信頼ゼロの72歳老国王、前世の経営ノウハウで倒産寸前の国を救ってしまう〜最後は国民に愛されて大往生〜
ご覧頂きありがとうございます!
今回は1本で書いてみました。
5万字を超える本作、長く感じるかもしれませんが精一杯楽しんで貰えるよう書いたつもりです。
楽しんで頂けましたら幸いです!
死んだ。間違いなく、俺は死んだはずだった。
冷たい病院のベッドの上、機械の発する無機質な電子音に包まれながら、七十年の人生に幕を下ろした。
前世の俺──白波瀬勝造は、叩き上げの町工場社長だった。バブル崩壊、リーマンショック、海外製品の台頭による単価暴落。幾度もの倒産の危機を乗り越え、従業員とその家族を守り抜き、最後には小さな町工場を世界的精密機械メーカーの下請けを担う優良企業へと育て上げた。
病室で息を引き取る瞬間、泣いてくれたのは親族だけでなく、会社の若い社員や熟練の職人たちだった。
『社長、ありがとうございました』
『親父さん、俺たちに技術を教えてくれてありがとう』
そんな温かい言葉に包まれながら、俺は己の人生に何一つ思い残すことなく、満足して目を閉じた──はずだったのだ。
「……ぐ、ぬぅ……ッ!?」
深い闇の底から浮上した瞬間、強烈な吐き気と、胸を締め付けるような激しい生剥げの激痛が俺を襲った。
呼吸が異様に浅く、重い。肺が酸素を上手く取り込めず、喉の奥からヒューヒューと苦しげな音が漏れる。全身の関節という関節が、まるで錆びついたボルトのようにキシキシと悲鳴を上げていた。
(な、なんだ……!? 俺は死んだんじゃないのか? ここは……病院の集中治療室か……? いや、この苦しさは何だ。危篤状態に戻ったというのか?)
重い瞼をどうにか押し開ける。
目頭にこびりついた目やにを払いながら視界を確保した俺の目に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井でも、無機質な医療機器のモニターでもなかった。
煤けて黒ずんだ荒削りの石造りの天井。
あちこちに蜘蛛の巣が張り付き、湿気とカビ、そしてかすかな血の匂いと腐敗臭が立ち込める、まるで中世の廃城の地下牢のような薄暗い部屋だった。
「ひっ……! お、お目覚めになられましたか、ガルド陛下……っ!?」
かすれた俺の呼吸音に反応して、傍らにひれ伏していた人物ががたがたと激しく震え上がった。
見れば、身丈に合わない豪奢だが擦り切れた刺繍の服を着た、痩せこけた老人が一人。恐怖と絶望に引きつった顔で、蜘蛛の子を散らすような目つきで俺を見下ろしている。
(……ガルド? 陛下? 誰のことだ? それに、声が出ない……いや、自分の手は……?)
俺は違和感を覚えて、震える右手を顔の前にかざした。
そこに現れたのは、自分自身の手のはずなのに、前世の七十歳の頃以上に深くシワが刻まれ、黒いシミだらけになった老人の手だった。指の関節は太く曲がり、皮膚は干からびた羊皮紙のように乾いて剥がれかけている。爪は割れ、およそ一国の王のそれとは思えないほど煤けていた。
「鏡だ……鏡を持ってこい……」
自分でも驚くほどの重苦しく、ガラガラと掠れた声が出た。
老側近らしき男は悲鳴のような声を上げると、慌てて部屋の隅の埃かぶった棚から、曇った手鏡を持ち出し、震える手で俺に差し出した。
手鏡の表面に映っていたのは──白髪とボサボサの白髭を蓄え、深い深い皺を顔中に刻んだ、どこからどう見ても七十歳を優に超えた老人の姿だった。しかも、落ち窪んだ目元には濃いクマが浮かび、顔色は土色。頭部には痛々しい血塗れの包帯が巻かれている。
「……なんだこれは」
「は、はい……! ガルド・アルスランド国王陛下! 三日前の『血の暴動』にて、城門前で暴徒の投げた石が頭部に命中し、倒れられてからずっと意識が途絶えておられましたので……! まさか、まさか息を吹き返されるとは……神よ……いや、悪魔の執念か……!」
側近の言葉と同時に、俺の脳内に濁流のような「異物の記憶」がどっと流れ込んできた。強烈な頭痛に思わず額を押さえる。
ここは異世界。この男の名はガルド・アルスランド。
大陸の最北端に位置する極小国「アルスランド王国」の第七代国王。御年七十二歳。
先代の急死に伴い、若い王子や腹違いの兄弟たちが醜い権力闘争で殺し合った結果、「最も無能で、最も扱いやすく、誰の脅威にもならない老害」として、消去法で王位に据えられた男だった。
そして──この国は今、文字通り『破産・崩壊の数歩手前』だった。
厳しい極寒の気候、死んだ農地、隣国フェルゼン帝国からの過酷な関税圧力。そして、自らの保身と贅沢のために民から限界以上の重税を搾り取るしか脳のなかった歴代の愚王たち。
国民の飢餓と怒りは限界を超え、三日前、ついに王宮前で大規模な暴動が発生。
ガルド本人は民を威圧しようとバルコニーに出たものの、国民から投げつけられた大きな石が頭に直撃し、そのまま脳震盪を起こして死亡──そこへ、日本の町工場社長だった俺の魂が「転生」してきたのだ。
(おいおいおい……冗談だろ!?)
俺は心の中で激しいツッコミを入れた。
(せめて転生するなら、十五歳くらいのチート能力を持ったイケメン王子とかにしてくれよ! なんで前世と同じ……いや、前世以上にボロボロで寿命寸前の七十超えのおじいちゃんなんだ!? しかも国民からの信頼は完全なゼロどころかマイナス、国庫は空っぽ、城の外には暴徒、いつ暗殺されてもおかしくない絶体絶命の倒産物件だと……!?)
「ガルド陛下……どうか、どうか私をお許しください……!」
側近の男──宰相のケネスは、その場に膝をつき、地べたに頭を擦り付けながらおいおいと泣き出した。
「もはや……もはや我が国は終わりです! 城の備蓄米は底をつき、国庫には銅貨一枚残っておりません! 城を守る近衛兵たちの半数は未払い賃金に絶望して脱走し、明日の朝には隣国フェルゼン帝国の軍勢が『治安維持と難民保護』を名目に、この城へ踏み込んでくるという噂まで聞こえております……! もう、どこにも逃げ場はございません……!」
ケネスの訴えを聞きながら、ガルド(俺)は深く息を吐き出した。
ベッドの上にゆっくりと体を起こす。ギチギチと音を立てる膝と腰の痛みを、前世で鍛えた精神力で力ずくでねじ伏せる。
前世で四十年間、倒産寸前の弱小町工場を死に物狂いで立て直し、金融機関と渡り合い、技術者を守り抜いたあの苦難の日々が、脳裏をよぎる。
(……ふん。資金ショート直前、メインバンクから融資を打ち切られ、社員の半分がストライキを起こし、競合他社から悪質なデマを流されたあの創業三周年目に比べれば……まあ、似たような状況か)
ガルドの口角が、自然と上がった。
(俺は前世で、自分の人生に納得して満足して死んだ。だが……まさか第二の人生で、これほどやりごたえのある『超・経営再建案件』を突きつけられるとはな。血が沸き立つのを感じるわ)
「泣くな、ケネス」
「……え?」
低く、だが腹の底から響くような重厚な声で命じると、床に伏していたケネスが弾かれたように顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が、呆然と俺を見つめている。
「ワシはまだ死んでおらん。そして、このアルスランド王国も、まだ倒産れてはおらん」
「し、しかし陛下! お金も、食べ物も、兵も、国民の信頼も……何一つ残っておりません! 国民は陛下を『老害の吸血鬼』と呼んで呪い、今この瞬間も城の門を叩き割ろうとしているのですぞ!? これのどこが潰れていないと言えるのですか!」
「物がないなら作ればいい。人が離れたなら惹きつければいい。……金がないなら、稼ぐまでだ」
俺はゆっくりとベッドから足を下ろし、床に立った。
足元は覚束ず、一瞬視界がグラりと揺れた。だが、背筋をピンと伸ばす。その瞳には、かつて数々の倒産危機を乗り越えてきた「鬼社長」の鋭い光が宿っていた。
ガルドの脳内の記憶を整理する。
この異世界には「魔法」という便利なエネルギーが存在する。
だが、この国の人間はそれを「戦争の殺傷兵器」か「貴族が己の権威を示すための火遊び」程度にしか使っていなかった。
技術水準は中世ヨーロッパレベル。加工技術、農地改善、土木工事、物流システム、どれをとっても穴だらけだ。前世の高度成長期を支えた日本の製造業・経営ノウハウから見れば、ツッコミどころの山だった。
(前世で培った機械工学の知識、経営ノウハウ、そしてこの異世界の『魔導技術』……これらを正しく掛け合わせれば、勝機は十分にある。いや、伸び代しかないぞこの国は)
「ケネス。泣く暇があるなら動け。まずは城に残っている『全財産の目録』と『現存する人員のリスト』、そして……この国の『最大の産業(廃棄物)』の目録を持ってこい」
「は、はい!? 産業の……廃棄物、ですか!?」
「そうだ。倒産寸前の会社を救うのは、いつだって『誰も見向きもしなかったゴミ』の中に眠る休眠資産だ。行くぞ」
「へ、陛下!? どこへ行くおつもりですか!?」
「決まっているだろう。まずは、門の外でワシの首を跳ねようと待っている『一番お怒りの顧客(国民)』にご挨拶だ」
七十二歳の老国王ガルドは、擦り切れた王位のローブを羽織ると、威厳に満ちた確かな足取りで部屋をあとにした。
こうして、老衰で死んだはずの男による、一国の命運をかけた超大型・国建て直し劇の第一歩が踏み出されたのだった。
「──ガルドを引きずり出せッ!」
「俺たちの血税を返せ! 腹が減って子供が死にそうなんだよ!」
「老害の吸血鬼め! 今すぐ街に出てきて首を差し出せ!」
玉座の間の重厚な石壁を透かして届くのは、地鳴りのような怒号と、城門を丸太で打ち叩く重い衝撃音だった。ドシン、ドシン、と城全体が微かに揺れる。
城の中に残っている近衛兵は、わずか十数名。甲冑を着た彼らもまた、青ざめた顔で槍を握り締めながらガタガタと膝を震わせていた。忠誠心から留まっているのではない。ただ逃げ遅れたか、身寄りがなく行き場がないだけだ。
「へ、陛下……! おやめください! バルコニーになど出たら、今度こそ本当に投石で殺されてしまいます! 命あっての物種ですぞ!」
必死の相形で王位のローブの裾にしがみついてくる宰相ケネスを、俺は冷ややかな目で見下ろした。
「ケネスよ。怒り狂った顧客が本社ビルに押しかけてきたとき、社長が奥の院に隠れていて事態が解決した例があるか?」
「こ、顧客……!? 何をおっしゃっているのですか! 彼らは暴徒ですぞ!? 陛下を殺そうとしている無法者です!」
「暴徒にあらず、『極度の不満を抱いた顧客』だ。クレーム対応の第一歩は、責任者が逃げずに顔を見せること。……それと、おい。そこにいる若手の兵士」
怯えていた若い兵士がビクッと肩を跳ねさせる。
「は、はいっ!」
「城の厨房にある一番でかい銅鍋と、長柄の木杓を持ってこい。大至急だ」
「な……鍋と、木杓でありますか!?」
「そうだ。ワシの『武器』だ。早くしろ」
理由も分からぬまま駆け出していく兵士を見送り、俺は深く息を吸い込んだ。
七十歳を越えたこの身体は、驚くほど重く、節々が痛む。一歩歩くごとに膝がギチギチと音を立てる。だが、不思議と頭の冴えは前世の全盛期以上だった。脳内に残る『ガルド』としての記憶と、前世の製造業経営者としての経験が、完璧に噛み合い始めていた。
(アルスランド王国の人口はおよそ三万人。領地の八割が不毛の極寒地帯。主要産業はなし。税率は悪魔のような七割……バカか。利益率だけ上げて売上(生産性)を潰す典型的な無能経営だ)
兵士が息を切らせて持ち出してきた巨大な銅鍋と長柄の木杓を受け取ると、俺はそのまま、城の正面バルコニーへと続く重い両開きの扉を押し開けた。
極寒の寒風が容赦なく吹き抜ける。
視界が開けると、城門の前に押し寄せた数千人の群衆が目に飛び込んできた。
ボロボロの布を纏い、痩せこけた頬をした民衆たち。彼らは俺の姿を認めた瞬間、地獄の蓋を開けたような憎悪の歓声を上げた。
「出たぞ! ガルドだ!」
「生きてやがったのかあのジジイ!」
「殺せ! 殺せーっ!」
一斉に投石が飛んでくる。一発がバルコニーの石手すりに当たり、激しい音を立てて砕け散った。鋭い石片が俺の頬をかすめる。
背後でケネスが「ひぃッ!」と悲鳴を上げて伏せる。
だが、俺は一歩も引かなかった。
──カン! カン! カン! カン!
