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チャンスのXXX -ボーイ・ミーツ――???-

 新聞の中ほど、スポーツ欄の中でも比較的小さな枠に部類する程度の記事を見る。

『東海大・リーグ優勝!! 藤堂タイムアップ直前のロングシュートで2度目の奇跡!!』

 相変わらずのバスケ馬鹿が、馬鹿には見えない真剣な眼差しで手にしたボールを守っている。そんな写真を見ていたら、無性に腹が立って来た。

「すごいわよねえ。K製鐵の社会人バスケからもうスカウトが掛かってるんだって、藤堂君」

 それは俺も綾乃から聞いていた。だからいちいち言わなくてもいいのにと思ったけれど。

「へえ、そうなんだ。でも、まあどうでもいいや。それよりも」

 俺は初めて知った風を装い、元藤堂ファンだった気がする朋華をもう一度ベッドへ引き込んだ。

「妬きもち?」

「藤堂に? 朋華を取られるかもとか、そういう意味?」

 相変わらず自信過剰と言うか自意識過剰というか。小学生の頃からお嬢さま育ちで美人の自覚が必要以上にある朋華のプライドを満足させながら下手に問い掛けた。

「貴明にとって私なんかアウトオブ眼中の癖に。綾乃が完全に藤堂君のものになっちゃいそうだから、落ち込んでるんじゃないかしら、って意味よ」

 だから慰めに来てあげたのに、と嗤う朋華がなぜ苦手なのか、解った気がした。

「本当に慰めが欲しかったのは、朋華の方なんじゃないの」

 甘噛んだ耳許に、意地悪く囁く。

「あなたと一緒にしないでよ。本命の女を想像しながらほかの女と寝るとか、サイテー」

 かつては「ミス戸多瀬中」「戸多瀬中第三十九期生徒会長」と謳われもてはやされた朋華と俺。六年も経てばそんな名誉も、実は名誉でもなんでもないと気づき、田舎の片隅でご多分に漏れず、ありがちでつまらない、普通の大人になっていた。


 俺はあくまでも地元に拘った。なぜなら綾乃がそうだったから。

『いつまでプロやってられるかわからないからって。雅之の奴、引退後を考えて教職免許を取っておくんだってさ。そのつもりもあって、推薦じゃなくて一般で受験することにしたんだ、って』

 馬鹿だよな、と苦笑しながら、どこかほっとした表情で綾乃が語ったのはいつのことだったろう。

『一緒に働けるように、アタシも教師を目指すことにしたんだ。あいつは戸多瀬で生まれ育ったから、やっぱココに帰って来たがると思うんだ。だから、アタシはココであいつを待とうと思ってる』

 帰る場所になれたらいいな、なんて思うから。そう言って照れ臭そうに俯いては、胸の前で絡めた指をもぞもぞとさせる綾乃の姿を見てズキリと来た。

 ままごとみたいなふたりの幼い恋愛なんて、すぐ壊れると思ってた。なのにそんな気配は全然なくて。それどころか高校の段階で、もうそこまで将来を考えている藤堂と綾乃に、人として先を越された気さえした。

『そう、なんだ。すごいね、あの藤堂に、そこまで将来を考えさせるなんて』

 どれだけ惚れられてるんだか、と笑いながら探りを入れる。その一方で、意地悪な気持ちでそう言ったのを自覚していた。高校生活を半ばも過ぎる頃には、俺に対する綾乃の全幅の信頼が重くて苦しくてしょうがなくなっていた。そんなこっちの都合なんか、鈍感な綾乃は相変わらず気づかない。

