きつけた。
「ぶべらぁ!」
「お目覚めのようだな……」
男は状況がまるで分かっていないようだ。辺りをキョロキョロと見渡して後ろへ下がっていく。
男の少ない髪の毛を引っ掴み、身体を壁に押し当てる。
「ぐふっ! な……なにをする」
「聞きたいことがある」
腰の剣を大げさに引き抜くと男の顔は真っ青になった。
額からは大粒の汗が垂れ落ち、身体は小刻みに震えている。
「鉱山での騒ぎは知っているな」
「あの爆発騒ぎかっ……」
「まだ爆発とは言ってないぞ。何か知っているな。それとも親切な誰かが爆発だったと教えてくれたのかな?」
「くっ……わ、わわ、分からないっ……」
「“分からない”では済まされない」
剣の切っ先を男の目の前へ持ってくる。
「知っていることを言えば見逃そう。そして情報料も与えるぞ。何も言わないのなら殺す」
「しししし、知らんっ! 脅されたんだ!」
やはり黒だったか。
「詳しく話せ。少しでも渋ったり、誤魔化すようなそぶりを見せたら……」
「わわわ分かった分かった!」
男の鉱山から採れた鉱石は他国の商会へ輸出しているという。
そしてフィレットでは鉱石の輸出には税金がかかる。その税金は輸出量に応じて上下する仕組みだ。多くの鉱石を輸出するにあたり、多額の税金がかかるのだ。
ある日、フィレットの貴族の男から話を持ちかけられたらしい。
「密輸業者を知っている。仲介料さえ払うのならやってやる。高い税金を払いたくはないだろう?」
男はこの話に飛びついた。
グルト町担当の税務官はその貴族の家の者であり、ある程度の不正は可能であった。
だが、突然男は脅されたのだ。
「密輸に関わっていることを告発するぞ!」
「ちょっと待ってくれ! いきなりどうしたんだ! それよりお前もタダでは済まないぞ」
「構わないさ。すでに裁判官には話を付けている。さて取引だ。君がこれを承諾してくれたら告発はしない」
「なんだ?」
「君にはある冒険者を――」
と言った具合である。
そういえば今朝の男の手は汚れていたな。あの黒いのは火薬だった訳か。
心配だから自分で火薬の質を確かめていたのだな。
「それでその貴族の男の名前は?」
「ベ、ベトル……ベトル・ガルディだ」
これ以上は情報は出てこなかった。
「わ、私が知っているのはこれだけだ。見逃してくれ!」
「ああ……、そうだな」
――グシャッ。
路地裏の地面に血が流れる。
その血は地面の溝を赤く染めた。
雑草が血で濡れ、揺れる。
最初から殺すつもりだった。
下手に泳がすより都合が良いだろう。
こんな者を斬る武器ではないのだがな……。
男の服で剣を念入りに拭いた後、路地裏を去った。
私を狙っている存在があるならば全力で排除する必要があるな。
翌日、朝早くからルクレシアの首都に向かうことにした。
裏稼業、特に情報系においては右に出る者が居ない人物に依頼するためだ。
一旦グルトの隣町へ向かうことにする。
隣町のワイバーン乗り場からルクレシアまで飛べる。
「ヨーグ町へは出るか?」
「へい、あと五分で出発予定でさあ」
「乗せろ」
人や荷物を載せた狭苦しい馬車に乗る。早めに竜を買った方が良かったな。
人が多めに乗っていたようで、ちょっと身体を伸ばすと肩が隣の人とぶつかってしまう。
迷惑そうな顔でこっちを見てきたのでちょっと睨んだら俯いたまま大人しくなった。
向かいでは商人らしき男が懐から袋を取り出して、開けて中を見ては閉めるということを繰り返している。
ふと服の袖を見ると若干土で汚れていた。これだから相乗り馬車は嫌なのだ。
魔法を使って走るにしても遠い距離だったので仕方なく馬車にしたのだが。
隣町までは一時間程で着いた。
町の大通りを通ってワイバーン乗り場へ行く。
看板が置いてあるので迷うことはなかった。