俺は手に持った木杓で、銅鍋の底を力任せに打ち鳴らした。
広大な広場に、甲高い金属音が高く激しく響き渡る。連打、また連打。
「なんだ……!?」
「急に鍋を叩き始めて……気が狂ったのか!?」
あまりの奇行に、民衆の怒号がわずかに引き、ざわめきへと変わった。
『騒音で相手の思考を一瞬フリーズさせ、場の主導権を握る』──前世の荒れ果てた労使交渉で何度も使った古典的なブラフだ。
全体が一瞬の静寂に包まれたその隙を、俺は見逃さなかった。
ガルドの体内に眠るわずかな「魔力」を喉に集中させ、前世で培った腹式呼吸で声を張り上げる。
「静粛にせよ、我が王国の『株主』たちよーーーッ!!!」
魔法で増幅された老国王のガラガラ声が、地響きのように広場全体へと落ちて行った。
「か、株主……!?」と、民衆たちがポカンと口を開ける。
「ワシはガルド・アルスランド! お前たちが『老害』と呼び、憎悪するこの国の国王である! まずは、これまでの無能な施政、過酷な重税、そしてお前たちを飢えさせたことを……心より詫びよう!」
なんと、国王がバルコニーの上で、民衆に向かって深く頭を下げたのだ。
城内の兵士も、下の民衆も、あまりの光景に息を飲んだ。この世界で、貴族や王が平民に頭を下げるなどあり得ないことだったからだ。
「……何を今さら謝ってやがる!」
前衛にいた髭面の男が吐き捨てるように叫んだ。
「謝って腹が膨れるか! 金もない! 飯もない! お前を殺して城の食糧を奪うだけだ!」
「奪う食糧など、この城には一粒もない!」
俺の即答に、男が言葉を詰まらせる。
「今この城にあるのは、カビの生えたパンが十数個と、底をついた金庫だけだ! ワシを殺して城を漁っても、お前たちが得られるのは明日の飢えと、隣国フェルゼン帝国からの奴隷扱いの支配だけだぞ!」
事実を淡々と突きつける。民衆の間に動揺が走った。
隣国フェルゼンがこの貧困に乗じて国を呑み込もうとしていることは、民も薄々感づいていたはずだ。
「お前たちが怒るのも無理はない! この国は今、倒産……いや、『滅亡』の瀬戸際だ! だが聞きなさい! 会社……いや、国が倒産するのは、金がないからではない! 『事業』を諦めた時だ!」
俺は木杓を高く掲げ、群衆を一瞥した。
「ワシに三ヶ月の猶予をくれ!」
「……は? 三ヶ月……!?」
「そうだ! 三ヶ月だ! 本日この瞬間をもって、すべての重税を一時凍結する! さらに、城の備蓄とわずかな残金をすべて取り崩し、全世帯へ最低限の緊急支援物資として分配する!」
「へ、陛下!? 何をおっしゃっ……! そんなことをしたら城の資金が真のゼロに……!」
後ろでケネスが泡を吹いて倒れそうになっているが無視だ。背水の陣を敷かなければ、顧客(民)の信頼など買い戻せるわけがない。
「三ヶ月の間に、ワシはこのアルスランドを『誰もが食っていける国』に変えてみせる! もし三ヶ月後、お前たちの暮らしが一切変わらず、腹を減らしたままであるなら……その時は、ワシの首をこの広場で跳ねるがいい! 逃げも隠れもしん!」
静寂が広場を支配した。
七十を過ぎた老国王が、眼光鋭く、全身から圧倒的な威圧感を放ちながら言い放ったのだ。
『命を担保にした経営再建計画』。
「……本当に、税金を払わなくていいのか?」
「三ヶ月後に、飯が食えるようになるのか……?」
「約束しよう。ワシの命に代えてもな」
俺は力強く頷いた。
ざわめきが広がり、やがて投石の手が一つ、また一つと下がっていく。
暴力で城を落としても、得られるものは何もない。それならば……老国王の「狂気の賭け」に乗ってみるか。民衆の心に、わずかな打算と期待が生まれた瞬間だった。
群衆が少しずつ解散し始めていくのを確かめると、俺は深く息を吐き、膝から崩れ落ちそうになった。
「ふぅ……ひとまず第一関門突破だな」
「へ、陛下ぁぁぁッ! 一体どうされるおつもりですか! 税を凍結し、残りの備蓄まで配ってしまったら、我が国はあと一ヶ月も保ちませんぞ! 破産です! 破滅です!」
涙目で叫ぶケネスに、俺は手すりを掴んで立ち上がりながらニヤリと笑ってみせた。
「ケネス。倒産寸前の会社が生き残るための第一歩は何だか知っているか?」
「し、知りませんよそんなこと!」
「徹底的な『無駄の削減』と『休眠資産の掘り起こし』だ。……おい、この城で一番大きい地下倉庫へ案内しろ。そこに、歴代の王が『使い道がない』と放り投げた『ガラクタ』が眠っているはずだ」
前世の知識と、この世界の「魔導技術」。
死にかけた老国王の、最初の『商品開発』が始まろうとしていた。
埃と湿気、そしてカビの臭いが重く充満する城の地下大倉庫。
カンドゥラ(魔導灯)の淡い橙色の光に照らし出されたのは、天井まで届かんばかりに山積みされた「ゴミ」の山だった。
「ひ、陛下……ここには歴代の国王様方が『使い物にならん』と打ち捨てた品々しかありませんぞ。失敗した魔道具の試作品、錆びついた古い武具、粗悪で質の悪い魔結晶の屑ばかりです……。こんなところを漁っても、金の目利きにはなりません」
宰相ケネスが絹のハンカチで鼻をつまみながら、嫌そうに靴の先で転がっていたガラクタを突いた。
だが、俺の目にはそれらが「宝の山」にしか見えていなかった。
「ふむ……ケネス、お前にはこれがゴミに見えるのか? 経営のいろはがまるで分かっておらんな」
「え……?」
俺は膝を折り、半ば錆びついた筒状の金属パーツを手に取った。ずっしりとした手応え。表面には複雑な魔導線(回路)が刻まれている。
『魔導駆動軸』。
ガルドの記憶によれば、魔力を流すことで一定方向の強烈な回転運動を生み出す、この世界の基本的な魔道具だ。だが、高価で純度の高い高級魔結晶を必要とするため、富裕層の豪華な馬車や貴族の贅沢品としてしか使われていない。
「この駆動軸、なぜ捨てられている?」
「あ、それは……何年か前に宮廷魔導士が開発しようとしたのですが、質の悪い安価な魔結晶を込めるとすぐに歯車が噛み合わなくなって爆発するか、軸が歪んで止まってしまうのです。高価な純魔結晶を使わねば動かないのでは、コストが見合わないと廃案になりました」
「バカめ。原因は魔結晶の質ではない。『精密度の低さ』だ」
俺はパーツの内部を覗き込み、前世の精密機械メーカー社長としての目で観察した。
「歯車の噛み合わせ(バックラッシュ)の公差がガタガタだ。軸受け(ベアリング)の摩擦係数も計算されていない。だから強いトルクに耐えきれずにエネルギーが熱となって逃げ、焼き付くのだ。構造を単純化し、歯車の比率(ギア比)を最適化してやれば、道端に落ちているような低級魔結晶のわずかな魔力でも、何倍もの力を引き出せる」
「は……? ぎあひ……? べありんぐ……? 陛下、何をおっしゃっているのですか……?」
ケネスがぽかんと口を開ける。専門用語の嵐に完全に置き去りにされている顔だ。
「専門的な技術の話だ、理解できんでいい。ケネス、この王都で一番の『変人』と呼ばれている鍛冶職人か魔導技師はいるか?」
「変人、ですか……? そうですね……それでしたら、王都の下町で怪しげなからくりを作っては『役に立たん』と親方連中から追い出されている、ガルムというドワーフの男がおりますが……」
「すぐに連れてこい。ワシの『親衛隊』の兵を二人つけてな。拒否したら『国王の命令で逮捕する』と脅してでも連れてくるのだ」
「は、はあ……承知いたしました」
小一時間後。
地下倉庫に連れてこられたドワーフの男・ガルムは、不機嫌そうにボサボサの赤髭を掻きながら、太い腕を組んで俺を睨みつけていた。背丈は大人のお腹ほどしかないが、丸太のように太い腕と胸板をしている。
「……何の用だ、老害の王様。俺は忙しいんだ。くだらん飾り棚や、アンタが入る頑丈なだけの棺桶の注文なら他をあたってくれ」
「不遜だぞガルム! 陛下に向かってなんという口を叩くか!」
ケネスが青すじを立てて怒鳴り散らすが、俺は手をかざしてそれを制した。
頑固で、口が悪く、自らの技術に誇りを持っている──前世の町工場にも、こういう気難しい職人親方が山ほどいた。懐かしい匂いだ。
「ガルムと言ったな。お前、この『魔導駆動軸』を見てどう思う?」
俺が床に転がっていたパーツを足元へ転がすと、ガルムは器用に足先で受け止め、ひょいと持ち上げてまじまじと見つめた。
「どう思うもこう思うもねぇな。構造が複雑すぎる上に、高価な高級魔結晶じゃなきゃ動かねぇ設計者の自己満足だ。もっと構造を単純化して、摩擦を減らせば、道端に落ちてる粗悪な『低級魔結晶』でも動くはずなんだが……職人街の頭の硬い連中に言っても『魔道具は魔力の質が全てだ』なんて笑われちまったよ」
「やはりか」
俺はニヤリと笑った。
「お前と思考が一致して嬉しいよ。お前の言う通りだ。精密度を高め、ギアの比率を変えて回転トルクを増大させれば、低級魔結晶どころか『魔力の残渣』だけでも十分に高出力で駆動する」
「……あ?」
ガルムの目の色が、一瞬で変わった。
ただの老害だと思っていた国王の口から、自分が長年温めていた技術理論と同じ……いや、それをはるかに凌駕する明快な概念が飛び出してきたからだ。