『や、別にオレはなんにもしてないし言ってもいないし。アイツが自分で』

『またオレに戻ってる』

『うぉ、やべ』

 それ以上藤堂を持ち上げる言葉など、綾乃の口から聞きたくなかった。それ以上藤堂のことを嬉しそうに語る綾乃を見たくないと初めて思ったんだ。

 胸の前で組んだ手の親指が、照れ隠しにくるくる回る。そんな女らしい仕草を見たのは、生まれてからずっとのつき合いなのに、その時初めて見せつけられた。

『綾乃って、藤堂の前でもいつもそんな感じなの?』

 藤堂が、綾乃の中で眠り続けていたそういう部分を目覚めさせたんだ。そう思うといつの間にか、せわしなく繰り返される綾乃の親指ごと、華奢な両手を包んで止めていた。

『そんな、って?』

『誘い受けに見える』

 俺が綾乃を妹みたいな存在以上に想っていると自覚したのは、多分きっとその時だ。浮かんだままに出た言葉が自覚させたと言っていい。

『なんだ、それ?』

 という綾乃のとんちんかんなリアクションがなかったら、多分きっとあの時、二度と顔を合わせられないことをしていたような気がする。

『んー、要は、自分からは言い出せないけど、手を出して、って誘ってるみたい』

『さそ……っ』

 勿論そのあと綾乃の回し蹴りを食らいそうになり、躱わした隙を突いて逃げられた訳だが。

 筋金入りの信頼。あいつは自分を廉兄ちゃんから解放することは出来たけど、ブラコンそのものからは、まだ卒業出来てない。俺はあいつのアニキじゃあないんだけどな。


「ほら、綾乃のこと、考えて、る」

 朋華が上がる吐息に混じえそう咎める声を発し、背に思い切り爪を立てた。

「……ないし」

「あ……っ」

 望月産婦人科病院の跡取り。四人兄弟の、理想的なよき長男。アニキのように理解ある幼馴染。相手のよい点は認め合える、グレードの高い好敵手。朋華といる時だけは、そんな諸々の肩書きを外す。彼女も肩書きの重さで息を詰める生活だから。似た者同士の俺と彼女は、素の自分を晒し合っては詰まっていた息を思い切り吐き出す。吐き出してはまた吸い溜めて。そうやって日々を辛うじてやり過ごすつまらない毎日を送っていた。




 決して医大生が暇という訳ではないのだが。朋華が看護師の専門学校生で多忙過ぎるのだ。課題とかレポートとか、来年は三年だから、そこへ研修も入るのだろう。

「だからって、まだ髪も乾いてないうちから追い出すことはないと思うんだ」

 やることやったら追い出すとか、そういうのは男の専売特許だと思っていた。

「ホント、今って肉食女子と草食男子全盛時代」

 代々続いて来たことに加え、産婦人科という女性を扱う家業を商って来た我が家だから、俺は年齢の割に古い固定観念を持っていた。

「綾乃みたいな女は、そうそういないんだろうな」

 同時に湧いた顔は綾乃ではなく、同性ながら男前度が増したと思わせる、新聞に載っていたあの狸ヅラだった。

「……さっさと帰ろ」

 俺は思い切りアクセルを踏み込んで、銀杏舞う早朝の大通りにカウンタックを疾走させた。


 銀杏並木が作る黄色メインの景色に、黒のポンチョとたなびく黒髪が鮮やかに映える。俺は急ブレーキを掛けてそのままスピンに見えなくもないターンを決め、小走りに駈けていく後ろ姿を掴まえた。

「綾乃。こんな朝早くから、どこ行くの?」

 驚いた顔をしてこちらを見遣った綾乃の頬が薄桃色に染まっているのは、もしかして自宅から数キロ離れたここまでずっと走って来たからだろうか。なんとなく、別の理由という気がしないでもないが。

「びっくりしたぁ。望月か。あ、お父さんにはナイショな」

 そう言って教えてくれた行き先を聞いて、俺は度肝を抜かされた。

「二泊で神奈川と東京、だと……?」

 霜月十五日、世間一般では七五三の日。思い出された新聞の記事によると、その日は藤堂雅之二十一回目の誕生日でもあるらしい。綾乃がいつも以上に気合の入った恰好をしている理由をなんとなく察してしまった。


 決して医大生が暇という訳ではないのだが。綾乃がバクダン発言なんかするからだ。気づけば俺は行き先を自宅から東京方面に変え、そして助手席にはポンチョから覗くレギンスの脚が艶っぽい綾乃。我ながら何をしているんだと思いながら愛車を走らせていた。

