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チャンスの神様-ボーイ・ミーツ・ガール-

 ――泣かないでよ、綾乃ちゃん。俺も、もう泣かないから。

 ――綾乃が悪いのに、許してくれてありがとう。

 ――よかったね、綾乃。……君、許してくれてありがとうね。


 なんて言ったかなあ、あの男の子の名前。

 廉兄ちゃんは、なんて呼んでお礼を言ってたんだっけ。思い、出せないや――。



「うぁ、寝覚めわる」

 七歳の時の出来事をそのまま再現させた夢が、オレにそう呟かせた。

「綾乃ー、遅れるわよ。今日は生徒総会なんでしょう?」

「うぉーい、今起きた」

 朝飯は抜きだな。セーラー服に着替えながら、ぼんやりとそんなことに思いを廻らす。早く夢のことなんか忘れちまって、さっさと学校へ行かなくちゃ。

 トントンと階段を降りると、台所からお母さんが顔を出す。

「綾乃っ、役員の紹介をされるんでしょう? ちゃんと髪をセットして行きなさいよ」

「めんどくさ」

「何か言った?」

「なんでもなーい。準備があるから飯要らない。行って来ま」

「ごはんは要らない、でしょう。もう、すっかり女の子にしか見えない年になってるんだから、いい加減に言葉を直しなさい」

「ふぇーぃ」

 毎度繰り返される朝の会話。結構鬱になる小言。

「それに朝ご飯を抜くなんて、女の子は後々」

「子供を生む体なんだから、だろ。解ってるって、行って来ますっ」

「こら、綾乃っ」

 思い切り笑っている顔をアピールしてから玄関の扉を閉めた。

「廉って呼んでたのはお母さんじゃん」

 オレのそんな声は、きっとずっと一生、お母さんには届かない。

 お母さんの望みで伸ばし始めた長い髪。面倒くさいけれど、それが女の子の象徴なんだと。


 オレが七歳の時に、廉兄ちゃんが死んだ。ボールを追いかけて道路へ飛び出したオレを助けた所為で、オレの代わりに死んだ。最期に聞いた言葉は、

『綾乃、怪我はない? よかった』

 にこりと笑って、そのまま目を閉じて、そして二度と開かなかった廉兄ちゃんの目。

 しばらくの間、お母さんはオレを廉と呼んだ。お母さんの中から綾乃がいなくなった。オレの所為だ。だからオレは七歳の頃から中学に上がる頃まで、男だと思って生きて来た。廉兄ちゃんになる為に、廉兄ちゃんくらい勉強とスポーツに精を出した。


「解ってるさ。お母さんが女の子を無理強いするのは、オレに悪かったと思ってるからだろ?」

 背まで伸びた髪の先を見つめながら独り言を言う。

「今更女になんて戻れるか」

 きっとこの言葉は、お母さんを傷つける。オレは徒歩の足を、次第に早めた。思い切り踏み込む。アスファルトの路面を。それと一緒に、さっきの言葉もぶっ飛ばした。




 眠たい生徒総会の時間はあっという間にやって来て。

 何故か今年は役員席の配列が違う。オレが副団長を務める応援部の隣は毎年保健部だったはずなのに。今年は何故か整美部がオレの隣の席だった。

 席次を見て、ふと思う。

(藤堂雅之って、バスケ部の、だよな)

 まだ空席なままの隣の席に、くりくりデカ目の狸ヅラを見た気がした。

 男子バスケの応援の時、オレはつい奴の姿を目で追ってしまう。フォームがすげえ綺麗なんだ。そしてよくくるくる回り、動く。あいつ、絶対こんな田舎で燻ってるタマじゃない。タッパも七十ないのに、ダンクをむちゃむちゃ綺麗に決めるんだ。

 今年は三年、目立てる年。あいつには、絶対全国大会まで進んでもらって、どっかバスケの強いチームの監督とかの目に留まって欲しい。一年の内からレギュラーだった雅之の中に、オレは勝手に廉兄ちゃんを見ていた。兄ちゃんも、バスケの主将をやっていたから、かも知れない。