「ガルム。ワシはお前に『新しい農機具』を作らせたい」
「農機具……? 畑を耕す鍬や鋤のことか?」
「そうだ。だが、ただの鍬ではない。この硬く凍りついたアルスランドの土壌を、一人で十人分耕せる『魔導駆動式・多段階深耕マシン』だ」
俺は城の図書室から持ち出させていた羊皮紙を床に広げ、前世の記憶にある「小型耕運機」の構造と、この世界の魔導理論を組み合わせた設計図を、炭の棒でスラスラと描き出していった。
多段式の回転ロータリー刃。
低級魔結晶の微小な魔力を、歯車の噛み合わせで何倍ものトルク(回転力)に変換する減速機構。
振動を吸収する軽量化された鍛造フレーム。
「な……なんだこれは……!? 歯車の比率でパワーを増幅させるだと……!? 刃の角度も、土を掘り起こしやすく計算されている……! こんな発想、見たこともねぇ!」
ガルムが羊皮紙にへばりつくようにして目を見張った。職人としての魂が、その設計図の「異常なまでの完成度と合理性」に激しく揺さぶられているのが分かった。
「この倉庫にある廃材と、お前の技術があれば、試作品はすぐに作れる。ガルム、ワシの『技術顧問』になれ。お前をアルスランド王立工廠の最高責任者に任命する。報酬は、お前が欲しいだけの設備と、自由な研究環境だ」
「……おいおい、マジかよ。おい、クソじじい……いや、ガルド陛下! 本当にこれを作らせてくれるのか!? 俺を笑わずに、俺の技術を認めてくれるのか!?」
「当たり前だ。優秀な技術者を正当に評価できん経営者は無能だ。……ただし、納期は三日だ。全力を尽くせ」
「おうよ! やってやるぜ! 三日と言わず二日で組み上げてやる! 徹夜だ徹夜ぁ!」
ガルムは目の色を変えて、地下倉庫の資材をあさり始めた。
呆然と立ち尽くすケネスに向き直し、俺は次の指示を出した。
「ケネス。次は『人財』の確保だ。王都中で職を失っている若い男、冷遇されている下級魔導士、そして手先が器用な平民を集めろ。一人残らずだ」
「は、はい! ですが陛下、彼らを雇うための給与(金)はどこから……」
「金は『先行投資』だ。城の宝物庫にある歴代国王の儀礼用宝剣や金銀細工、豪華な調度品を全て売却しろ。飾りの冠など、腹の足しにもならん」
「な、なんですとーっ!? 先代からの宝物を売るなど、王家の威厳が……!」
「国が潰れれば宝も隣国に奪われるだけだ! 今生きるために使わんでどうする! 威厳で腹が膨れるか!」
俺の一喝に、ケネスは首をすくめ「は、ハイッ!」と脱兎のごとく走り去った。
よし、これで「技術」「設備(廃材倉庫)」「資金(宝物の売却)」「労働力(失業者)」が揃った。
(待っていろ、アルスランドの民よ。三ヶ月の約束、まずは第一弾の『製品』でお前たちの概念を覆してやる)
ガルドは薄暗い地下倉庫で、満足げに不敵な笑みを浮かべるのだった。
三日後。
王宮の裏手に広がる、広大な王立実験農地。
そこには、寒風が吹き荒れる極寒の下、数千人の領民たちが半信半疑の面持ちで詰めかけていた。
「おい……国王様が三日前の約束通り、何か披露するって言ってたが……」
「またどうせ、貴族様の気まぐれな魔法の見世物だろ」
「見ろよ、寒さで土が鉄みたいにカチコチだ。大人が十人がかりで鍬を振るっても、表面が少し削れるのが関の山だぞ」
民衆の間に渦巻くのは、冷めた諦観と根強い不信感だった。
アルスランド王国の春は短い。この厳しく凍りついた漆黒の土壌を春の間に耕し切り、種を蒔かなければ、秋の収穫は絶望的となり、冬にはまた猛烈な飢餓が襲い来る。それがこの国で何世代も繰り返されてきた悲劇の日常だった。
「静粛に! これよりガルド国王陛下による、新機軸農機具のお披露目を行われる!」
宰相ケネスが、まだ緊張で声を震わせながら宣言した。
集まった民衆の視線が集中する中、俺──ガルドは、車輪のついた木枠に載せられた『それ』とともに進み出た。
そこに置かれていたのは、民衆がこれまでに見たこともない奇妙な鉄の造形物だった。
頑丈な鉄フレームに組み込まれた複雑な歯車の噛み合わせ。先端には斜めに角度がつけられた鋭い回転ロータリー刃。そして中央には、小さな魔結晶を差し込むためのスロットが一つ。
「皆の者、集まってくれたことに感謝する」
俺は魔力で声を増増させ、群衆を見渡した。
「この地は過酷だ。土は氷のように硬く、お前たちの父親も、祖父も、血反吐を吐く思いで鍬を振り下ろし、腕を壊してきた。春の短い間に十分な耕作ができず、毎年秋には実りが足りず、冬にはひもじい思いをしてきたはずだ。……だが、今日この瞬間をもって、その地獄の歴史に終止符を打つ!」
「口だけなら何とでも言えるぞ、じじい!」
前衛の農夫が野次を飛ばす。
「そんな妙な鉄の塊で、このカチコチの凍土が耕せるわけねぇだろ!」
「言葉で説明するより、見せた方が早いな。ガルム、起動しろ」
「おうよ! 陛下!」
傍らに控えていたドワーフのガルムが、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、道端で拾ってきたような粗悪な低級魔結晶の欠片を、スロットへと叩き込んだ。
──キュイィィィン……ガチリッ!
微かな魔力反応とともに、減速ギアがカチリと噛み合い、回転ロータリー刃が猛烈な速度で旋回を始めた。高音の金属摩擦音が、極寒の空気に激しく響き渡る。
「な、なんだあの動きは……!?」
「刃が……勝手に回っている!?」
民衆からどよめきが上がる。
俺は車輪のグリップを両手でしっかりと握り締め、老体に鞭打って足を踏み出すと、回転する刃を凍りついた大地へと力強く突き立てた!
ガガガガガガガガッ───!!
凄まじい削岩音とともに、土煙と氷片が豪快に舞い散る!
これまで大人数が丸一日かけても表面を削るのがやっとだったカチコチの凍土が、まるで温めたナイフでバターを削ぎ落とすかのように易々と噛み砕かれ、深く肥沃な下層の黒土が次々と表面へ掘り起こされていく。
俺はそのまま、グリップを押し進め、一直線に突き進んだ。
僅か三十秒。
そこには、一人分の幅で美しく耕され、いつでも種が蒔ける状態になった五十メートルもの深耕の畝が完成していた。
「な……ななな……なんだってぇぇぇぇぇっ!?」
集まった数千人の農民たちが、一斉に目玉をひんむいて絶叫した。
「う、嘘だろ……!? たった数十秒で……!?」
「俺たちが十人がかりで三日かけてやる作業だぞ!?」
「魔法か!? いや、魔法使いだってこんな土の掘り起こし方はできねぇぞ!」
驚愕と衝撃が、津波となって広場を駆け巡る。
俺は額の汗を袖で拭い、荒い息を整えると、前衛で野次を飛ばしていた痩せた農夫の男を手招きした。
「お前、やってみろ」
「え……!? あ、俺ですか……!? む、無理ですよ! こんな高価そうな国の宝みたいな道具……壊したら首を跳ねられる……!」
「バカ者が。これはお前たち農民のために作った道具だ。早く握れ」
俺に促され、震える手でグリップを握りしめた農夫。おずおずと体重をかけて機械を前に押し進める。
「う……うわあぁぁぁぁぁっ!? 軽い! 力を入れなくても勝手に前に進むぞ! 土が……土がサクサク砕けていくぅぅぅっ!」
男は感極まった歓声を上げながら、夢中で機械を押し進めた。その目からは、ポロポロと大きな涙が溢れ落ちていた。
「これがあれば……これがあれば、今年の春は……家族全員で広大な畑を耕せる……! 子供たちにひもじい思いをさせずに済む……! 飯が食える、生きられるぞぉぉぉっ!」
周りの農民たちが一斉に駆け寄り、男を取り囲んで歓声を上げた。
「すごいぞ! 国王様は本物だ!」
「俺たちのために……こんな素晴らしい道具を作ってくれたのか!?」
「ガルド陛下! ガルド陛下!」
三日前まで殺気と憎悪に満ちていた民衆の目が、一瞬にして歓喜と、そして確かな「希望」の光へと塗り替えられていった。
(よし……第一段階、大成功だな)
俺は胸の中で深く胸を撫で下ろした。
顧客の真の課題(寒さによる開墾不全)を特定し、圧倒的なソリューション(製品)を提示して体験させる。これこそが、落ちた信頼を一瞬で奪還する唯一無二の経営手法だ。
「皆の者、聞くが良い!」
俺が手を掲げると、歓声がすっと引き、全員が熱い眼差しで俺に耳を傾けた。
「この『アルスランド式・魔導耕運機一号』は、本日より王立工廠にて大量生産を開始する! 城の宝物を売り払った金で、すでに王都の職人や若者を百名以上雇用した! これから順次、全農村へこの機械を配備する!」
「おおおぉぉぉぉっ!」
「さらに! この機械の貸出料は無料だ! 収穫が上がった後に、上がった分のわずかな成果報酬だけを収めてもらえば良い! 租税も言った通り、今年度は全額凍結だ!」
太っぱい大振舞いに、農民たちは地鳴りのような万歳三唱を上げた。
熱狂する群衆の後ろで、宰相ケネスが信じられないものを見る目で俺に駆け寄ってきた。
「へ、陛下……! 凄いです! 凄すぎます! 民の暴動が完全に鎮まりました! ですが……機械の大量生産と無償貸出だなんて、そんなことをしたら売却した宝物の資金もすぐに底をついてしまいますぞ!?」