「まったく。もし廉兄ちゃんが生きていたら、きっと俺と同じことを言うよ」

 あの直情ケダモノ藤堂の前にこんな恰好の綾乃とふたりきりにするなんて、狼に喰い時の仔羊を提供するようなものだ。相変わらず天然で子供な綾乃に対し、俺は懇々と説教を続けていた。

「しかも泊まりで友達となんてウソまでついて。友達がもし裏切ったらどうするつもりだったんだ?」

「そんな心配なんか必要ないぞっ。だって元々これ以上ないってくらい嫌われてたとこから親友になれたんだもん。っていうか、何、お前マジで関東までついてくる気?」

 ものすごい今、イヤな顔をされた。藤堂とつき合うようになってから、以前より感情を顔に出せるようになって来た。それは大いに結構だけど。

「俺も東京観光したいもん。藤堂にも直接お祝いを伝えたいしね」

 にやりとこれみよがしな嫌がらせスマイルを零して虚勢を張る。

「藤堂につけてある貸し、そろそろ返してもらおうと思ったから、顔だけでも見てから帰るよ」

 なんだそれ、とストレートに尋ねる綾乃に、中学の生徒総会役員席の操作のことと、高校の頃、綾乃にちょっかい出しそうになった藤堂がおふくろさんから叩きのめされた時に穏便にことを運んでやったことを伝えてやった。

「そ、そう言えばそんなこともあったよな……」

 それは後者のことだろう。前者のことには目を丸くして、「ばっかじゃねーの?」と毒づいていた。

「ホントは嬉しい癖に。素直じゃないね、綾乃は」

 いつもならそのまま「素直におなり」という言葉を続けていた俺なのに。出ないのはきっと寒さの所為で、口が凍えて固まっただけだ。

「だから、今年こそ素直になろうと思って……その、なんだ」

 綾乃は口ごもりつつもそこまで言った癖に、そこから先は結局言葉に出来ないでいた。




「望月ィッ?! なんでお前がココにいる!」

 この焦って憤る藤堂の顔が、俺は堪らなく好きだ。いや、決してヘンな意味ではない。

「廉兄ちゃんの代理」

「……ブッ殺す!」

「いい加減にしやがれ貴様らッ」

 藤堂の顔から、メキョっという鈍い音がした。綾乃の放った鉄拳が、ヤツにだけクリティカルヒットした。


 観覧車に乗って、中華街で飯食って。ぶらりウィンドウショッピング。なんていうか、故郷以外でふたりと過ごすのが初めてな所為か、妙な違和感を禁じ得なかった。

 ――もしかして、あんまり巧くいってないのか?

 最初は俺がいる所為だと思っていた。そもそもちょっと突付いて藤堂をからかったら、別行動で待機して夜には綾乃を守るべく連れ帰ろうと思っていたのに。

 一緒に遊ぼう、なんて藤堂の方から言い出したものだから。

「綾乃、また泣きそうな顔してる」

 ぼそっと呟いた俺のそんな声が、藤堂に届くことはなかった。

 ここでの藤堂は、一応有名人のようだ。一部ではあるけれど、顔を見て声を掛けて来る人が何人かいた。スポーツタオルにサインをせがむ少年と公園で会った。あいつは普段もそうらしいが、気さくにそういうものに応えてやるらしい。

 そして綾乃を彼女として傍に置くのも会う時のデフォという感じらしい。

「あの、すみません。東海大の藤堂さん、ですよね?」

 派手な化粧と軽い口調の女ふたり組が、俺と綾乃を無視して藤堂に声を掛けて来た。

「うん。そうだけど」

「あ、やっぱりー! 同じ教育学部の鮎川美園よ」

「あたしは菱川美也子。ほら、この間ゼミで九柳(くりゅう)くんが紹介してくれたでしょう。覚えてる?」

「おおっ! 思い出したっ。あゆとみや! あん時はノートのコピー、サンキューなっ。すんげえ助かった!」

 見えない会話と知らない藤堂。それが綾乃から時間と笑みを奪っていることに、このバカ狸は気づかないのか。

「あ、ごめんなさーい」

 女のひとりがわざとらしいくらい、手にしていたアメリカンドッグを綾乃に向かって傾けた。

「あ、いえ」

 呟く綾乃の声が、消えてしまいそうなほど小さい。バイト代をコツコツ貯めて買ったのだろう、新調したばかりと思しきポンチョに、アメリカンドッグについていたケチャップとマスタードがつけられていた。