「オレが殺してなければ、今頃プロってたのかな」

「コロシ? 何物騒なこと言ってんだよ」

「うぉ」

 びっくりした。いつの間にか隣の席に、もう雅之が座っていた。ざわついていた体育館も、すっかり静まり返っていて。

「これより、前期生徒総会を始めます、一同、起立」

 オレが雅之に答える間もなく、生徒総会が始まった。


 プリントされた議事録を読み上げるだけの総会は、ぶっちゃけ副部長のオレにとって暇な時間だ。オレは議事録に落書きなんかをして時間が過ぎるのを待っていた。

『なあ、オレが殺したって、なに』

 右からずいと腕が伸びて、それがオレの議事録に遠慮のない言葉を書き殴った。

『うっせえ、ほっとけ』

 書いてから、きっと睨む。ニヤリと笑う雅之は、それでもどこか憎めない屈託のなさを持っている。これが生徒会長の望月と人気を二分する秘訣なんだろか。

『んじゃ、質問変えるわ』

 そうしたためる為に俯くと、結構まつ毛が長いことに気がついた。いつも二階のギャラリーから遠目で見るだけだったから、こいつの顔なんてこんなにしげしげ見たことなかった。

『綾乃が望月の彼女って噂、ガチ?』

「何ぃ?!」

 叫んだ声が、反響する。議事録を読み上げていた保健部長の言葉に混じって。どうやらマイクが、オレの叫び声まで拾ったらしい。

「宮下さん、質問は発表後にお願いします」

 冷ややかな議長の声と視線が痛かった。

「……すみません」

 そう呟いて腰を下ろした。下ろしたことで、立ち上がってまでいたのかと、自分のうろたえ振りに深いため息が零れ出る。

『ばーか。おもしれえ奴。ただの幼馴染だって知ってるっつうの』

 議事録に書かれたその落書きが、オレに雅之を睨ませた。

(お前は一体何がしてえんだよっ)

 奴はオレのそれには答えず、ただ「にかっ」と悪びれのない笑みを零しただけだった。その「にかっ」に、なんていうか……やられた。


 総会が終わり、役員で椅子と簡易机の片付けをしてる時、初めてまともに雅之と話した。クラスも違うしオレは部活に入ってないし。存在は知ってても喋ったことが今まで一度もなかったんだ。

「なんでお前がオレのこと知ってるんだよ」

 普通に疑問を口にしたつもりなんだが。奴は丸くてでっかいくりくりお目々を更に大きく見開いて、そのあと爆笑しながら言った。

「お前、全然気付いてなかったのかよ。書道教室、同じトコに通ってるじゃん」

「嘘、マジ? オレ、全然お前を見たことねえぞ」

 オレ、誰かとつるむとかなかったから、教室の連中を眺めるなんてしたことがない。だから雅之が同じ教室に通ってるなんてことも、今の今まで知らなかった。

「お互い、普段は制服だから気がついてなかったんじゃねえの」

 と雅之は苦笑した。ざわめく体育館の気配を感じて席を立つと。

「んじゃ、あとはよろしくっ」

「はぁ?!」

 雅之はオレの言葉を無視し、パイプ椅子を巧みにオレに預けて逃げていった。

「ちょ、てめえの椅子くらい片付けて」

 行け、といい終わらない内に、オレはあっという間に女子軍に囲まれた。

「ちょちょちょちょっと、綾乃?! なんで藤堂君と喋ってるのっ」

 は……?

「し、知らね。向こうが勝手に喋って来た」

「えーっ?!」

 何だよ、おい……。

 オレはその後クラスの女子から、半ば無理やり音楽準備室に軟禁された。


「ちょっと、どういう手を使ったら藤堂君からあんな風に喋ってくれるのか教えなさいよ」

 自他ともに認める学年一美人の朋華が、剣呑に目を細めてオレを上から下へとじろじろ眺める。

「あんなタヌキ顔のどこがいいんだ?」

 と言ったら、朋華のみならず全員から平手で引っ叩かれた。

「誰もあんたの好みなんか訊いてないし。どうやって藤堂君に取り入ったのよ」

「取り入る理由がねえじゃん。それにオレ、あいつと喋ったのって今日が初めてだぜ?」

 っつってんのによっ! 誰も信じてくれなかった。面倒くさくなって、女子の欲しがりそうな言葉をくれてやることにした。

「オレを女と思ってないから、ダチトモ感覚で喋ったんじゃねえの? 副部長って座ってるだけだからぶっちゃけ暇だしさ。雅之の反対隣も女子だったじゃん? オレのが暇潰しになるかもって思っただけじゃね?」