「ケネスよ、目先の小銭を惜しむな。これは『投資』だ。農業生産性が上がれば、今年の秋の収穫量は例年の三倍以上になる。そうすれば国全体の食料自給率は跳ね上がり、買い付けの外貨流出も防げる」
俺はニヤリと笑い、ケネスの肩を叩いた。
「それに……ワシの本当の『大仕掛け』は、耕運機だけではない」
「え……? まだ何かあるのですか!?」
「フッ、この国の『最大の弱点』である極寒の気候……これを逆手に取って、他国から莫大な金をむしり取る『新産業』の準備に取りかかるぞ」
老国王ガルドの改革は、まだ始まったばかりだった。
奇跡の農機具『アルスランド式・魔導耕運機』の実演から二週間。
王都の雰囲気は、それまでのどんよりとした絶望感から一転し、活気と熱気に包み込まれていた。
「おい、ネジの締め込みが甘いぞ! 振動で緩んだら現場で農民たちが困るんだ! 精密に作れ、精密に!」
「ハッ、技師長! すぐに締め直します!」
城の敷地内にあった広大な馬車小屋と兵舎を突貫工事で改修して作った『第1王立工廠(工場)』。
金属を叩く甲高い槌音と、職人たちの威勢の良い怒号が四方から響き渡っていた。
現場を仕切るのは、技術顧問に抜擢されたドワーフのガルムだ。
「信じられん……。職人が個別に一個ずつ作っていた頃の十倍以上のペースで耕運機が組み上がっていく……!」
羊皮紙の束を抱えた宰相ケネスが、目を丸くして感動に震えていた。
俺がこの工場に持ち込んだのは、前世の製造業を支えた『ベルトコンベア式・工程別分業生産ライン』と『規格化(標準化)』の概念だ。
これまでの異世界では、一人の職人が材料の切り出しから組み立て、魔法陣の刻印まで全てを一人でこなしていた。そのため、職人の腕によって品質にバラつきが出やすく、生産量も極めて少なかったのだ。
だが俺は、作業を「フレーム製造」「歯車加工」「魔導回路の刻印」「最終組み立て」などの工程に細かく分解。
熟練の職人には高度な歯車加工や回路刻印を担当させ、手先が器用なだけの平民や若者には、規格化されたパーツを組み立てるだけの単純作業を割り当てた。
「ケネス、感動している暇があるなら報告を聞かせろ。雇用の状況はどうなっている?」
「は、はい! 城下町で職を失っていた若者や、身立ての立たない下級魔導士など、すでに四百名以上を作業員および検品員として雇い入れました! 宝物を売却した資金から、約束通り『日払い』で給与を支払っておりますが……彼らの目の色が変わっております! 街の酒場や商店にも金が回り始めました!」
「よし。これで『雇用の創出』と『個人消費の喚起』の第一歩は踏み出せたな」
俺は満足げに頷いた。
貧困に苦しむ国で一番やってはいけないのは、縮小均衡に陥ることだ。国がリスクを取って先行投資し、民に仕事を与え、正当な賃金を支払う。その賃金が街で使われることで、経済という血液が再び循環し始める。
だが、ケネスはふと眉をひそめ、不安そうに書類をめくった。
「しかし陛下……耕運機の普及により、今年の秋の収穫量は飛躍的に増えるでしょう。ですが……我が国には根本的な『構造的欠陥』がございます」
「ほう、分かっているではないか。言ってみろ」
「はい……我が国は極寒の地です。秋にどれほど多くの作物を収穫できたとしても、冬のあまりの寒さと湿気により、蓄えた作物は数ヶ月で腐るか、寒さで凍みて味が落ち、ネズミに食われて大半を失ってしまいます。食料の『長期保存』と『外部への売却』ができねば、結局は収穫量が増えたところで、一時の気休めに過ぎません……」
「フッ、ケネスよ。お前は相変わらず『寒さ』を害悪としか見ていないようだな」
「え……? 害悪以外の何物でもありませんでしょう。この呪われた気候のせいで、我が国は貧しいのですから……」
「甘いな。ビジネスにおいて『最大の弱点』は、捉え方を変えれば『競合他社(他国)に絶対に真似できない最大の強み』になる」
「は、はあ……? 強み、ですか?」
俺はケネスを連れ、王宮の地下深くにある、一年中氷が溶けない巨大な地下氷室へと足を運んだ。
ひんやりとした冷気が肌を刺す地下氷室。
そこには、先代の王たちが贅沢のために運ばせていた巨大な氷の塊が、手付かずのまま放置されていた。
「いいか、ケネス。南の温暖で豊かな大国……例えば、我が国を狙っている隣国のフェルゼン帝国などは、年間を通して気温が高い。ゆえに、肉や魚、生鮮野菜は収穫してから数日で傷み、腐る」
「はぁ……たしかに帝国では、生の魚や新鮮な肉は超高級品で、一部の富裕層や貴族しか口にできないと聞きますが……それが何か?」
「彼らが食材を長期保存しようと思えば、塩漬けにして風味を損なうか、あるいは高価な氷魔法を使える上級魔導士を常時雇い続けるしかない。……つまり、あちらでは『冷やすこと』に莫大なコストがかかっているのだ」
「あ……!」
ケネスの目が、ハッと見開かれた。
「気づいたか? 我が国には、タダで手に入る無制限の『冷気』と『氷』がある。……なら、我が国がその『冷気』をパッケージ化して、保冷技術とともに他国へ売ってやればどうなる?」
俺はポケットから羊皮紙を取り出し、前世の『冷凍物流』と『断熱構造』を応用したまったく新しい魔道具の設計図を広げた。
アルスランドの豊富な氷と、低級魔結晶の微小な魔力を掛け合わせ、箱内部の温度を一定の低温に保ち続ける『魔導断熱保冷箱』。
さらには、自国の寒さを利用して急冷した「新鮮な肉や魚」を、そのまま新鮮な状態を保ったまま他国へ輸送する『保冷馬車』の仕組みだ。
「な……生鮮食品を腐らせずに、獲れたての味のまま帝国や南方の国々へ運ぶ……!? そんなことができれば、向こうの富裕層や大商人が喉から手が出るほどの高値で買い取りますぞ!?」
「そうだ。我が国には農地は少ないが、この『極寒』という無制限の資源がある。自国の食料を冷気で長期保存して冬の飢えを完全に防ぐと同時に、余剰の『冷凍生鮮食材』と『保冷容器』を他国へ輸出して莫大な外貨を稼ぐのだ」
俺はニヤリと不敵に笑った。
「氷と冷気の輸出産業──名付けて『アルスランド・コールドチェーン構想』だ」
それからの二ヶ月間、俺は七十二歳の老体を押して、国中を死に物狂いで駆け回った。
前世の工場長時代と同じだ。
朝一番に王立工廠や現場へ足を運び、作業員一人ひとりに声をかけ、不具合が出れば現場の職人と膝を突き合わせて改良案を練る。
昼は農村へ出向き、耕運機の稼働状況を自分の目で確かめ、夕方には城でケネスとともに財政の試算と貿易契約の書面をチェックする。
七十を超えた老国王が、泥と油にまみれながら、自分たちと同じ目線で汗を流して働いている──その姿は、国民の意識を根本から、完全に変えていった。
「ガルド陛下! 今日も視察ですか!? お体は大丈夫ですか!?」
「ワシを誰だと思っている。まだまだ若いもんには負けんわい! ほら、厨房で作らせた温かいスープだ、みんなで飲め!」
「うおおおっ! 感謝します、ガルド陛下!」
「俺たちの親父さん! 万歳!」
かつて「老害の吸血鬼」と罵られ、石を投げつけられていたガルドの名は、今や「俺たちの親父さん」「現場叩き上げの聖王様」へと変わっていた。
そして、運命の三ヶ月目が訪れた。
約束の三ヶ月目──その日は、雲ひとつない快晴だった。
王宮の前広場。
三ヶ月前、怒り狂った民衆が押し寄せ、俺に向かって大きな石が投げつけられたあの場所に、再び数万の国民が集結していた。
だが、そこに蔓延していた殺気や絶望感は、微塵も残っていなかった。
寒風が吹き抜ける中、集まった人々は皆、王立工廠で安価に供給された温かい綿入りの防寒着を着込み、丸々と肥えた健康的な顔をしていた。その瞳には、老国王ガルドに対する絶対の信頼と、期待の光が満ち満ちている。
俺はゆっくりと、城の正面バルコニーへ歩み出た。
背筋はピンと伸ばしている。だが……正直に言って、七十二歳の老体はいよいよ限界に近づきつつあった。
連日の不眠不休での現場指揮、冷たい風に晒されながらの巡察。胸の奥が時折ズキズキと焼きつくように痛み、視界の端が明滅することが増えていた。
(……ふぅ、持ってもあと数ヶ月か。だが、今ここで倒れるわけにはいかん)
俺は前世の腹式呼吸で腹に力を込め、笑顔で民衆を見下ろした。
「国民の皆様! 約束の三ヶ月が経った!」
地鳴りのような歓声が、広場全体から沸き起こった。
「重税は撤廃され、我が国の新たな産業である『魔導耕運機』と『保冷物流』は、すでに南方諸国との貿易で莫大な外貨を稼ぎ出している! 今や我が国の国庫は満たされ、この冬、誰一人として飢えで死ぬ者はいない!」
「ガルド陛下! ガルド陛下!」
「俺たちの親父さん! 万歳!」
「アルスランド万歳!」
万雷の拍手と、民衆からの惜しみない歓声が、極寒の空を突き破らんばかりに高らかに響き渡る。
「ワシは命を賭けた約束を守った! だが、これで終わりではない! 我が国の改革はまだ始まったばかりだ! 誰もが笑って暮らし、子供たちが未来に夢を持てる、大陸一の国にしてみせる!」
俺が拳を高く掲げた、その瞬間だった。
──ズズズズズズズズズ……ッ!