「あっ、お前らなあ。綾乃、平気か?」

 そう言う口調は全然彼女達を責める口調ではなく。

「……うん。あ、アタシ、望月と船ん中見て来る。友達だろ? 話してていいよ」

 綾乃は突然顔を上げたかと思うと、藤堂にそう言って俺を逃げる口実に巻き込んだ。

「え、ちょ、おい綾乃っ」

 それは藤堂と俺が同時に発した戸惑いの声。ザカザカとファーの擦れる鈍い音を奏でる綾乃のロングブーツ。ケチャップとマスタードがついたポンチョを、綾乃は忌々しげに脱いで、それをそのままゴミ箱へ放り込んでしまった。

「綾乃……風邪ひくよ」

 ゴミ箱に放られたポンチョを取り出し、汚れていない面を表にしてコンパクトに纏める。仕方がないので俺の着ていたブルゾンを脱いで肩に掛けてやった。

「そこの婦人服の店に入ろうか。俺が買ってあげるから」

 とにかく店に入らないと。藤堂に今は顔を見せたくはないだろうから。

「……ひっく」

 綾乃は俺の提案に答えるように、ひとつだけしゃくりあげてから頷いた。




 コートを買って、店を出て。それから藤堂と合流することなく、ふたりでイタリアンの店でランチを摂った。

「恋愛禁止、なんだって。モチベーションをそいじまうから」

 綾乃がそう切り出して初めて語った。こちらでの藤堂との過ごし方。

 昨年のミラクルシュートで逆転優勝を決めてから、割と大学側がうるさいらしい。それはもういろんな意味で。学校側としても藤堂自身も、K製鐵にだけはばれたくない、という意図があるらしい。彼女の存在を公言している藤堂としては、それが悪いとは思っていないものの、必要以上に綾乃との交際に対する反感を持たれたくはないそうだ。

「まさか、応援するどころか存在が邪魔になるなんて思ってもみなかったんだ」

 学校内の暗黙のルール。そんなもの入学してみないと解らない。特にバスケさえ出来ればなんでもいい、なんて藤堂だから調べるなんて概念すらなかったのだろう。

「それで知り合いと会うと、こうやって退いて来ちゃうのか。……綾乃らしくないな」

 俺は俯いてはたはたと雫を零す綾乃の頭を掻き混ぜ、彼女にそう叱って苦笑を零した。

「小学校ン時から頑張ってたんだぜ、あいつ。アタシなんかの所為で、夢を潰したくないんだ」

 そういうのは、廉兄ちゃんとお父さんやお母さん、家族だけでたくさんだ。

「……藤堂からの連絡、遅いね……」

 綾乃の吐露に返す言葉なんか、幾ら俺でも見つからなかった。


 十一月の日没はいきなりであり、そして早い。

「……帰る。望月、無駄足踏ませて、ごめんな」

 点灯したランドマークタワーを見上げて、綾乃が呟いた。

「あそこ、泊まってみたかったなあ」

 ぽつりと呟いて、バッグからプリントしたらしき紙切れを取り出す。それを見て俺は内心相当かなり、珍しいくらいうろたえた。

「ちょ、っとまさか綾乃、泊まるって言ってたホテルって」

「うん、あそこ。あそこから見る夜景がきれいだってバスケの仲間が言ってたから一緒に見てみたいって、前に雅之が言ってたから。誕生日プレゼント、とか思ってフンパツしたんだ。月一しか会えないからさ、基本バイト三昧で過ごしてるから、結構オレって懐に余裕あるし」

 オレに戻ってると言う突っ込みさえ忘れるほど、心の中で別の突っ込みを入れていた。

 ――藤堂の思惑はまったく全然百八十度違う目的だぞ綾乃!

