もうひとつのボーイ・ミーツ・ガール 5
知っているようで知らなかった。貴明が猫みたいに柔らかな髪だった、なんてこと。
――俺、すごい無様。恰好悪い。
震える声を、初めて聴いた。そんな声をして泣くのね、あなた。
――別に、失恋した訳じゃないし。ただ彼氏に妹を取られた気分ってだけの感覚だし。
はいはい、解りましたよ。鼻水垂らしてしゃくりあげながら言っても全然説得力ないけどね。
あの夜、深夜にやっと帰って来た貴明を、初めてセックス以外で慰めた。それで初めて色々知った。長い長いつき合いなのに、私、なんにも貴明のこと、知らなかった。
ずっと貴明が言っていた「同類」の意味がやっと解った。
強がっていないと壊れてしまいそうな、壊れちゃいけない立場なのに崩れてしまいそうな、脆くて繊細で頑固で、そしてとっても甘ったれた人。
思い切り泣いて、やっといつもの皮肉な笑みを浮かべられるくらいに自分を取り戻した(というか、仮面をつけ直したと言うべきか)貴明に、私はぴしゃりと言い放った。
『別れましょう』
『……は?』
『元々傷の舐めあいだっただけじゃない? もう貴明も大丈夫でしょう? ほかの女も知った方がいいわよ。私もほかの男とつき合ってみることにする』
なんでもないような顔で、精一杯高飛車な笑みをかたどってみる。うん、欠けた月が私の微笑を五割増しに美しく引き立ててくれる。
『言っている意味が解らないんですけど』
『東京の大学病院へ就職するの。だってこんな田舎じゃあ、最先端の医療を経験出来ない』
長い長い沈黙のあと、貴明はひと言だけ返して来た。
『……そか。解った』
あっけないジ・エンド。少しは戸惑ってくれると思ったのだけれど。
『じゃ、そういうことで、サヨナラ』
彼はそれには答えてくれなかった。けどまあ、いいわ。
コツコツコツ、と響く靴音。強がる私そのまんま。私は、泣かなかった。あれからあとも、泣かなかった。
うしろなんか振り返らない。強がりで寂しがり屋でみっともない私は、もう要らない。
だけど、藤堂君が帰郷したこのお正月休みに催された彼らの婚約発表を兼ねた同窓会には、流石に出席出来なかった。あんな別れ方をした二ヶ月後では、貴明とどんな顔で会えばいいのか解らなくて。
綾乃にバカ呼ばわりされるとは思わなかった。泣きながら怒る姿って、結構笑える。
『ぜんっぜん意味わかんねえ! 好きだから別れるとか、それ日本語ってこと以外わかんねえ!』
バカップル綾乃には、わかんなくていーの。とにかくそういう訳だから、婚約おめでとうとだけ言ってがなる綾乃を黙らせた。
あれから季節がふたつ過ぎ、貴明と最後に会ってから七ヶ月が経つ。ジューンブライドに拘った綾乃と藤堂君が、今日結婚式を挙げる。これを欠席するのは流石に悪いから。
「っていうか藤堂君、やることが極論過ぎるというか、早いというか」
綾乃が羨ましいというか。学生結婚を認めさせちゃうラブパワー。ああ、いいわねえ、純愛。
「って、まあアレはアレ済みみたいだだから、もう純愛じゃないけどね」
急に色っぽくなった綾乃を思い出すと、鏡に向かって苦笑が漏れた。
ほかの男とつき合うとか言い切った癖に、触手が動かぬ欲情せぬ。ばばあか、私は。
「新郎側の大学面子に期待を賭けてみるとするか」
そんな独り言を呟きながらカールドライヤーを髪から外した途端、巻いた髪が“賛成”というかのように、くるんと跳ねた。
普段よりは少々地味に。花嫁を食ったら悪いしね。ヘアスタイルもアップは厳禁。きっと綾乃がアップスタイルだろうから。ティアラじゃなくて、リボンにすると言っていた。
カクテルドレスの色は確か青って言っていたから、私はグリーンにしようかな。ちょっと暗めで重めのグリーン。深くて目に優しい癒しの緑。
「余興の時は、ナース服でも着てやろうかしら」
うん、却下。確実に男をゲット出来なくなるに違いない。
必死で別のことを考えている自分が結構惨めって気がする……。
「……嫌がらせとしか思えない……」
ええ、聞こえてもよろしくってよ。そして出来ることならご祝儀を出す前に、この席次表を見せて欲しかった。そしたらご祝儀の金額を半額にしてやったのに。
「そこまで毛嫌いしなくてもいいじゃん」
中学の同窓生でまとめたのは解るけど、なんでこいつが私の隣?