空気を揺らす重低音の駆動音が、上空から落ちてきた。
突如として広場全体が影に覆われる。見上げれば、雲を押し払うようにして、巨大な鋼鉄の船体が姿を現していた。
金箔と過剰な装飾で塗り固められた、全長百メートルを超える巨大飛空艇。
船体に刻まれていたのは、大鷹を模した紋章──隣国「フェルゼン帝国」の国章だった。
「な、何だあれは……!?」
「帝国の……飛空艇!?」
広場に集まっていた民衆から、ざわめきと動揺が広がる。
飛空艇の甲板の手すりに、豪奢な金糸の仕立て服を着た肥満体の若い男が立ち、見下ろすように不快な高笑いを上げた。
「──フハハハハ! 貧乏くさいドブネズミどもが、実に賑やかだな!」
魔法で拡声されたその下品な声が、王都中に響き渡る。
「おい、そこにおわすのはガルド老いぼれ国王か? 聞こえていたぞ! 貧しいゴミ屑のような小国が、少々珍しいからくりを作って調子に乗っているようだが……我がフェルゼン帝国は、本日をもってアルスランド全域の『直轄地化(接収)』を宣言する!」
「な、なんですとーっ!?」
俺の後ろで、書類を抱えた宰相ケネスが青ざめて悲鳴を上げた。
「我が名はルードヴィヒ・フォン・フェルゼン! フェルゼン帝国第3王子である!」
肥満体の王子・ルードヴィヒは、太い指で俺を指さしながら尊大に言い放った。
「貴国が開発したという『魔導耕運機』やら『保冷箱』なる技術は、もともと我が帝国の研究機関から流出した魔導理論を盗用したものだ! 我が帝国は正当な技術権利を主張し、この国と全ての工廠、技術者を帝国の資産として没収する!」
「……なんという身勝手な不当要求だ」
俺は冷ややかな目でルードヴィヒを見上げた。
貧困にあえぎ、税すら満足に納められなかった時は見向きもしなかったくせに、技術が完成し、利益が出たと分かった瞬間に「盗用だ」と難癖をつけて強奪しに来たのだ。
「聞きなさい、ガルド老いぼれ!」
ルードヴィヒはニヤニヤと醜い笑みを浮かべた。
「抵抗するならば、我が乗艦『帝国魔導空母・グラーフ』の主砲でお前の城ごと王都を塵に変えてやる! 今すぐ城門を開け、跪いて降伏の誓約書にサインしろ!」
広場の民衆から、恐れと悲鳴が巻き上がった。
「そんな……せっかく暮らしが良くなったのに……!」
「また帝国の奴隷に逆戻りなんて嫌だぁぁぁっ!」
「ケネス、動揺するな」
俺は後ろでガタガタと震えているケネスの肩に手を置いた。
「へ、陛下……! 相手は帝国の最新鋭飛空艇ですぞ!? 上空百メートルに浮遊する敵に対し、我が国の弓矢や数少ない魔力砲では届くことすらできません! 物理的に反撃の術がないのです!」
「届かないなら、届くものを使えばいい」
「え……?」
「ワシを誰だと思っている。経営において、競合他社からの不当な妨害や強烈な参入障壁に対処するための『リスクマネジメント(リスク管理)』を怠る社長がどこにいる」
俺は懐から、ポケットサイズの手巻き式通信魔道具を取り出し、スイッチを入れた。
「ガルム、聞こえるか」
『おうよ、ガルドの親父! 待ちくたびれて首が伸びきるところだったぜ! 城の地下格納庫で、準備は万全だ! いつでもいけるぞ!』
「よし。帝国のバカ王子に、我が国の『物流システム』の真の恐ろしさを教えてやれ」
『了解だ! 野郎ども、地下ハッチを開けろーッ!』
──ゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
王宮の裏手に位置する広大な敷地の地面が、地鳴りを立てて左右に大きく割れ開いた。
驚愕するルードヴィヒ王子と民衆の目の前に姿を現したのは──超大型の鋼鉄製シリンダーと、そこに設置された何十基もの『超高圧・魔導圧縮カタパルト』だった。
「な、なんだあれは……!? 兵器か!?」
ルードヴィヒが目を丸くして叫ぶ。
「兵器ではない」
俺は通信機越しに冷徹に命じた。
「我が国が誇る『超高速・保冷貨物ロケット』だ」
「は……? 貨物ロケット……!?」
この三ヶ月間、俺が水面下で仕込んでいたのは単なる耕運機や冷蔵庫だけではない。
遠方の国々へ生鮮食品を一瞬で届けるための超高速物流システム──圧縮魔力と蒸気圧を利用した『弾道ロケット物流』の実験機だった。
物流のためのロケット。だが……その先端に装填されているのは、食料だけではない。
「ガルム! 弾頭に『極限圧縮氷結魔結晶』を充填! ターゲット、上空の不法侵入船!」
『あいよ! 帝国のバカ王子に、アルスランド特産の『冷気』をたっぷりプレゼントしてやるぜ!』
「な、何を言っている!? 撃て! 砲撃してあの怪しい装置を破壊しろーッ!」
不穏な気配を察したルードヴィヒが狂ったように叫ぶが、遅かった。
「射出(発射)ーーーーーッ!!」
──ズドオォォォォォンッ!!
爆音とともに、白銀のロケットが尾を引いて大空へと一直線に打ち上げられた!
空気を力強く押し砕くような爆音とともに、白銀のロケットが尾を引いて大空へと一直線に打ち上げられた。
前世の精密工学がもたらした流体力学デザイン。空気抵抗を極限まで減らしたその尖頭弾頭は、音速を超えた衝撃波を伴い、上空百メートルに浮遊する帝国の巨大飛空艇へまっすぐに吸い込まれていく。
「ひ、ひぃっ……!? 撃ち落とせ! 魔法障壁を展開しろーッ!」
甲板でパニックに陥ったルードヴィヒ王子が悲鳴を上げるが、すでに手遅れだった。
『超高速・保冷貨物ロケット』は、飛空艇が迎撃魔法を展開するよりも速く、船体下部の巨大な推進用魔力機関の吸気口へと容赦なく突入した。
──ガキンッ!!
鈍い金属打撃音が上空に響き渡る。
「……あ、あれ……? 爆発しない……?」
身をすくめていたルードヴィヒが、そっと目を開けた。
ロケットは船体に突き刺さったものの、炎も上がる気配もなければ、爆発音すら起きない。
「ハ、ハハハハ! なんだただの鉄くずか! 脅かしおって! 爆薬すら仕込めぬ貧乏国のハナクソ砲弾が──」
高笑いを上げかけたルードヴィヒの言葉が、唐突に凍りついた。
──パキキキキキキッ……!!
甲高い、不気味な氷裂音が飛空艇の船体全体から響き始める。
「な、なんだこの音は……!? 寒……ッ!? なんだ急にこの猛烈な寒さはぁっ!?」
ロケットの弾頭に充填されていたのは、爆薬ではない。
我が国の極寒の冷気を極限まで圧縮・封入した『超高密度・氷結魔結晶』だ。
衝撃で打ち砕かれた弾頭から解き放たれた絶対零度に近い冷却エネルギーが、飛空艇の熱を帯びた魔力機関の内部へ一気に逆流したのだ!
「ひ、ヒーターが止まったぞ!」
「魔力回路が氷結! 冷却液が凍りついて循環しません!」
「エンジンの出力低下! 浮力維持不能! 落ちる、落ちるぞぉぉぉっ!」
甲板で兵士たちが狂乱の悲鳴を上げる。
金ぴかの豪華な飛空艇は、推進力と浮力を完全に奪われ、エンジンから猛烈な白煙(冷気)を吐き出しながら、ゆっくりと、だが確実に高度を下げ始めた。
「落ちるーッ! 助けてくれぇぇぇっ!」
ドシーン! と激しい地響きとともに、飛空艇は王都の外れの誰もいない雪原へと突っ込み、不時着した。豪快な雪煙が舞い上がり、静寂が訪れる。
広場は、完全に静まり返っていた。
数万の民衆も、兵士たちも、口をぐうの音も出ないほど大きく開けて空を見上げ、それから雪原の煙を見つめていた。
帝国が誇る最新鋭の巨大空母が、爆発・破壊されることなく、たった一発の『貨物ロケット』によって無傷のまま機能停止に追い込まれたのだ。
「……あ……あ……」
宰相ケネスが目玉をひんむき、泡を吹いてその場に卒倒しそうになるのを、俺はすんでのところで服の首根っこを掴んで支えた。
「ケネス、倒れている暇はないぞ。すぐに近衛兵を派遣し、不時着した飛空艇の乗員を『不法侵入および威嚇行為の現行犯』で全員拘束しろ。ルードヴィヒ王子は生かして捕らえ、最上級の応接室(監禁部屋)へ叩き込め」
「へ、陛下……! 帝国の王子を捕らえるなど、真の戦争になりますぞ……!」
「バカ者が。相手は我が国を脅迫し、領空を侵犯した侵略者だ。それにな……事故で撃墜して殺してしまっては『交渉のカード』にならん。無傷で捕らえたからこそ、これから帝国から莫大な賠償金をむしり取れるのだ」
俺はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
前世のビジネスでも同じだ。相手の違法行為や不当な権利侵害を完璧に証拠保全し、無力化した上でテーブルにつかせる。これぞ『攻めの危機管理』だ。
翌日。
王宮の執務室。
そこには、昨日の金ピカの衣装を泥と雪で汚し、冷や汗で顔をぐしゃぐしゃにしたルードヴィヒ王子が、縄で椅子に縛り付けられて座っていた。
彼の周りには、厳重に武装したガルム率いる王立工廠の職人たちが、巨大なスパナやハンマーを手に眼光鋭く取り囲んでいる。
「ひっ……! 離せ! 俺を誰だと思っている! フェルゼン帝国の第3王子だぞ! 俺に指一本でも触れてみろ、帝国本国から十万の軍勢が押し寄せてこの国を焼き払うぞ!」
「静かにしろ、小僧」
俺は深く腰掛けた革張りの椅子から、冷ややかな視線を送った。
七十二歳の老国王の発する、前世の修羅場をくぐり抜けてきた威圧感に、ルードヴィヒは息を呑んで言葉を詰まらせた。
「貴様……ガルド……! どのような姑息な魔法を使ったかは知らんが、我がフェルゼン帝国を敵に回してタダで済むと思うなよ!」
「姑息な魔法だと? 笑わせるな。あれは我が国の『郵便・物流ロケット』だ。お前たちが勝手に自慢の船のエンジンを我が国の貨物受取口(吸気口)に突っ込んできて、勝手に凍りついたのだろう」
「な……何という理屈だ! 屁理屈をこねるな!」
「屁理屈ではない、事実だ。……さて、ルードヴィヒ王子。ワシは忙しいのだ、手短にいこう」
俺は机の上に、厚みのある羊皮紙の書面──『損害賠償請求書および永久不可侵・対等貿易協定書』をドンと叩きつけた。
「これは……なんだ……!?」
「お前たちが我が国の領空を侵犯し、王都の住民に精神的苦痛を与えたことに対する賠償金の請求書だ。金貨五十万枚。……払えなければ、あの不時着した最新鋭飛空艇の全パーツを我が国で解体し、技術を全てリバースエンジニアリング(解析・盗用)させてもらう」
「な、なんだとぉぉぉっ!? あれは帝国の機密の塊だぞ! 解体などさせられるか!」