 パーフェクトアンサー。この回答で、女子どもがようやく吊り上げた眉尻を下げ出した。

「あ、そっか。そうよねえ。綾乃が彼氏とか、マジあり得ないし」

 おい、それはそれで、何気に結構傷つくぞ……。

 まあ、そんなこんなでオレはようやく解放されて、その日はどうにかそれで終わった。




「おぉ、ホントにいたよ」

 次の日曜日、いつもの時間に書道教室に行くと、ホントに雅之がきったねえ字を書いていた。

「センセ、こいつっていつからここに通ってた?」

「なんだ、お前ら知り合い同士だったのか。宮下と同じ頃からだぞ。な、藤堂」

 ってことは、小学校に上がってすぐの頃からってことか。

「お前、女の癖にそーいう言葉遣いだからさ、覚えられやすいって自覚しとけよ」

 雅之は横からそう口を挟むと、人が折角セットした半紙に「へのへのもへじ」を書きやがった。

「あっ、てめ! お前の半紙、一枚寄越せっ」

「ケチなこと言ってんなよ、この男女」

 その直後、ふたりで先生からゲンコツを食らったのは言うまでもない。


 それから、あいつがどんな奴なのかを知り始めた。

 毎週日曜日は一緒に書道、実は数学の成績が落ちて、今年から通い始めた数学塾にもあいつはちゃっかりいやがった。

「お前はまあ大丈夫だろうけど、ここの先生には気をつけろよ。前に生徒に手を出して、パクられたって噂だから」

 そんなこんなで、ここの帰り道も途中まで一緒に帰ったりしてた。それでも、オレのこんなキャラのお陰で女子に妬まれることはなかった。

 まあ、そりゃそうだな。この間なんか雅之と喧嘩してさ。あいつの回し蹴りが顔面に入って、生まれて初めて鼻血噴いた。

「雅之っ、きっさま、それが女子にやることかっ」

 鼻血ぶーのまま奴の胸倉を掴んでグーで殴り返す。

「お前のどこが女子なんだよっ。ざけんな、この男女っ」

 荒い息を弾ませる雅之を周囲の男子が、鼻血で無残な顔になってるオレを幼馴染の望月が止めた。

「藤堂っ。いい加減にしとけって。宮下はあれでも一応女子だぞ!」

「あれのどこが女だよっ。胸ない、色気ない、口が悪い! 髪の毛伸ばしたって意味ないしっ」

「こここここのやろ、人のコンプレックス刺激しやがって……っ」

「解り切ったことを今更コンプレックスとか、笑えるし」

「ンだと、ぅぉ痛えええっ!」

 もう一度殴りかかろうとしたら、望月に腕を強くねじ上げられた。こいつ、なよいツラをしてる癖に、やることがまったく容赦ない。

「あーやーのっ。まずは鼻血拭いて。そんなんだから、藤堂に男女って言われちゃうんだよ」

 何故かグッサリと脳天に弓矢が刺さった。


 その日は、雅之とは帰らなかった。どうせ途中で分かれ道になるから、別にどっちでもいいんだけど。望月が心配して一緒に帰ってくれた。吹奏楽部の練習をサボらせたこと、ちょっと悪かったな、と反省してた。

「何が喧嘩の原因? 綾乃が喧嘩なんて珍しいじゃん」

 正々堂々がモットーのオレ。『自分からは絶対に喧嘩を仕掛けない』が、ポリシーだったんだけど。今日はちょっと虫の居所が悪くて、雅之の八つ当たりが無性に許せなかったんだ。

「喜美江から雅之宛の手紙を頼まれたから、それを渡したんだ。そしたら、ふざけんな、とか言われて。意味わかんねえし、むかっ腹立ってたから、喧嘩腰ってのが余計頭に来て……気がついたら殴ってた」

 オレの徒歩に併せて自転車を押してた望月が、呆れた顔をして立ち止まった。

「……そりゃ藤堂が怒るのも無理ないよ」

「なんで? 確かに、先に手を出したのはオレだけどさ、あいつが先に喧嘩を売って来たんだぜ?」

「わかんない、のか……」

 下に三人も弟がいる所為か、望月は同い年なのにオレの兄貴みたいに、くしゃりと頭を撫でた。

「ちゃんと明日は謝りな」

 と笑って言う。

「綾乃はもう、廉兄ちゃんの真似をしなくていいんだからね」

 と、意味不明なひと言をつけ足した、その意味がオレには解らなかった。


 ――あれのどこが女だよ。


 好きでこんなんなったんじゃないさ、ぼーけ、ターコ、バカ之。

 だけど、思い出してしまった。明日はあいつ、試合じゃねえか。明日は決勝、全国大会へ行けるかどうかが決まる大事な日だ。ここで負けたらもう中学最後の試合ってことになってしまう。ナーバスになってる時に、悪いことした。