 とは言えないので、押し黙る。一歩綾乃の後ろを歩く俺の拳は、ブルゾンのポケットの中で震えていた。

「当日キャンセルだから、金だけは払いに行かなくちゃ。お母さんとお父さんの名前で予約したからさ。ばれるとマズいからキャッシュ払いで申し込みしちゃったんだ」

 無理して笑みを浮かべてそういう綾乃の手を久し振りに握った。

「行こう」

「つき合わせて、ホント、ごめんな、望月」

 足早に歩き出した俺の一歩あとから小走りする綾乃のその謝罪には答えなかった。


 善意を装い綾乃からプリントアウトした紙を受け取り、代わりに俺がフロントへ向かう。

「ウェブからご予約の宮下様、二名様でございますね」

 今日ほど年より老けて見えることに感謝した日はないと思う。綾乃と藤堂じゃあ、成人と言っても未成年と間違えられて身元確認の為に自宅へ電話を入れられかねない。何食わぬ顔でチェックインの手続きを済ませた俺は、部屋へ案内するというドアボーイの言葉を丁重に断りルームキーだけを受け取った。

「綾乃。せっかく来たんだから、夜景くらい見てから帰ろうよ」

 ロビーのソファで待っていた綾乃にそう声を掛けると、綾乃は誰かと携帯電話で話をしていたらしく、慌てて顔を上げて指で丸をかたどった。少しだけ笑顔が出始めている。

「あ、ごめん。そういう訳だから、一泊ってことでお母さんからもし電話が来たら、口裏の方、よろしく。ごめんよ」

 電話の主は藤堂ではなく、口裏を合わせていた親友とやらのようだ。

「お人よしの大馬鹿って、怒られちゃった」

 そう言ってペロリと舌を出す仕草は、幼稚園の頃と変わらない。

「まったく。落ち込んでる時ほどテンション上げて話すんだから」

 廉兄ちゃんならこんな時どう綾乃をあやすんだろう。そんなことを考えながら、俺は綾乃の大きなボストンバッグを肩に担いで彼女をエレベーターへ促した。

 あんなに必死こいて手に入れた癖に。なんだ、このぞんざいな扱いは。

 廉兄ちゃんも、藤堂に対してそんな風に怒っただろうか。

 ――怒ってるのか、俺。

「望月、なんか喋れよ。顔が怖い」

 綾乃がダメ押しのように俺をそう評した。




 我ながら嫌な奴かも知れない、と思う。だけどでも、人の弱っているのにつけ込んで何が悪い?

「ほったらかす藤堂が悪いんだろう」

 綾乃が洗面台へ顔を洗いに行っているのをよいことに、思ったままを声にした。

 チェックインに最初こそ驚いた綾乃だったけれど、初めてだらけの経験を実感するに従い、段々表情が面に出るようになっていった。展望のすばらしさに見惚れ、高級ホテルの完備に感動し、ルームサービスのワインとオードブルに舌鼓を打って。

『サーイコー! ビバっ、都会のゼータク暮らしっ!』

 暮らしじゃないよ、と突っ込んだ俺に、酔っ払った勢いで思い切りぶん殴るくらいの元気を取り戻した……かのように見えたのだけれど。

『……雅之はこーいうキレイな景色と、ああいう垢抜けたキレイな女の人とかに囲まれて暮らしてるのがフツー、なんだよな』

 ぽつりと零したかと思ったら、今度は勝気な大きな瞳から大粒の涙を、パタパタとととめどなく零し始めた。

『ヤな奴、ヤな奴っ。信じるって言った癖に。信じろとか言った癖にっ。応援するって言った癖にっ。なんでこんなヤな奴になっちゃったんだよ、オレ』

 懐かしさに胸がきしりと痛む。無防備な泣き顔が、俺に腕を伸ばさせた。

『ヤな奴じゃあ、ないさ。それだけ好きなんだろう、藤堂のこと』

 そう言って、綾乃の頭を抱き寄せた。綺麗事なんか言ってないでついて来ればよかったのにとか。独り占めしたくなるのは当然の心理なんだよ、とか。俺こそが綺麗事を言って泣き止ませようと、あの手この手を使って足掻いていた気がする。