「なら金を払え。それが嫌なら……お前を人質として帝国本国へ突きつけ、この『対等貿易協定』に皇帝の批准をもらうまでだ」
ルードヴィヒは震え上がった。
この書面に書かれているのは、単なる賠償だけではない。
『フェルゼン帝国はアルスランド王国の独立と領土を永久に保証する』
『アルスランドが開発した保冷技術および農機具の独占販売権を認め、関税をゼロとする』
『帝国はアルスランドに対し、年間一定量の魔結晶を優先的に市場価格より安価で供給する』
完全に、アルスランド側に圧倒的に有利な「対等以上の経済条約」だった。
「ふ、ふざけるな! このような屈辱的な条件、父上(皇帝)が飲むはずがない!」
「飲むさ」
俺は身を乗り出し、ルードヴィヒの目を覗き込んだ。
「お前という第3王子が生きて無事に帰れること。そして……我が国の『保冷コンテナ』で運ばれる新鮮な高級肉や生鮮食品が、帝国の貴族や富裕層に優先的に供給されること。……何より、我が国にはあの飛空艇を一発で不全にする『貨物ロケット』が大量配備されているという事実。皇帝が賢明なら、戦争よりもこの条約を結ぶ方が遥かに得だと理解するはずだ」
「……っ!!」
ルードヴィヒはぐうの音も出ず、恐怖に顔を歪めた。
目の前にいる老人は、ただの老害などではない。国の軍事、経済、外交の全てを計算し尽くした、恐るべき『怪物(経営者)』なのだと悟ったからだ。
「さあ、サインしろ。それとも、あの解体工場でガルムたちの手伝いでもしてみるか?」
ハンマーを握ったガルムが「ヒヒッ」と邪悪な笑みを浮かべて見下ろす。
「わ……解った! サインする! サインすればいいのだろう! だから助けてくれぇっ!」
泣き叫びながらペンを走らせるルードヴィヒを見下ろし、俺は静かに胸の中でガッツポーズを作った。
(よし……これで外圧リスクの排除と、帝国という巨大な『上客(取引先)』の確保が完了した)
外交交渉を終えた瞬間、俺の胸の奥で、カチリと何かが外れるような重い衝撃が走った。
「ぐっ……!?」
「へ、陛下!?」
ケネスが青ざめて駆け寄ってくる。
(くそ……やはり、限界か……)
急激な眩暈と胸の痛みが襲いかかる。
だが、俺はケネスの手を振り払い、必死で意識を保った。まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。この国を完全に「自動で回り続ける組織」にするまでは──。
帝国との条約締結から半月。
王都の外れに建設された巨大な第2王立工廠には、不時着した帝国飛空艇『グラーフ』がまるごと一隻格納されていた。
「ひぇ〜……ガルドの親父、こいつはとんでもねぇお宝だぜ!」
飛空艇の巨大な船体を見上げながら、ガルムが興奮冷めやらぬ様子で赤髭を揺らしていた。彼の手には、解体・解析された浮力機関の複雑な魔導線図が握られている。
「帝国の浮力機関は、高純度の魔結晶を使って空気を強引に押し下げる力ずくの構造だ。だが、この魔法陣の回路配置と、うちの減速ギア技術を組み合わせれば……従来の三分の一の魔結晶で空中を飛ぶ『小型魔導軽貨物船』が作れる!」
「素晴らしい成果だ、ガルム。これがあれば、寒冷地で陸路が閉ざされる冬場でも、各村々や隣国へ『保冷コンテナ』を遅延なく空輸できるな」
俺は咳をひとつ吐き、胸の痛みを悟られないよう静かに息を整えた。
「おいおい親父、顔色が真っ白だぜ? 工場の現場指揮は俺と若い奴らで十分回せる。少し休んだらどうだ?」
「フッ、現場のトップが弱音を吐いてどうする。……だがガルム、お前の言う通りだ。これからはワシが口を出さずとも、お前たちが自分で考えて改善を回していかねばならん」
俺は工場内で働く何百人もの若者や職人たちを見渡した。
三ヶ月前、死んだような目をしていた民の姿はそこにはない。誰もが自分の仕事に誇りを持ち、「どうすればもっと効率が上がるか」「どうすれば不良品を減らせるか」を現場で議論しながら、生き生きと汗を流していた。
『PDCAサイクル』と『カイゼン精神』。
俺がこの数ヶ月間で彼らに叩き込んだ前世の経営理念は、しっかりとこの国の「文化」として根付き始めていた。
それからの二ヶ月間、アルスランド王国のV字回復は、大陸全体を激震させるほどの勢いで加速した。
第一に、『農業改革の完遂』。
普及した魔導耕運機によって開墾された農地は、従来の五倍に拡大。春の短期間に全土の耕作が完了し、秋には国史上初となる「食料自給率300%」を達成。国民の胃袋が完全に満たされただけでなく、大量の余剰小麦と野菜が確保された。
第二に、『コールドチェーン貿易の爆発的成長』。
自国の氷で冷やした新鮮な肉、魚、生鮮食品を、帝国をはじめとする南方諸国へ「保冷コンテナ」で空輸・陸送する事業が大成功。腐らない高品質な食材は南方の貴族や富裕層の間で空前の大ブームとなり、アルスランドには連日莫大な金貨(外貨)が流れ込んだ。
第三に、『王立工廠の産業化』。
農機具や保冷箱の製造だけでなく、帝国の飛空艇技術を解析して生み出された小型輸送船や魔導パーツが、この国の新たな輸出品となった。王都は大陸有数の「精密魔導工業都市」へと変貌を遂げたのだ。
「へ、陛下ぁぁぁッ! 今月の貿易収支の試算が出ましたぞ!」
執務室に飛び込んできた宰相ケネスが、感極まった涙をボロボロと流しながら、一枚の試算表を俺の机に叩きつけた。
「我が国の国庫の残高が……先代からの赤字を全て返済した上で、帝国や大国と肩を並べるほどの黒字になりました! 治安も劇的に改善し、他国からの移民や商人が殺到しております! 我が国は……我がアルスランドは、完全に蘇ったのです!」
「そうか……」
俺は机の上の帳簿を見つめ、深く、深く息を吐き出した。
帳簿の数字は嘘をつかない。
倒産寸前だった暗黒の極小国。七十二歳の老害と呼ばれた国王。
そこから始まった俺の「再建事業」は、見事な大勝利(黒字化)をもって完結したのだ。
「ケネス。明日の朝、全閣僚と各現場の代表、そして民衆を集めて大夜会を開く。重要なお知らせがある」
「重要なお知らせ……? どのような件でございますか?」
「後継者の指名と……ワシの『退任発表』だ」
「な、なんですとーっ!?」
驚愕するケネスに、俺は優しく微笑んで見せた。
「経営において最も愚かなのは、老害となった創業者がいつまでも権力に固執し、組織の代謝を止めることだ。今のこの国には、ガルムのような優秀な技術者がおり、お前のように立派に財務と行政を回せる優秀な番頭(宰相)がいる。若者たちも育った。もう、ワシという『老害』がいなくても、この国は自動で回り続ける」
「へ、陛下……! 滅相もございません! 陛下こそが我が国の永久の国王です!」
「バカ者が。ワシは引退して、ぬくぬくとした温泉にでも浸かりながら酒を飲む隠居生活を送りたいのだ。……ケネス、これまでよくワシの無茶振りに付いてきてくれたな。感謝する」
前世では、過労死するまで会社のデスクから離れられなかった。
だが、この二度目の人生では……俺は完璧な会社(国)を作り上げ、完璧な形で「次世代」へ引き継ぐことができる。
ケネスはポロポロと大きな涙を溢れさせ、深々と頭を下げた。
翌日。
王宮の大ホールは、数百人の政府高官、工廠の職人、農民の代表、そして民衆で埋め尽くされていた。
豪奢な料理と、各地から運び込まれた新鮮な食材の馳走。ホール全体が、国の再生を祝う歓喜と熱気に満ち溢れている。
「皆の者、宴の最中に失礼する」
俺は玉座の前へ立ち、静かに呼びかけた。
一瞬でホール全体が静まり返り、全員が畏敬と感謝の眼差しで俺を見つめた。
「本日をもって……ワシはガルド・アルスランドとしてこの国の王位を退くことを宣言する。次の国政は、我が信頼する宰相ケネスを首長とし、ガルムを始めとする各現場の責任者たちによる『評議会制』へと移行する」
「な……!?」
「ガルド陛下が……ご退位……!?」
場内に激しい動揺が走る。
「動揺することはない! お前たちはこの五ヶ月間で、自らの手で未来を切り拓く術を学んだ! 誰か一人の『カリスマ』に依存する国など脆いものだ! お前たち一人ひとりがこのアルスランドの『株主』であり、『主役』なのだ!」
俺は声を張り上げた。前世の社長人生を含め、これほど誇らしく、心揺さぶられるスピーチはなかった。
「誇りを持て! お前たちは大陸で最も過酷な地を、最も豊かな国へと変えてみせたのだから! アルスランドに栄光あれ!」
「ガルド陛下ぁぁぁぁぁっ!」
「陛下! ありがとうございます! ありがとうございました!」
「アルスランド万歳! 聖王ガルド万歳!」
地鳴りのような万歳三唱と、割れんばかりの拍手が大ホールに響き渡る。
職人たちも、兵士たちも、ケネスもガルムも、全員が男泣きに泣いていた。
その歓声を聞きながら……俺の視界が、ゆっくりと白く霞んでいった。
(ああ……最高の『納品』ができたな……)
胸の奥の痛みが、すっと消えていく。
前世では病室で孤独に死んだ俺が、今度はこんなにも多くの人々に愛され、感謝されながら、最高の大仕事をやり遂げたのだ。
膝の力が抜け、俺の身体がゆっくりと後ろへ傾く。
「へ、陛下ーっ!?」
「ガルドの親父ーっ!」
悲鳴のような声が遠ざかっていく中で、俺は満足感に満ちた笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
「──……陛下! ガルド陛下っ! お目覚めになられましたか!?」
深い深い、暗闇の底から引き上げられるような感覚とともに、耳元で焦燥に満ちた叫び声が聞こえた。
重い瞼をどうにか押し開けると、眩しい陽光とともに、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした宰相ケネスの顔が視界に飛び込んできた。
「け……ねす……? ワシは……」
声を出そうとしたが、喉が激しく乾き、擦れた音しか出ない。
胸の奥が焼きつくように痛み、全身が鉛のように重かった。前世で過労の末に病院のベッドで倒れたあの感覚と、恐ろしいほど重なっていた。
「よ、よかった……! 神よ、感謝いたします……! 三日です! 大夜会の途中で倒れられてから、まる三日間も意識がお戻りにならなかったのですぞ……!」
ケネスが床に膝をつき、おいおいと泣き崩れる。