心の中で綾乃と藤堂君にそんな恨み言を零しながら、隣に悠然と腰掛ける元生徒会長を睨みつけて訴えた。
「椅子を寄せて来ないでっ。それから話し掛けても来ないでよっ」
してやられた、バカ綾乃め。口から飛び出す罵詈雑言と反比例して脈拍が上がる。これはきっと絶対確実に百毎分近い早さだわ。
「いいじゃん。だって隣、大林だもん」
大林君ってのは、名前に相応しい巨漢な訳で。確かにちょっと窮屈そうだ。でも貴明なんかよりも、大林君の腰掛けている椅子の方がはるかに可哀想。
「あ、ねえねえ、朋華、さん」
反対隣の錦野さんから、救いの呼び掛けが掛かった。名前のあとに、ぎこちないさんづけ。さすがに二十歳も過ぎれば“朋華様”はないだろうと思い至る程度にそれぞれが成長しているらしい。
「久し振りね、錦野さん」
貴明を全身全霊で無視する為に、体ごと彼女へ向き直った。
もう披露宴の内容なんて、全然ちっとも何も覚えてなんかいない。
この私ともあろう者が、新婦側友人代表をし損ねて(震えまくったのだあのバカ貴明っていう存在の所為で!)、挙句貴明にその代打をさせてしまい。もうそこからは、ドツボ。飲んで緊張をほぐそうと試みたら、違う方へ緊張がほぐれてしまい。何を言ったか覚えてないけど、とにかく新郎新婦を巻き込んでの喧嘩漫才、だったらしい。
「もう、朋華さんたら、“朋華様”のイメージ、台無しぃ~」
錦野さんや鳥泉さんなど、女性陣に爆笑される。私、ボケ担当のキャラじゃあなかったはずなんだけど。
「私、何をやらかしたの?」
「ふふふ、ひ・み・つっ」
砕けた彼女達の口調がすごく心地よい。ああ、自然体って、キモチいい。私ったら、今まで何を肩肘張っていたんだろう。
飲んで歌ってドンちゃん騒ぎ。なんか男探しとかどうでもよくなっていた。
東京への就職、ちょっと早まったかな。戸多瀬の町は、私を拒む場所だと思っていた。だけどそれは私が勝手に壁を作っていただけで。やっとそんな当たり前のことに気づけたことが、嬉しかった。
綾乃が笑ってる。藤堂君が笑ってる。そしてやっぱり貴明も。
「ほら、朋華。お前ちょっと飲み過ぎだって」
当たり前のように腕を取り、くすりと嫌味な笑みを零してる。
「私は綾乃じゃあなくってよ? 世話の掛かる妹分は、あっち」
「あっちには藤堂がいるでしょ。っていうか、藤堂が世話されてるけどね」
そんなやり取りを聴いて、周りの皆がまた笑う。
大好き。戸多瀬の町も、幼馴染のみんなも、そしてやっぱり……貴明も。
「それでは、宴たけなわでございます。最後に藤堂、宮下ご両家の――」
司会者の進行の声が場内に響き、そしてテンプレートに新郎新婦から両親への感謝の言葉。綾乃のお父さんの目と顔が真っ赤なのは、お酒の所為なのか、それともたった独りの愛娘がはるか遠く神奈川へ拉致されることへの寂しさからなのか。
「いいお父さんね、綾乃のお父さん」
ぽつりと独り言のように呟けば、隣から
「朋華のお父さんだって同じだよ」
という意味ありげな声が返って来た。思わず視線を声の主に向けて眉をひそめてみたのだが。
「いい家族だよね。藤堂んちも、綾乃の家も」
貴明からのリアクションはそれだけで、結局何も教えてはくれなかった。
学生の分際で、新婚旅行とかは無理なんだって。第一綾乃も藤堂君も、普通に大学の講義を受けなきゃいけない訳で。
「ってなことで、貴重な休みはオールいちゃラブタイムにするから、解散!」
解散とか合宿じゃないんだから。
新郎の癖に幹事よろしく音頭を取る藤堂君は、綾乃からゲンコツを食らっていた。
そんな彼らだから、お客に見送られるのではなく見送ってくれるらしい。式場の敷地外から手ぐすねを引いて待っている数人のスポーツ雑誌記者を尻目に、藤堂君はひとりひとりに丁寧なお礼を述べていた。
「今日はありがとうな」
変わらぬ男言葉で綾乃は言うけれど。今日ほどその言葉遣いが不釣合いと思った日はないわ。だけど、寿ぎの日だからその突っ込みはやめておいた。