通りは人が多く歩きにくいが、威圧しながら歩くとすぐに退いてくれるので楽であった。
――グエエエギョッ、ギェエギョ、ゲギョギョ。
ワイバーン乗り場は人が少ない。それもそのはず、値段が高いのだ。
同じ距離で馬車を使った値段の五倍である。人も来ないはずだ。私にとっては些細なことだが。
舗装された道路が町の外まで続いている。
ワイバーンはその道路で助走を付けて一気に飛び立つのだ。
ワイバーンの背中に人間三人程が乗れる籠が乗せられている。先頭にはワイバーンを操る騎士が乗っている。
その騎士は今、呑気に餌を食べさせているようだ。
「行けるか? ルクレシアまで」
「大丈夫だよ」
餌を食べ終わるまで待ってから籠に乗り込む。少し遅れて騎士が乗ってきた。
「お客さん、利用したことあるかい?」
「……何回もある」
「じゃあ飛ばすよ!」
足が地面を打つ音が聞こえる。その音はだんだんと早くなっていく。
木々が右から左へと流れていく。
一際大きい音がすると浮遊感を覚えた。
――バッサアッ、バッサッバッサ。
風が頬に当たる。目が乾くので、目の前の騎士の背中を風よけにするために姿勢を変える。
「今日は天気が良いねぇ。うん」
「……」
「お客さん、ルクレシアまで何しに行くんだい? あっ、当ててやろうか」
「…………」
「改装された美術館にはもう行ったかい? 五年前に一回行ったんだけどねぇ」
「………………」
うるさい! 苛つく!
返事がないのに喋り続けるとは……。頭が可笑しいのでは無いのか?
これが陸だったらとっくに殴り飛ばしていたが、空だからどうしようもない。
返事の代わりにウンウンと唸って三時間も過ごした。
私が喋りたがらないのを察してくれなかった。本当にどうでもいいことばかりを延々と喋り続けるのだ。拷問か。
コイツの顔を覚えておこう。次使うときはコイツ以外にするためにな。
「また利用してね」
「……ああ。また……なっ!」
バキッ! といい音がして騎士が吹き飛んでいった。着いた途端殴ってやった。
「……次会うときはもう少し静かにすることだ」
仰向けになったまま動かない騎士に文句を言ってから目的地に向かった。
ルクレシア首都、大陸でも有数の規模の都市だ。
あらゆる分野のギルド、組織が集結している。
「この町で必ず捜し物が見つかる」とよく言われている。
隣に港町のポロットがあり、そこから大量の貿易品が運び込まれ、大陸各地に分配される。つまり貿易拠点でもあるのだ。
町の中心に王城があり、それを取り囲むように町が発展している。
冒険者の多くがこの町を拠点にしており、ギルドの施設は恐らく大陸で一番大きい。
それ故、国は冒険者を重要視しており、住居の提供、税金の減免など様々な恩恵を冒険者に与えている。
物価は高く、出稼ぎの商人達で溢れかえっている。まさに稼ぐ場所だ。落ち着いて住む場所ではない。
大通りを北に歩き、右に折れる。
複雑に入り組んだ路地裏をどんどん歩いて行く。何回も通った場所なので寝ながらでも行ける。
汚い猫が看板の上で寝ている。私と目が合うと何処かへ走り去っていった。
月の絵が描かれた看板、酒場『月の影』の扉を開く。
古めかしい内装の店だ。
無愛想なマスターがグラスを磨いている。
左目に眼帯をしている。右の頬には大きな切り傷がある。
マスターはこちらの姿を見ると、奥の扉へ向かって顎をしゃくった。
「今日は居るぞ」という意味である。
扉を開けると細長い廊下に出る。
その廊下を真っ直ぐ歩くと扉の前に着いた。ここが奴の部屋だ。
扉の前にはチンピラのような男が居る。
「デュークさんだね。入りなよ」
「……」
部屋に入ると、虎皮のソファーにもたれた男の姿が見えた。
相変わらず散らかった部屋だ。
壁に女の絵、鹿の頭、斧と盾、様々な物が掛けられている。
その男は私の姿を見るとグラスを持ったまま挨拶した。