傍らには、ボサボサの赤髭を固く結び、見たこともないほど暗い顔をしたガルムや、王立病院の薬草技師たちが固唾を呑んで控えていた。
「三日……眠っていたか……。宴の途中で、足の力が抜けてな……」
「当たり前だ、このバカ丸出しの親父が!」
ガルムが太い拳を握り締め、怒鳴りつけるように言った。だが、その目元は赤く濡れていた。
「この数ヶ月、寝る間も惜しんで工廠と農村を駆け回り、現場で指示を出し続けてたんだ! いくら精神力が怪物並みだからって、七十二歳のじいさんの身体が持つわけねぇだろ! 薬草技師の先生からは『命の保証はない』とまで言われたんだぞ!」
「すまん……現場が楽しくてな。少し無茶が過ぎたようだ」
俺は苦笑いを浮かべ、ゆっくりと体を起こそうとした。
だが、猛烈な眩暈が襲い、ガルムとケネスが慌てて両脇から支えた。
「無茶どころの騒ぎではありません! 陛下、主治医からの命でございます。最低でもあと一ヶ月はベッドから起き上がってはなりません!」
「フッ……一ヶ月も休んだら、体が完全に錆びついてしまうわ。それに……ケネス、お前のその引きつった顔は、ただワシが倒れたからという理由だけではなさそうだな?」
俺の言葉に、ケネスとガルムの表情が固まった。
「……隠しても無駄だ。ワシは前世……いや、長年叩き上げの経営者をやってきたのだ。現場のトップ(ワシ)が倒れたような危急のタイミングで、外敵が大人しくしているわけがない」
「う……っ」
ケネスが言葉を詰まらせ、懐から固く封印された数通の書簡を取り出した。
「さすがでございます、ガルド陛下……。仰る通りでございます。陛下が倒れられたこの三日間の間に……我が国を揺るがす最悪の報が、隣国フェルゼン帝国本国より届きました」
「言ってみろ」
「はい……先日、我が国に対し脅迫と侵略を行なった第三王子ルードヴィヒ様ですが……帝国本国の皇帝と第一王子は、我が国との『対等貿易協定』を全面破棄いたしました」
「破棄、か。人質にとったルードヴィヒ王子はどうなった?」
「……皇帝は『人質にとられるような無能は帝国の恥晒しである』として、ルードヴィヒ様を正式に廃嫡(王子位の剥奪)。人質としての交渉価値をゼロにいたしました」
「冷酷な決断だが、大国のトップとしては正しい判断だな。我が国に突きつけられた人質カードを、自ら切り捨てて無効化したわけだ。……それで、本命の攻勢は何か?」
ケネスは震える手で書簡を広げ、掠れた声で読み上げた。
「帝国本国は本日付で、我がアルスランド王国に対し『全面的な経済封鎖および制裁』を発令いたしました。
第一に、我が国からの『保冷コンテナ』および生鮮食品に対し、従来の関税の五倍という異常な差別関税を課すこと。
第二に、帝国と同盟関係にある周辺諸国に対し、我が国との一切の交易を停止するよう強烈な外交圧力をかけること。
そして第三に……」
ケネスの額から、タラリと冷や汗が垂れ落ちた。
「帝国が国策として立ち上げた『帝国官営・氷結物流公社』が、我が国の保冷コンテナと酷似した『パクリ製品』を大量生産し、我が国の半値以下の『異常な低価格』で市場へ流し始めました! 我が国の顧客である南方の商人たちが、次々と帝国の安価な製品へと乗り換え始めております!」
「ガルム、パクリ製品の出来はどうだ?」
俺が尋ねると、ガルムは吐き捨てるように言った。
「うちのコンテナを勝手に分解して真似しやがったんだ。粗悪な魔結晶を大量に使った使い捨ての欠陥品だが、値段がうちの三分の一だからな! 目先の小銭に目がくらんだ南方の商人どもが、こぞって帝国の出張所に群がっていやがる。このままだと、うちの保冷コンテナの受注は来月には『ゼロ』になっちまうぞ!」
「なるほどな……」
俺は深く息を吐き、ベッドの上で背筋を伸ばした。
(資本の力にものを言わせた『高関税障壁』、弱小国を孤立させる『包囲網外交』、そして潤沢な資金力を背景とした『パクリ製品によるダンピング(不当廉売)攻撃』……。前世で巨大なグローバル企業が、技術力の高い中小企業を市場から淘汰する時に使う、最もえげつなく強力な常套手段だ)
「へ、陛下……! 一体どうすれば……! 我が国はV字回復を成し遂げたばかりだというのに、帝国との資金力・規模の差は圧倒的です! 正面から価格競争(デフレ合戦)を挑まれては、資金力で劣る我が国に勝ち目はございません!」
「ケネス。ビジネスにおいて、巨大企業が仕掛けてくる『価格破壊』に、正面から価格を下げて付き合うのは一番の愚策だ。資金力で負けている側が価格競争をやれば、真っ先に血を流して倒れるのはこちらだからな」
「で、では……どうするのですか!?」
「相手が『安さ(低品質・量産)』で攻めてくるなら、こちらは『ブランド(絶対的信頼)』と『技術の多角化(新市場の開拓)』で殴り返すまでだ」
俺はゆっくりとベッドから足を下ろし、床に立った。
まだ足元は覚束ず、身体は悲鳴を上げている。だが、瞳には前世で数多の修羅場をくぐり抜けてきた「鬼社長」の鋭い光が宿っていた。
「ガルム。帝国が作ったパクリ製品の構造は、粗悪な魔結晶を使って無理やり冷やしていると言ったな?」
「ああ! 魔法回路の絶縁処理もガタガタだ。まあ、二〜三回使えば魔力が暴走して中の食材ごとカチコチに凍りつくか、冷却が止まって腐るかの欠陥品だな」
「そこだ」
俺はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「顧客(商人たち)は今、『目先の安さ』に目を奪われている。だが、輸送途中で高価な高級肉や生鮮野菜が腐ったり凍りついたりして大損を出せば、すぐに気づくはずだ。『帝国の安物買いは、結局一番高くつく』という真実に」
「あ……!」
「ガルム、今日から我が国の出荷する全ての保冷コンテナに、真似のできない特殊な魔導刻印──『アルスランド品質保証マーク』を刻印しろ。そして、コンテナの内部に『温度・魔力暴走を自動で検知して緊急冷却する高機能安全回路』を組み込む」
「安全回路……!? そんな高度な仕掛け、帝国の雑な技術じゃ逆立ちしても真似できねぇぞ!」
「そうだ。我が国が売るのは、単なる『冷える箱』ではない。『絶対に中身を腐らせない完璧な品質と信頼(安心)』だ。価格を下げて帝国と争うのではない。むしろ価格を維持し、保証と保険をパッケージ化した『ハイエンド(高級)物流ブランド』として再定義する!」
「な……なるほど! 貧乏な商人は帝国の安物に走っても、本物の価値を知る大商人や各国の王室御用達の商人は、絶対に我が国の『確実なブランド』を選ぶ……!」
ケネスがハッと目を見開いた。
「それだけではないぞ、ケネス。帝国の関税と包囲網によって、南方へのルートが塞がれるというなら……関税のかからない『新しい顧客(未開拓市場)』を自ら作り出せばいい」
「新しい顧客……? 我が国の周辺は、貧しい寒冷地か過酷な山脈ばかりですぞ? どこにそんな市場が……」
「山脈の向こうにある『ドワーフの鉱山都市連合』と、海を隔てた『東方海原諸国』だ」
俺は壁に掛けられた大陸地図の未開拓領域を力強く指さした。
「帝国の包囲網が及ばない地域へ、我が国の『保冷輸送飛空艇』を使ってダイレクトに物流網を繋ぐ。帝国が目の前の南方市場で我々のパクリ製品を売って喜んでいる間に、我々は大陸全体の『新インフラ(物流・通信ハブ)』を支配するのだ」
病床から立ち上がった七十二歳の老国王ガルドの威圧感に、ケネスもガルムも息を飲んだ。
「ケネス、全閣僚を集めろ。病室で会議を行う。我が国はこれより、対帝国の『第二次・経済構造改革』へ突入する! 大国が資本で踏みつぶしに来るというなら……中小企業の智恵とスピードで、その足を掬って倒してやろうではないか!」
「ハッ……! 直ちに招集いたします、ガルド陛下!」
病から蘇った老王の指揮のもと、アルスランド王国と巨大帝国フェルゼンとの「大陸の覇権をかけた全面経済戦争」の火蓋が、切って落とされたのだった。
病床に伏しながらも、老国王ガルドの執念の指揮は止まらなかった。
「ガルム、頼んでいた『アルスランド品質保証マーク』の刻印板と、安全回路の組み込み状況はどうなっている?」
寝所に持ち込まれた簡易デスクの上。何十枚もの書類と図面に目を通しながら、ガルドが掠れた声で尋ねた。
傍らの椅子に腰掛けたドワーフのガルムは、太い腕を組みながら不敵に鼻を鳴らした。
「準備万端だぜ、ガルドの親父。うちの工廠の全職人に指示を出して、今日から出荷する『保冷コンテナ』のすべてに、特殊な魔導光で浮き出る『王冠と歯車』の刻印を焼き付けさせた。……それと、お前が言ってた『緊急冷却・暴走防止の安全回路』だがな、これが大正解だ」
「ほう……現場での感触はどうだ?」
「職人どもが『こんな面倒な回路を組み込むなんて、コストも手間もかかる』って最初は文句言ってたんだがな、一度作ってみたら納得したよ。魔法回路の熱暴走を防ぐだけじゃねぇ。中の温度が一定を超えたら勝手に予備の冷却陣が動くようになってる。これなら、魔法の扱いに慣れてねぇ素人の運送屋が扱っても、中の商品が腐る心配はゼロだ」
「フッ……そうだ。ワシらが売っているのは単なる木と金属の箱ではない。『絶対に預かった商品を壊さない』という“品質”そのものだからな」
ガルドは満足げに頷き、一口お茶を含んだ。
前世の製造業においても同じだった。安価な海外製の模倣品(パクリ商品)が市場に溢れかえり、一時的に自社の製品が押されたことは一度や二度ではない。
だが、安易に価格競争(値下げ合戦)へ巻き込まれれば、技術開発の体力が削られ、品質が落ち、最後は共倒れになる。
勝つための絶対条件は一つ。「安さ」ではなく「圧倒的な信頼性」で差別化することだ。
「ケネス、南方市場の状況はどうなっている?」
部屋の隅で、各地からの定期報告を整理していた宰相ケネスが、緊張した面持ちで進み出た。
「は……! 帝国官営・氷結物流公社が投入した『パクリコンテナ』でございますが……目先の安さに目がくらんだ南方の商人たちが飛びつき、一時的に爆発的な売り上げを記録いたしました。ですが……ガルド陛下の予測通り、各地で『大惨事』が多発しております!」
「大惨事、だと?」
「はい! 帝国のパクリ製品は、粗悪な魔結晶を無理やり使って冷却回路を駆動させているため、輸送中の振動や温度変化に耐えきれず、各地で魔力暴走を引き起こしております!