「こっちこそ。色々あとでこめかみグリグリしてやりたいことがあるから覚えてらっしゃい」
「うゎぁ……」
私達のそんなやり取りの隣で、貴明と藤堂君が謎のやり取りをしているのが視界の隅に入った。
「これで貸し四つ分チャラ、男に二言はないなっ?!」
「ないない。だって綾乃の触診はご勘弁ください、なんでしょ?」
このエロ男子二名。ばっかじゃないの。
「何、それ」
綾乃が貴明の手に渡された茶封筒を見て、藤堂君にそう訊いた。うん、私も知りたい。何その愛想のない茶封筒。
「求人票」
「は? なんで貴明がそんなの必要なの」
彼は今年三回生。まだあと三年以上学生なのに。お父さんに書類の届を頼まれたにしても、そこに藤堂君が絡んで来るというのは、明らかにおかしい。
「ああ、藤堂の言い間違い。求職票」
「もっと意味不明なんですけど。今からシューカツなんて、苦しい言い訳にしか聞こえないわよ」
「結婚早々隠しごとかよっ」
んー、なんか新婚さんの雲行きが怪しくなってしまった。
「どうせAVの新作リストとか、そんな変な類でしょう。綾乃、気にするほどのことじゃないわよ」
「鋭い。流石朋華」
藤堂君と貴明が、同時にそう発して私を指差した。なあに、このふたりってこんなに仲がよかったっけ。
釈然としないながらも、次がつかえていることだし、貴明と私はお幸せにという定形文を口にしてふたりの前を通り過ぎた。
「ねえ、久し振りなんだから、お茶くらいしていかないか」
「いかない。サヨナラ」
即答、アンド・ターン。もうさすがに限界突破しちゃいそう。
「あ、そ。んじゃ、また」
「または、ないわ」
背中から掛かるアゲインの声に、背を向けたまま即答でノットを返す。どうせ彼のことだから、変な責任感とか懺悔の言葉とか、ろくなことを考えていないだろうから。
私は後悔なんかしていない。貴明と過ごした奇妙にゆがんだ六年間を。だから謝られたら腹が立つ。責任なんて感じられたら反吐が出る。
背筋を伸ばして、まっすぐ前を見て歩く。きっと私の姿が見えなくなるまで見送るであろう貴明に、私は大丈夫という姿勢を見せた。
季節は廻り、時は過ぎ。気づけば王子大学附属病院へ勤務し始めてから二年経つ。
東京某所にあるこの病院の産科病棟に於いて、私はたった二年の勤続年数で主任の座にいたりする。
「どんだけ人材不足」
愚痴る先輩もいないので、最年長の看護師長へそうごちる。
「少子化が進んでるから、医者も看護師もなかなかね、この診療科に入って来る人はいないは、労力の割に報酬が少ないは、で仕方がないんでしょうけどね」
命の生まれる瞬間に立ち会える診療科なのに勿体無い話よね、という師長の意見には、激しく同感だ。
「朋ちゃんは、結婚退職なんかしないでね。老女に過剰勤務なんてさせないように」
「老女って、師長……」
彼女はまだ三十路なのに、言うことが老人仕様で結構笑える。
幸せそうな妊産婦さんの笑顔と、元気よく泣く赤ちゃんの声。価値観の合う上司に恵まれて、色々時間貧乏だったりくたくただったりもする仕事だけど。そして下心から選んだ仕事だったけど、この道を選んでよかったと思う。
望月産科病院への勤務は潰えたけれど、それでも私は幸せだった。
「あ、そうそう。珍しいのよ。この科を希望する学生さんが本橋教授のところへ面接に来てるのよ、今。教授ったらもう、大乗り気。やっと二十四時間勤務体勢から逃げられる、って。あれは採用確定ね」
三十路独身彼氏なしともなると、誰でもよくなるんでしょうかしら。
「これが田舎くさい子だったんだけど、こっちの生活に馴染んで来れば、そこそこイケそうな感じの子なのよぉ」
「覗いて来たんですか」
「覗くだなんて人聞きの悪い。お茶を頼まれて出しに行っただけよ」
それって事務方の仕事じゃないの。という内心を押し殺す愛想笑いが引き攣れる。仕事の面では最高の上司だけれど、プライベートのつき合いはご遠慮したいタイプだわ。私はそんな本音を包み隠すのに苦心しつつも、適当に相槌を打ってその話を終わらせた。