「よおぉ、デュークの旦那ぁ。久しぶりじゃん、元気してたかよ?」
私は向かいのソファーに座る。
横からグラスが置かれるとすぐにワインが入れられた。
そのワインを一口飲む。
旨い! 程よい苦みだ。
「二十年物だぜ」
「そうか……」
男の顔を見る。
一口に言うと下品な顔だ。
口を尖らせて葉巻を吸っている。
もう十年以上の付き合いがあるのに彼の本名を知らない。
彼は自分のことを「シャドウ」と言ったからそう呼んでいる。
「調べて欲しい人物が居る」
「ほほう。誰かなぁ?」
「フィレット王国の貴族、ベトル・ガルディ」
「あはあぁん……。なるほどねぇ」
シャドウは何かを知っているようだ。
「幾ら出す?」
「三本、だ。いや、五本出す」
「太っ腹だねぇ!」
私は懐から魔石を取り出す。タダの魔石ではない。高位の精霊の力が入った強力な魔石だ。
下手な小国ならこれ一つで買うことが出来る。そんな代物だ。
「うわあああおぅ……。久しぶりに見たぜぇ……。魔石ちゃん、ん~まっ!」
うわっ……、魔石にキスをするとは……。
「おいおい、こんなの出されても釣りはでねぇぜ」
「……構わん」
シャドウは魔石を手下に渡した。
「ベトルかぁ……。密輸関係じゃあちょっとした有名人さ。噂じゃあ奴隷になった王族も取り扱ってるって話だぜぇ。表向きはまじめな貴族だがな。そういえば、そいつ関係の同国の貴族が一人殺されたらしい。今朝の話だ」
情報が早い! もう知っているのか……。
「……私が殺した。坑道の崩落事故に見せかけて私を暗殺しようとした」
「なぁるほどぉぅ……。その暗殺はベトルの指示だったって訳だ。だが動機がわからねえ。お前を殺そうとするにもリスクが余りに大きすぎる。たぶん……もっと“上”だな」
シャドウは酒を一口飲んで続けた。
「お前は強いからなぁ。お前を殺そうとすれば逆に殺される。どれだけ金を積まれたって死んだら終わりさ。奴も裏で生きる人間。お前の強さは理解しているはず。まぁ、まだ強さを誤算している部分もあるだろうがな」
山の下敷きになればさすがの私も死ぬと思っていたのだろうか……。馬鹿な奴だ。
「奴は別の組織に属している可能性がある。すっげええ結束力の強い組織にな。奴がそこの下っ端なら何でも言うことを聞くだろうよ。そんな組織と言えばぁ?」
「もしや……ジタ教国か」
ジタ教国……。キチガイ国家と呼ばれている国だ。神の子孫らしい法王が治めている。聖神ジタの加護下に入らない者は人にあらずとして他宗教を弾圧している。
生まれる前から身分が決まっており、上位の者に逆らうことは許されない。だが子供の頃からそう言う教育を受けているから国民はそれを当たり前だと思っている。
希少価値の高い魔道具や美術品を持った国を頻繁に襲撃しており、全く悪びれる様子が無い。
「これらの物は本来ジタ様の元へ返すべき物だ。我々の行いは正しい」と主張する始末である。
以前にルクレシアと小競り合いをしたが、返り討ちにされてしばらく大人しくしていたようだ。
「まぁ俺の憶測だけどよぉ。だが可能性としては高いぞ。ある筋から得た情報なんだが、近々やっべえええ事するらしいぞ。何かは分からんが。ゾーク王国があるだろう?」
「ああ……」
魔術が盛んな国だ。フィレット、ルクレシアと並ぶ大国の一つだ。
「そこから行き先不明の魔道具が流れていてな。部下に探らせたらな……やはり行き先はジタだった。ルクレシアとフィレットの上層部はまだ気付いていないがな。きな臭いのは確かだ」
シャドウは話疲れたのか、頭の後ろに手を置き、足を組んだ。
「ともかく、大事なのは奴の動向だな。俺の予感が当たらなけりゃぁいいんだがなぁ。当たっちまったら……本当にやべえぞ」
シャドウは最後の台詞を言うときだけは真剣な顔をしていた。
とんでもない厄介ごとを抱えてしまった……。