第三話 届かないボール
次の日の放課後。試験日前ということもあってか、誰一人いないグラウンドに二人は立っていた。
「丁度いい。水野、野球部のブルペン使わせてもらおうぜ」
「ああ」
二人はグラウンドの端のほうにあるブルペンの近くまでくると準備体操を始めた。そこで小野寺はあることに気付いた。それは水野の身体の柔らかさだ。苦もなく股割りをしたかと思うとそのまま身体を倒して胸を地面に着けたのである。
「(肩の強さ、手の大きさ、それに身体の柔らかさ。ピッチャーに欲しいものをこいつは全部持っている!)」
改めて小野寺は水野の球を捕ってみたいと思った。これほどの素晴らしい素材を持つ男が一体どんな球を投げるのかそればっかりを考えていて、自分が捕れるかどうかなどの心配を小野寺は一切していなかった。
「よし、そろそろキャッチボールするか。ボールは軟式じゃなくて硬式のでいいよな」
「問題ない」
二人はしばらく軽く投げ合っていたが、小野寺は水野が投げるボールに違和感を感じていた。水野が投げるボールは急に出てくるというか、投げる直前までボールの出所が見えないのである。そのとき小野寺はさっき見た水野の身体の柔らかさを思い出した。
「(そうか、身体が柔らかいから投げるギリギリまで身体の後ろで溜めているのか。だから急に球が飛び出したように見えるんだ。恐ろしいほどの柔軟な関節だ)」
次々と明かされていく水野のすごさに小野寺はますます惚れ込んでいく。しばらくキャッチボールを続けていたが、水野はふいにブルペンのマウンドに向かった。それを見た小野寺はキャッチャー防具を身に着けホームに向かった。ついに水野が投げるときがきたのだ。
「いくぞ」
「来い!」
一言水野が告げると、気合を入れて小野寺は待ち構えた。それを見た水野は大きく振りかぶるとボールを投げた。水野の指先から放たれたボールは綺麗な線を描いて小野寺のミットに吸い込まれた。
スパン!
小気味よい音が響くと小野寺は顔をほころばせた。そう、小野寺は水野が投げたボールを捕れたのだ。喜ぶ小野寺とは対照的に落ち着いている水野はボールの返球を促した。
「まだ一球しか投げてないんだ。さっさと返せよ」
「おお、そうだな!」
その後も何球かボールを捕り続けていた小野寺だったが、またしても違和感を感じ始めていた。さっきまでは軽々と捕れていたのだが、段々と水野が投げるたびに捕るのが精一杯になっていくのである。そこで小野寺は水野がまだ全然本気を出していないということに気付いた。先ほどまで彼は小野寺が捕れるかどうか試していたのだということを。今でさえ捕れるかどうか、本気で投げたとき自分は捕れるのか。このときになって初めて小野寺はそう考えた。小野寺の顔が険しくなっていくのをただ静かに見ていた水野がついに口を開いた。
「大丈夫か? もう止めるか?」
「大丈夫だ! ドンと来い! 全部捕ってやるぞ!」
その言葉は小野寺の精一杯の強がりだった。次第に捕れなくなっていくボールの速さに恐怖を感じ始めていた小野寺は、そうでもしないととても水野のボールを捕れないぐらい追い詰められていた。
「そうか。もう大分肩は温まった。本気でいくぞ。これが捕れたら一緒にバッテリーを組んでやる」
「よ、よし! 来い!!」
水野は大きく振りかぶった後、身体を強く捻った。そのフォームはかつてプロで騒がれたトルネード投法に似ている。
ダイナミックなフォームから大きく前に一歩踏み出すと、ギリギリまで溜め込んでいた右手を鞭のようにしならせながら思いっきり振る。そしてついに水野の指先からボールが放たれた。まるで弾丸のように高速回転して向かってくるボールを小野寺は見ることすらできなかった。彼が気付いたときにはもうそのボールは防具の上から腹に食い込んでいた。防具を間に挟んでいるというのに小野寺の腹にくる衝撃はかなりのものであり、たまらず彼は急いでキャッチャーマスクを外すとその場で嘔吐してしまった。
「ごほっ! がはっ!」
小野寺は胃の物が全部逆流しているような感覚を味わった後、マウンドに立つ水野に目を向けた。マウンドでは水野が平然と立っていたが、彼の顔は若干曇っているように見える。
「やっぱり捕れなかったな。これでバッテリーを組むって話はあきらめてくれ」
水野は小野寺に背を向けると静かに歩き出したが、途中立ち止まると顔だけ振り向いた。
「久々に人を相手に投げたけど楽しかった。……じゃあな」
再び歩き出すと彼は二度と振り返らなかった。
「くそ……」
痛む腹を抑えながら小野寺はただ水野が去っていくのを見ていることしかできなかった。ただ悔しかった。軽くしか投げていなかったボールを捕って喜んでいた自分が。大口叩いて彼のボールを捕れなかったことが。何よりもピッチャーに悲しい顔をさせてしまったことが。ピッチャーがいくら凄いボールを投げたところで相手が捕れなかったらキャッチボールは成立しない。
「バカだ俺は! 何のためにキャッチャーがいるんだ!? ピッチャーが投げた球を受け止めるためじゃないのか!」
思わずミットをその場に叩きつける。そして思い出されるのは彼が去り際に言った一言。
『久々に人を相手に投げたけど楽しかった』
その言葉から想像できることはおそらく、水野は自身が投げるボールのせいで誰も捕れず相手にされなくなったのではないかということである。それが久しぶりに彼のボールを捕りたいという小野寺が出てきて少なからず彼は嬉しかったはずである。だが、水野が投げた本気のボールを捕れなかったとき、彼に悲しい顔をさせてしまった。
「ピッチャーは捕ってくれる相手がいなかったら孤独だってことを俺が一番知っているはずなのに、俺は捕ってやることができなかった!」
小野寺は中学生になるころには既に160後半あった。彼は持ち前の身体を生かし硬式野球のクラブチームに入ると、ピッチャーをやったのだが、彼の身体の大きさにキャッチャーはみんな恐がり、それにくわえて自慢の肩の強さもあって誰も捕ることができなかった。
誰も捕ってくれない。そのことに小野寺は悲しくなったが、それでも野球をやりたくて彼がとった行動は投げる側から捕る側への転向だった。その日から小野寺はピッチャーに自分と同じ目に合わせないように努力してきたのだが、ついに捕ることができない相手が現れてしまった。初めて彼は大きな挫折を味わうこととなった。