日勤でよかった。産科ってホントに女まみれだから、部外者の男一人が入っただけで、ああも浮き足立つものなんだ。
「初めて知ったわ。まだまだ経験値が足りないわね」
制服から私服に着替えてコキリと首を鳴らす。アパートに帰ったら、まずは熱めのお風呂に入って、ああそうだ、帰りにコンビニでカクテルを買って帰ろう。
「なんか親父臭いなあ、私」
二十三歳の妙齢の女が、ふと寂しく思うのはこんな時。明日明後日と連休なのに、デートする相手もいなけりゃ出掛けるだけの体力もない。嗚呼中途半端なこの年齢。
「お父さんのところにでも顔を出そうかしら」
そして可愛い異母妹にキス嵐のお見舞いでもしようかな。
幼稚園に上がったお父さんと英美さんの両方によく似た妹のぷにぷにほっぺを思い出したら、日勤の疲れも吹き飛んだ。
病院の職員専用出口から出て、外来用の正面玄関の前を通り過ぎる。ヒールのかかとが軽快に、カツカツと長い敷地内のアスファルト道路を蹴る。駐車場の入口の前も通り過ぎ、裏門を出れば、すぐそこにはバス停。
「……うそ……」
バス停の少し手前に停まっているのは、見覚えのあるカウンタック。ナンバーをまだ覚えている自分にも驚いたけど、その存在そのものが、一番あり得ないから息が止まった。
ドライバー席の扉が開く。見たこともないスーツ姿の憎たらしい顔が相変わらずの皮肉な笑みを零して、つい昨日も会ったばかりみたいな物言いでひと言言った。
「お疲れ。お帰り」
お帰り、って、まだ帰ってないわよ。っていうか、あなたがどうしてここにいるの。
「なんでって顔してる。訊く?」
そう言ってナビシートを指差されたら、乗らない訳にはいかないじゃないの。
「……どうして貴明が私の勤務先を知ってるのよ」
強気な姿勢で吐き捨てた癖に、涙を堪える難しさが私の眉間に深い深い皺を寄せさせた。
二年振りに乗る彼の車には、女の匂いが染みついてることもなく。って、別に関係ないけれど。余計なお世話なことだけど。
「綾乃から聞いたんだ」
勤務先やアパートの住所まで、彼は綾乃がゲロったと共犯に仕立て上げた。
「それ、ダウト。綾乃が裏切るはずないわ」
「おなかの子が男か女か教える代わりにそれを教えてって言ったら教えてくれた、と言えば少しは信じる?」
「ひ、卑怯者っ」
それならあり得る、綾乃はともかく藤堂君がゲロりそう。藤堂君にほだされちゃえば、綾乃がグルになるってのもあり得そう。でもそれって越権行為じゃない? 望月先生は自然に任せてという方針のもと、性別は出産時まで知らせないって考え方だと以前貴明自身から聞いたのだけど。
「ま、それはどうでもいいじゃん」
よくない、という私の異論は華麗にスルーされました、まる。
仕方がないのでアパートへ招き入れる。今夜の“独り親父OLごっこ”はお預けだわ。
「さて、これはなんでしょうか」
冷蔵庫に入れておいた白ワインがほどよくお互いの口を滑らかにした頃、貴明がそう言って見覚えのある茶封筒を取り出した。
「……求職票って、前に言ってなかった?」
役所の名前が印字された封筒を見て、それが藤堂君達の結婚式の時、彼が貴明に手渡していたのを思い出してそう答えた。
「正解。ていうか、藤堂が言ってた求人で本当はあっていたんだけどね。んで、なんの求人かっていうと」
そう演説しながら貴明が取り出した、その中身を見て心臓が止まる。いえ、ホントは止まってません。例えだけどでも本当に止まるかと思ったの。
「……何、これ」
「婚姻届。漢字苦手だっけ」
「じゃないわよっ。なんで求人票とか名前が書いてあるとか、保証人欄のこの藤堂雅之綾乃とか、なんなんだっつうのよっ」
あ、ワイングラスをひっくり返した。ああ、フローリングの掃除をしてる場合じゃないのに、まったくもうっ。
苛っとして椅子から立ち上がり、キッチンから雑巾を手にしてリビングへまた戻ると。
「通せんぼとか、子供じゃああるまいし。どいて」