「ってか、もうオレの応援なんかうぜえかな……」

 枕を抱きしめ、布団に潜る。

「……鬱だ……」

 声にしたら、余計に気が滅入った。




 でもその翌日、昨日のとは比べ物にならないくらい、もっと鬱な出来事に見舞われた。

 雅之の大会試合はすげえ接戦で。同点になっちまって、フリースローで負けちゃった。

 最後の試合、昨夜のお詫び、そう思って、今までで一番心込めて応援出来たつもりだったのに。

 皆が帰っても、選手達が制服に着替えて出て来ても、雅之だけは、体育館から出て来なかった。

 オレは団長に部員を頼んで、白手袋に応援団のねじり鉢巻、たすきのまんま、雅之を探しに体育館へ戻った。

「雅ゆ」

 呼び掛けた声は、途中でつかえた。フリースローを続ける奴の背中が泣いていた。百発百中に息が止まる。それも試合中のフリースローの時の位置よりもっとゴールから遠い、まあるい円の外側からのロングシュート。それが雅之の手から放たれるたび、哀しいくらい完璧なシュートラインを描くボールが、綺麗な弧を描いてゴールネットへ吸い込まれていく。試合が終わってからなんて、惨酷過ぎる。

「ごほっ、ごほごほっ」

 しまった、三分過ぎた。雅之がむせたオレの方を驚いた顔して振り返った。

「ばーか……。なんでお前が泣いてんだよ」

 雅之にそう声を掛けられるまで、オレは自分の頬がびっしょりになっていることに気づいていなかった。

「俺、欲張り過ぎて優勝を逃したのかも知れないな」

 雅之はそう言って、無理やりにやりと笑ってみせた。だけどツと伝っていく。奴は慌てて頬を伝った悔し涙をタオルで拭った。


 体育館の端っこに座り込んで。

 雅之はあぐらを掻いてドリブルしながら。オレは外したたすきを弄びながら。ただなんとなく、そこに居た。

「お前の声が、一番聞こえた。ありがとさん。昨日は、悪かったな」

 雅之の、そんなやらかい声を初めて聴いた。喧嘩両成敗だ、と言いたいのに、なぜか喉の途中で言葉がつかえる。

「だい、じょぶ?」

 途切れ途切れの言葉は、なんだかオレの言葉じゃないようで。そうさせたのは、意外にも笑ってオレを見る雅之が初めて見せる瞳の色の所為だった。

「へーきだよ、俺、別にもう落ち込んでないし」

 雅之は穏やかな声でそう言うと、オレの首に汗くっさい自分のスポーツタオルを掛けて、ぐいっ、と自分の方に引き寄せた。

「こーやって、またチャンスの神様、掴まえるさ。高校に行ったってバスケは出来る。全国大会は、高校にもある」


 ――知ってる? チャンスの神様って、前髪しかないハゲなんだぜ。


 タオルから手を離して立ち上がり、突然突拍子もないことを言い出す雅之の言葉に、オレは泣きながら問い掛けた。

「いきなりなんだよ。お前の話っていっつも唐突過ぎて、オレには全然訳わかんねえ」

「いいから聞けよ。俺さ、バスケについては、神様の野郎の前髪を掴み損ねたとは思うんだけど、今回はもう一個の方に、神様がチャンスをくれたと思うんだ」

 見下ろす瞳は、どこか見覚えのある弧を描いてる。きゅん、と胸が痛くなるこの感覚は。

「お前、覚えてる? 廉兄ちゃんがチャリの荷物の置き引きに遭った時のこと」

 と、突然話がまた飛んだ。

「なんでお前、廉兄ちゃんを知ってるんだ……?」


 廉兄ちゃんが亡くなった年の夏、兄ちゃんはオレをチャリで公営プールに連れてってくれたんだ。その時、チャリに置きっぱなしにした荷物を盗まれた。

 慎重な廉兄ちゃんらしくないその凡ミスもやっぱりオレの所為。オレと同じくらいの年の男の子を見て、オレはその背を指差して言っちゃったんだ。びっくりして、思ったままに、

「廉兄ちゃん、あれ見て、すっごいぐちゃぐちゃ。気持ち悪い模様、綾乃、あの模様は、嫌い」

 って。入場券を窓口で買っていた廉兄ちゃんは、慌ててオレの口を塞いだ。けれど、その男の子は見る見るくしゃくしゃの顔になって、しまいにはとうとう泣き出した。

 兄ちゃんは、荷物どころじゃない。その子のお父さんに平謝りして、オレもそんな兄ちゃんを見て、なんて酷いことを言っちゃったんだろうと怖くなって、その子と一緒になって泣いちゃったんだ。