「……なんか、段々腹立って来たな」

 なんで藤堂の為に俺がここまでしなくちゃならないんだ。

 そんな俺の苛立ち混じりの疑問に答えようとでもしたのか、綾乃の携帯電話がベッドの上でぷるると鳴った。

「……タヌキだし」

 電話の主を確認すると、俺の中で何かのスイッチが入った。そっと通話のボタンを押して電話に出る。

『綾乃っ、ごめんっ。バスケ部の連中に捕まっててさ。サプライズで誕生祝とか会場を設けててくれて、抜け出すのに手間取』

「綾乃なら、今風呂だけど」

 勝手に口が動いてた。

『もちづ……っ、おま、まだいたのか、って、何ぃ、風呂ぉ?!』

「だって見てられなかったんだもの。お前が悪いんだよ、藤堂」

 綾乃は返してもらうから。自分で言った言葉に俺自身が驚いた。

『てめ、今どこだぁ!』

「さあね」

 ブツン、通話、終了。サクサクと着信履歴を削除する。元の位置に電話を戻し、最後の一杯を空にする。

「あれ? 今、電話鳴ってた?」

 すっぴんに戻って少し目の腫れを引かせた綾乃がバスルームから顔を出した。

「いいや」

 俺はなにごともなかったように、完璧な作り笑いを浮かべてみせた。




 部屋に置かれたクリーニングバッグを拝借し、汚れたポンチョをそれに詰める。綾乃はそれをバッグに詰め込むと、「やっぱり帰る」と無理して笑った。

「東京観光がまだだろう? 折角出て来れたのに」

「うん、でもまだ今日中にホテルをキャンセルすれば間に合うし。これ以上望月を巻き込むのは、なんか悪いや」

 ベッドの上にあひる座りをして、力なく笑う綾乃のそんな顔を、どこか見覚えのある表情だと思った。

 ――ああ、そうか。廉兄ちゃんの……。

 通夜と葬式、それからあと、しばらくの間。綾乃はしばらく家で暮らしていた。綾乃のお母さんが廉と呼び、綾乃がいなくなってしまった所為で、綾乃は自分を責めるだけ責めて、挙句向日葵のような自然な笑顔を失ってしまった、あの頃。

 忘れていたことを思い出す。忘れていた感情まで思い出してしまう。

「望月?」

 いつから綾乃が俺のことを、貴明の「タカ」じゃなく苗字で呼ぶようになったのかを最初に思い出した。

「昔みたいに、タカって呼んでみ?」

 触れた頬をそっと上げさせ、そう促してみれば、くしゃりと顔をゆがめる。あの時と同じように、くしゃくしゃになる。

「昔みたいに、綾乃、って」

 俺の前でまで強がらなくていいんだ、と言った気持ちに百パーセント嘘はなかった。

「あの時なりの精一杯だったんだろう? 自分が廉兄ちゃんじゃなくて、綾乃なんだっていう自己主張」

 廉兄ちゃんを演じて、廉兄ちゃんと同じ恰好をして、廉兄ちゃんと同じように「タカ」って呼んだままだと、綾乃が完全にいなくなってしまうから。

「……タカ……また、綾乃は大事なものを失くしちゃうのかな……」

 少しも警戒心を抱かないで、綾乃は自分から俺の懐に飛び込んで来た。

「藤堂が、悪いんだ」

 だから、弱ってる綾乃につけ込む俺が悪いんじゃない。

「そんなに苦しいなら、忘れちゃいなよ」

 ぎし、とベッドが小さな悲鳴を上げた。

「……っ?! タ」

 華奢な身体を力いっぱい抱きしめたのは、十数年ぶりのことかも知れない。いつもどこか遠くを見てる綾乃だったから、そんなことをしたら壊れてしまうんじゃないかと思っていたんだ。