ドキドキ、ドキドキ、百毎秒。距離を詰めて来ないで、バカ貴明。
「俺専用の求人票。奥さん募集中なんだけど、求職してる人がなかなか捕まらなくて」
ついでに言うと、俺の学業もなかなか終わらなくて、やっと卒業年度になったんで、とか私の知ったことじゃないから、そんなこと。
「ただなんとなく跡を継げばいいや、って思ってたけど、頑張ってる朋華を見てたら、ちゃんと医者って家業と向き合わないとな、とか思うようになってさ」
じりじりと近づいて来る貴明の歩調に合わせて逃げる私の後ずさりが、とうとうキッチンの隅まで追い詰められて、止まった。
「しばらくは医局員として安月給で勤め人って感じになって、朋華より給料も低いかも知れない貧乏人になるんだろうけど」
そんな恰好悪い俺だけど、とか。今更何を言ってるんだか。
「いなくなって、初めて気づいた。傍にいるのが当たり前だと思ってたから」
そんな言葉で吐かれる声と一緒に、漏れる息が私の前髪を揺らす。
「ゆくゆくは、望月病院の事業専従者になってもらえませんか?」
もっと気の利いた言い方ってのがないのかしら、この田舎モノ。
コトコト、ドキドキ、それが一気に鎮まっていく。暴れていた心臓が鎮まった代わりに、体中が暴れたがる。
「無理なら、トモダチからでいいからさ。やり直」
「さないっ」
やり直さない。やり直してなんかやらない。やり直すんじゃなくて。
「言ってることとやってることが正反対なんですけど、朋華様」
しがみついた私の耳許で、相変わらずの憎らしい小馬鹿にした笑いが髪を揺らす。懐かしい温もりが濡れた頬を拭いながら、心も頬も温める。
「実は朋華のお父さんとお母さんの了解も取ってあったりなんかして」
プロポーズの条件が、家業に頼らず独り立ちして漢を見せろというものだったと言う。お父さんはこれまで一度も、そんなこと私に気取らせなかった。そんな風に私のことを見守っていたなんてことも知らなかった。
「明日、ご両親のところへ御案内いただけますか」
今日、家の病院へ面接に来た医者候補の学生というのが貴明だったとその言葉で知らされた。
「しょうがないから、連れてってあげるわよ」
ああもう、どこまでも可愛げのない私。しかもすっごい不細工な顔で、恰好悪いったらありゃしない。
「じゃ、改めて婚姻届は書き直そう。証人欄、もし朋華がノーって言ったらあれを使って綾乃に朋華のサインさせようと思ってたけど、ご両親からサインもらい直す方がいいからね」
策士め。それもすっごく幼稚な策。口ではそう罵るのに、溢れる涙が止まらない。
「うん、こっちの手がしっくり来る」
貴明が珍しく俯いて顔を隠したまんま、繋いだ手と手を見つめて言う。
「廉兄ちゃんのことで、綾乃しか見えてなかったけど。でも、ずっと覚えてたのは、この感触」
心許なさそうに弱々しく握り返す手。本当は引っ張って欲しいのに、素直にそう言えなくて、乞うように儚い力で握り返して来る手。
「幼稚園の頃だったもんね。記憶がごっちゃになってたんだ。ごめんね」
貴明も、覚えていた。独りぼっちでホールの隅に座り、羨ましい思いでみんなを眺めていた私を輪の中へ連れて行ってくれた記憶。
「朋華。好きって言ってよ」
そう言ってきゅ、と力強く握り返して来る。私も、忘れてた。遠い遠い幼稚園の記憶。
『別に、私がいなくたって、みんななんとも思わないじゃない。余計なことしないでよ』
『みんなのことはわかんないけど、僕は朋華がいないと寂しいよ』
『なんでよ』
『僕は朋華が好きだから』
『私は嫌い。みんな嫌い。貴明のことも大ッ嫌い』
あの時私、酷いこと言った。すごく嬉しかった癖に、とっても可愛げがなかった。だってそんなこと言われたのが初めてだったんですもの。
「ねえ」
甘ったるい貴明の声が、私を素直にさせる。頬に触れた彼の手が、素直に彼の目を見させてくれる。
「……好き」
舌に載せたその言葉には何年分ものその想いが宿り、それは全部貴明が食べて飲み込んで受け取ってくれた。