 その男の子のお父さんは、オレを叱らなかった。オレの前に屈むと、優しい瞳でこう言った。

「これはね、この子が悪いんじゃないんだよ。おじさんが目を離したちょっとの時間に、お料理をしているお母さんにこの子が抱きついてしまってね。熱い油を被ってしまったんだ。火傷の跡はあるけど、この子も君と同じ普通の子だよ。気持ち悪く思わないでやってね」

 オレは素直に謝った。そのおじさんと男の子に。

「ごめんね。ごめんなさい。綾乃、模様入れてるだけかと思ったの」

 隣から廉兄ちゃんも、謝る声を降らせて来る。オレが言っただけなのに、兄ちゃんにまで謝らせてることがまた悲しくて、なかなか、泣き止むことが出来ないでいたら。

「泣かないでよ、綾乃ちゃん。俺も、もう泣かないから」

 そう言って、その男の子が、「にかっ」と人懐こい笑みを浮かべた。それを見た途端、ものすごくオレはほっとして。

「綾乃が悪いのに、許してくれてありがとう」

 笑って許してくれたことが、ものすごく嬉しかったんだ。廉兄ちゃんも同じだったと思う。ほっとした声が降って来た。

「よかったね、綾乃。雅之君、許してくれてありがとうね」


「あーっっっ?! あの時のケロイド少年って、雅之だったのかっ」

「うぃうぃ。あれの所為で置き引きられちまったんだろ? 警察がプールにいた客の荷物チェックとかしてって大変だったんだぜ」

 なんて話はどうでもいいんだ。

「な、なんで今更ンなこと、いや、なんで今までそれ言わなかったつうか、うぉ、オレ何が言いたいんだ」

 完全に、パニクっていた。バクバク心臓がやかましい。なぜか知らんがハイビート。

「俺らって、実はとっくの昔に逢ってたんだぜ」

 なんて言いながらランニングを脱がれたら、今日もう何度目か判らないけど、また息を呑み込んだ。

「証拠。前よりは薄くなっただろ?」

 二度目ましてのケロイド状の背中は、あの頃感じたのとは違う。夕陽を受けて光る汗が、なんだかオレには精一杯頑張ったと、その背中を讃えているようにさえ見えた。――いやだからあのそのマジ心臓が痛いんですが、なんだコレ。

「俺は、綾乃が女の子だって知ってる。兄ちゃんの振りしてることも解ってる。自分のことを本当は名前で呼ぶってことも……お前のことはずっと全部、小っちぇえ頃から、知ってる」

 見下ろして来る雅之が、いつもと違う人に見える。伸ばされた腕が、オレの首に掛かってた奴のタオルをオレごと引っ張った。

「無理して“オレ”とか言ってんじゃねえよ。綾乃に戻れ。そういう顔して俺を見るなら」

 雅之の瞳の中に、オレが映る。そこに映るオレは男じゃなくって、“綾乃”という名前に相応しい、真っ赤な顔して目を潤ませて。って、え?!

「ちょ、待っ、う、ぇお? んーっ!」

 解けない腕の強さ。これが男の子、なのか。もがくオレの腕は雅之の片手一本で抑えられ、それはまるで雅之に懇願しているようなポーズになる状態で。もう一方の腕が、体全部を固めやがった。逃げることも敵わないまま重ねられた唇が、酸欠のタイムアップをまた告げた。息を詰めてから三分間、オレの中でなりを潜めていた「女」を見つけてからの、甘ったるくてムズムズとさせた三分間が、ちょっと名残惜しいけれど。

「ぶはぁっ! 死ぬかと思ったじゃねえかっ!」

「やぁっとチャンスの神様の前髪、Get! 長かったー、この八年!」

 やってることがえげつない癖に、雅之は子供みたいにガッツポーズを決めていた。

「な、に、八年って」

「ボーイ・ミーツ・ガールからゲットまで、苦節八年っすよ、ったく」

「マジか……一途……ってか、バカ?」

「お前が言うな、お前が、この鈍感男女め」

 明日から卒業までの女子から食らうであろう制裁を想像したら、ほんのちょっとだけ気が滅入った。

「けど、まあ……いっか」

 あん時泣いてた、ちっちゃいケロイドの男の子は、こんなに汗臭くてごつくてがたいのいい、オレを丸ごと包んじゃう大きな男になっていたんだ。

「らっき。あんま勝算がなかったから、ちっとホントは、ビビってた」

 雅之は素直にそう吐き出し、また「にかっ」と眩しい笑みを零してみせた。もう一回とねだる奴に、取り敢えず今日は特別だからと許してあげた。

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