「なのに、あっさり藤堂が掻っ攫っていくから」

 意外過ぎて、その後何も画策する手が思いつかなかったんだ。

「そんなに固まらなくってもいいよ。なんにもしないから、たださ」

 藤堂以外も見てみなよ。もっと周りを見てみろよ。そう言いたいだけなんだ。けど。

「朋華が泣くぞ」

「!」

 綾乃から飛び出した意外な言葉に、一瞬動きを封じられた。

「うりゃーぁっ! もーちづきぃぃぃぃっっっ!! 開けやがれぇぇぇえええ!!」

 同時に轟いた爆音じみた怒鳴り声と、はた迷惑なドアを蹴飛ばす大音響。

「うそ、マジ?」

 外が突然騒がしくなり、俺の中で燻っていた何かがあっという間に吹き飛ばされた。

「君っ、止めなさい! 警察を呼ぶぞっ」

 外から聞こえるそんな声にぎくりとしたのは俺だけではなかった。綾乃はあっという間に俺の下から滑り抜けると、部屋の扉を開けて従業員に怒鳴っていた。

「つ、連れっ! 連れです、それ!」

「こらっ! それとはなんだっ! このバカ女!」

「バカはお前だっ、クソバカ之!」

「え? あ? お客さま……?」

 完全に、醒めた。萎えた。何かのスイッチがオフになったまま俺の中で完全に壊れた。

「お騒がせしてすみません。ゲストは自分なんです。田舎から出て来たので独りでは心細かったらしくて、頼まれて一緒に待っていたんです。でも、宿泊客以外は入室禁止なんですよね。すぐ出ますから」

 藤堂の名前で部屋を取っていなくて正解だった。危うく中退になるところだった。

 訳も解らず目を白黒させたまま、藤堂を捕らえて呆然とする従業員の横をすり抜ける。

「じゃ、貸しみっつ目ってことで」

「ちょ、おい待てよ、望月っ」

 知るか。バカ之。

 俺はそう口にする代わりに、わざと余裕たっぷりの微笑をバカ狸に向かって放ち、悠然とその場を立ち去った。




 深夜の高速道路をひた走る。飲酒運転? 知るか。

 BGMは、廉兄ちゃんが好きだった古い古いフォークソング。

「会ーうたーびぃ、きーみはぁー」

 素敵になって、そのたび僕は取り残されて、と切なげにボーカルが歌う。

「きぃみのー、ために今ー、なぁにがー、出来るだろうー」

 大切な、綾乃のために、と置き換えて歌いながら、ひたすらに戸多瀬を目指す。


 綾乃が笑うと、ただ嬉しかった。

 綾乃が泣くと、どうにかしてやりたくなった。

 弟しかいない俺にとって、大事なたったひとりの妹みたいに思っていた。


「なんだよ、綾乃をブラコンにしてたのは、俺だったんじゃん」

 そう、これは恋なんかじゃない。俺はきっと憧れの廉兄ちゃんになりたかっただけなんだ。その証拠に、ケータイに入った綾乃からのお礼メールを見ても、ちっとも悔しくも悲しくもない。藤堂の声が聞こえた瞬間に綾乃が見せた嬉しげな顔を思い出しても、これっぽっちも苦しくなんかない。

「……なんだよ、雨かよ」

 ゆがむ視界にそう毒づいた。ワイパーをオンにしてもちっとも視界が開けないことに、ほんの少しだけ苛ついた。




 自宅から少し離れたところに借りている青空駐車場。畑だらけの真っ暗な闇に、煌々と輝く黄金の月。ちょっと欠けている辺りが、なんだか今の心境に見えた。例えるなら妹に彼氏が出来たと知って軽いショックを受けた喪失感、みたいな。

「うゎ」

 そこにあるはずのない人影を見て、危うくステアリング操作を誤るところだった。

「藤堂君と綾乃のキューピット役、大変お疲れサマでゴザイマシタ」

 そう言って急停車した俺の車に近づいて来たのは。

「……朋華。なんで知ってる?」

 学校帰りのあとそのままのようだ。通学仕様の地味な服装の朋華が苦笑を浮かべ、当たり前のように助手席へ滑り込んで来た。

「昨日の敵は今日の友、っていう奴よ」

「友……あれだけ藤堂のことで険悪だったのに」

 綾乃の今日の通話相手が誰だったのか、今更判ったところで意味はないけれど。

「傷心だろうから、慰めてあげようかと思って」

 友達としてね、と前置きをされても、なんだかな。

「そういう心境じゃないんだけど」

 溜息混じりでそう答え、面倒臭げにシートベルトを外した。

「あら、普通の解釈が出来ないの? 思ったより頭が悪いのね」

 朋華の憎まれ口にカチンと来る。

「あのな……って……おい」

 不意打ちのように頬へハンカチをあてがわれ、自分が今どういう状態なのかをようやく知った。

「あのふたりには敵わないわよね。腹立つくらい、純愛期間が長過ぎる。いっそさっさとまとまっちゃえば、こっちも諦めがつくのにねえ」

 ふわりと抱き寄せられた頭が、素直に朋華の胸に沈んでいく。朋華もこんな想いをしてたのか。そう思ったら、少しずつ彼女への苦手意識が薄れていった。

 無様で惨めで情けない俺を、朋華と欠けた月だけが見守っていた。




 その年の正月に、藤堂が戸多瀬に帰って来た。小さな田舎町から出た英雄を、仲間達が放っておくはずもなく。

「婚約ー?!」

 同窓会のメインテーマは、その一点に尽きていた。数えでまだ二十二歳という若さ、しかもまだお互いに学生なのに。賛否両論なお節介コメントが飛び交う中、全身で浮かれている藤堂は、本気で嫌がっている綾乃にみんなの前でキスしてた。

「だからお前ら、あと半年、俺が綾乃を迎えに来るまでちょっかい出すなよ! 出したら速攻ぶっ殺す!」

 綾乃に殴られて鼻血垂らしながら言われても全然説得力がないんだけどな。

「藤堂の奴、監督や学長に、健康管理を安心して任せられるから、バスケをいいモチベーションで続ける為にも、今すぐ結婚するんだって説得しちゃったらしいよ」

 藤堂と未だに交流のあるバスケ部員だったクラスメートがそう言ってくすりと笑う。俺はどんな顔をしていいのか解らず、ただ「ふーん」とだけ答えておいた。


「おい、望月。やっとこ掴まえたっ」

 皆が泥酔状態になって、誰が誰だか解らなくなった頃、ようやく解放されたらしい藤堂が俺の方へにじり寄って来た。

「なに」

「みっつの貸し、けじめだ、けじめ。綾乃との負の共有財産になる前に返しちまいたい。なんか言え」

「言え、ってまた唐突な」

 こいつも充分に目が据わっていた。

「あ、よっつ分な。お前のお陰で綾乃と別れなくて済んだから」

 恥ずかしげもなくそう言って、相変わらずの子供っぽい顔でニカっと笑う。

「……はぁ」

 このニカっていう奴が、憎めない所以。腹立つくらい、憎めない。

「呆れるなよぉ。マジ感謝。なんかさ、俺、高校ン時のアレでさ、なんかもうトラウマっつーの? どうしていいのかとかわかんなくってさ」

 高校の時のアレ……トラウマ……?

 俺と藤堂の共有している過去を、焼酎を嗜みながら辿ってみる。

「あ、アレか」

 綾乃を自宅で襲った挙句、しくじっておふくろさんと綾乃に戦闘不能にされた、あの一件のことだ。

「今度綾乃の友達とか紹介しようか。それとも」

「子供が出来たら是非当院で。綾乃の触診は俺がする」

「なにぃ?!」

 デカ目狸がゆでだこに変化した。口にし掛けた焼酎を思わず噴き出し、たたみ職人と化す俺がいた。

「ゆ、赦さんっ、それだけは赦さん! ってか何、触るのか?! 触らないといけないのかぁ!」

「さあ?」

 家業を継ぐ楽しみが出来た。そう言ってにやりとしてやると、藤堂が半べそで「それだけはお願い勘弁してください」と頭をたたみにこすりつけて頼んで来たので、溜飲を下げてやることにした。

 なんかちょっと頼りないけど。だけどこいつと一緒にいることで綾乃が笑っていられるなら。

 あの向日葵みたいな心からの笑みがずっと宿るのならそれでいい。

「おめでとう。綾乃を今度こそ絶対泣かすなよ」

「おう、お前と廉兄ちゃんに誓ってやるよ」

 結構長いつき合いなのに、その時初めて、俺は藤堂と握手を交わした。

 心の中で、問い掛ける。廉兄ちゃんに問い掛ける。

 もし廉兄ちゃんだったら、きっと許していたよな?

 ――もちろん。

 そんな返事が聞こえた気がした。

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