一船丸ごと積んでいた南方の高級魚がカチコチに凍りついて細胞が破壊され、解凍したらただの生ゴミと化した事例や……途中で冷却が完全にストップし、貴族へ届けるはずだった最高級の肉が腐敗して激怒された大商人が出ている模様です!」
「ハハハハハ! ざまあ見やがれ!」
ガルムが大声を上げて爆笑した。
「目先の安さに惹かれて帝国のバカ安物を買った商人どもが、中の商品を全部ダメにして、コンテナの買い替え費用どころじゃねぇ大赤字を出して頭を抱えてるってわけだ!」
「『安物買いの銭失い』……前世から変わらん人間の心理だな」
ガルドは冷徹な笑みを浮かべた。
「ケネス。今が仕掛け時だ。我が国の『広報』を動かせ」
「広報、でございますか……!?」
「そうだ。南方の主要都市の商人ギルドや新聞(広報紙)に対し、我が国の名義で緊急の注意喚起声明を出せ。『現在、市場に出回っている模倣品は、安全回路が存在せず、大切な商品を毀損する恐れがある。我がアルスランド王国は、王冠と歯車の“品質保証マーク”が刻印された製品に限り、輸送中の商品破損に対する全額補償制度(保険)を適用する』とな」
「全額補償制度……! 輸送中の商品まで、我が国が保証するのですか!?」
ケネスが目玉をひんむいた。
「そうだ。我が国の保冷コンテナの事故率は、安全回路のおかげでほぼゼロに近い。つまり、保証を謳っても実際に補償金を支払うリスクは限りなく低いのだ。……だが、顧客(商人たち)から見ればどうだ? 『商品を事故から守ってくれ、万が一の時も全額保証してくれる物流会社』と、『安いが事故を起こして知らん顔をする帝国の会社』……どちらに大切な商品を預けたいと思う?」
「あ……あぁぁぁっ……!」
ケネスが震える手で自身の額を押さえた。
「凄まじい……凄まじい着想でございます、ガルド陛下……! 単にモノを売るのではなく、『信頼』と『リスクヘッジ(保険)』を売る……! これでは、高価な商品や重要な食材を扱う大商人ほど、喉から手が出るほど我が国のコンテナを求めるようになりますぞ!」
「フッ、商売の基本だ。顧客が真に買いたいのは『箱』ではなく『安心』だからな」
ガルドの狙いは、完璧に的中した。
数日後、南方の商人ギルドから帝国への抗議が殺到。
「帝国のコンテナのせいで何万金貨もの損害が出た!」「全額弁償しろ!」と大混乱に陥る中、アルスランド王国が発表した『品質保証マークと全額補償制度』は、商人たちの間で救世主のように迎え入れられた。
「いくら安くても、商品を腐らせたら元も子もない!」
「信用できるのは、あのガルド国王の“保証マーク”がついたアルスランド製だけだ!」
南方の富裕層や大商人たちは、次々と帝国の粗悪品を投げ捨て、多少高価であってもアルスランド製の保冷コンテナへと一斉に回帰。帝国のパクリ事業は、大量の不良在庫と賠償請求の山を抱え、開始わずか一ヶ月で大赤字(特別損失)へと転落したのだ。
だが、ベッドの上のガルドは、まだ手を緩めなかった。
「ケネス、ガルム。防衛戦(ブランド化)はこれでいい。だが、攻め手(新規開拓)の手を緩めるなと言ったはずだ」
「は、はい! 帝国の高関税障壁を迂回する『新規市場の開拓』ですね!?」
「そうだ。……ガルム、お前の故郷である『ドワーフの鉱山都市連合』への連絡はどうなっている?」
「おう! 先日、うちの保冷飛空艇の試作機を使って、親書を届けてきたぜ。山脈の向こうの頑固親父ども、最初は『人間どもの国と商売なんざできるか』って突っぱねてたんだが……保冷コンテナで運んだ『新鮮な生鮮野菜と南方の上質な酒』を一口食った瞬間、目の色を変えやがった!」
ガルムが誇らしげに胸を張った。
ドワーフたちが暮らす未開の鉱山都市連合は、豊富な金銀や高純度の魔法鉱石を産出するものの、過酷な山岳地帯ゆえに「新鮮な食料」が慢性的に不足していた。彼らが食べているのは、カチコチに塩漬けされた乾燥肉と、味のしない乾燥芋ばかりだったのだ。
「『こんな獲れたてみたいな瑞々しい野菜と、腐ってねぇ美味い酒が、年間を通して手に入るなら、鉱石でも何でも安く分けてやる!』ってな! 鉱山連合の長老どもが、泣いて大喜びしてやがったぜ!」
「よし……! 勝てるぞ」
ガルドの目に、鋭い光が宿った。
「帝国が我が国の周辺から鉱石や金属資材を買い占めようと、我が国がドワーフの鉱山都市連合と直接ルート(独占サプライチェーン)を結べば、最高品質の原材料が帝国の半値以下で手に入る。……原材料の自給化(垂直統合)の完成だ」
「へ、陛下……! 凄いです! これで帝国の原材料買い占めも、高関税攻撃も、完全に無効化されました!」
ケネスが感極まった声を上げた。
「まだだ、ケネス。病床で寝ている間に、ワシの頭の中には『次の事業(新規参入)』の構想が完成している」
「え……!? まだ何か新しい事業を仕掛けるのですか!?」
「フッ……帝国はワシらを『極寒の貧しい小国』と見下している。なら、その極寒の冷気をさらに利用して……大陸全体の『通信と情報』を支配するインフラを作ってやる」
「つ、通信と情報……!?」
病み上がりの老国王ガルドの改革は、留まるどころか、大陸全体を巻き込む巨大な「ホールディングス構想」へと、さらに牙を剥いて突き進もうとしていた。
病床からの鮮やかな反撃──『品質保証ブランド化』と『ドワーフ鉱山都市連合との直接提携』は、アルスランド王国の勢いを以前にも増して爆発的なものへと押し上げていた。
王都の外れ、第2王立工廠の隣に新設された『大規模空輸発着場』。
そこには、巨大な白銀の保冷飛空艇が何隻も並び、山脈の向こうから運ばれてきたばかりの最高品質の「高純度魔導鉱石」や「希少金属(チタン・コバルト相当の極厚合金)」が、威勢の良い掛け声とともに次々と下ろされていた。
「おいおい、気をつけろよ! こいつはドワーフの長老自らが『アルスランドのガルドの親父に届けてくれ』って特別に掘り出してくれた最上級の【金剛魔鉱】だ! 傷一つつけるんじゃねぇぞ!」
作業員たちに怒声を飛ばしているのは、技師長ガルムだ。
かつては他国からの高価な輸入鉱石をチビチビと使わざるを得なかった王立工廠だが、今やドワーフ鉱山都市連合からの「新鮮な生鮮食材・酒」とのバーター取引(直接バーター貿易)により、帝国の仕入れ値の「三分の一以下の超安値」で、大陸最高品質の原材料を独占的に確保することに成功していた。
「ガルドの親父! 体調はどうだ!?」
作業指示を出し終えたガルムが、杖をつきながらゆっくりと歩いてきたガルドへ駆け寄った。
ガルドはまだ病み上がりで顔色に青白さが残っていたものの、その足取りは力強く、鋭い眼光は完全に蘇っていた。
「見れば分かるだろう。主治医の制止を振り切って現場に出てきた甲斐があったというものだ」
「ハハッ! 相変わらず頑固なじいさんだぜ。だが見てみろよ、この鉱石の質を! 帝国の鼻持ちならねぇ大商人が買い占めた雑多な鉱石なんざ、うちの仕入れた素材の足元にも及ばねぇ! これで耕運機も保冷コンテナも、従来の二倍の強度と軽さで作れるようになったぜ!」
「重遠な素材調達の内製化……ビジネスの基本だな」
ガルドは満足げに鉱石の表面を撫でた。
フェルゼン帝国は、アルスランドの周辺市場から資材を買い占めることで我が国の製造ラインを干上がらせようと画策した。
だが、ガルドは「既存の市場で資材を争奪する」のではなく、「未開拓の鉱山都市と直接繋がり、自前で調達ルートを作る(垂直統合)」ことで、帝国の買い占め攻撃を完全に無力化してみせたのだ。
「へ、陛下ぁぁぁッ!!」
そこへ、遠くから羊皮紙の束を抱えた宰相ケネスが、息を弾ませて走ってきた。あまりの興奮に帽子が脱げ落ちそうになっている。
「ケネス、走るな。心臓に悪い」
「は、ハァ……ハァ……! 申し訳ございません! ですが、黙っていられず! 南方諸国および周辺国からの『保冷コンテナ』の再注文が、過去最高を更新いたしました!」
ケネスが提示した集計表には、驚くべき数字が並んでいた。
「帝国のパクリ製品で商品(高級肉や果物)を腐らせ、大赤字を出した南方の商人たちが、完全に帝国を見捨てました! 『いくら安くても事故を起こす箱はいらない! 我々が欲しいのはアルスランドの品質保証マーク(安心)だ!』と、我が国のコンテナへ注文が殺到! 現在、工廠のバックオーダー(受注残)は半年先まで埋まっております!」
「ふん……『安物買いの銭失い』に気づいた顧客が、真のブランド(信頼)へ回帰したわけだな」
「はい! さらに、ドワーフの鉱山都市連合から安価で極上の原材料が入るようになったことで、我が国の製造原価は大幅に低下! 帝国からの『高関税攻撃』を上回る利益率を叩き出しております! 帝国の対アルスランド包囲網は、事実上完全に破綻いたしました!」
「万歳だ! 万歳だぜ、ガルドの親父!」
ガルムが歓喜の声を上げてガルドの肩を叩く。
だが──ガルドの表情は、少しも緩んでいなかった。
「ケネス、ガルム。勝って兜の緒を締めよ、だ。大国フェルゼン帝国が、自国の国家事業(官営公社)を潰され、第三王子を無力化され、包囲網まで破破された。……これで終わると思うか?」
「え……?」
ケネスの笑みが凍りついた。
「相手は皇帝と第一王子だ。面目を丸潰れにされた巨人が、次に繰り出す手は……より陰湿で、直接的な『破壊工作』か『軍事的威圧』に決まっている」
「ひ、ひえぇっ……! ぐ、軍事的威圧……!? では、帝国が本格的な大軍を我が国へ進軍させてくると……!?」
「軍勢を動かせば、他国からの批判も免れん。……それよりも危険なのは、我が国の生命線である『情報』と『物流ルート』の遮断だ。帝国はおそらく、我が国の飛空艇ルート(空路)を妨害するための『魔導電磁波妨害』か、空中の航路占拠を仕掛けてくる」
「空路の妨害……!? 飛空艇が飛べなくなったら、せっかく繋いだドワーフ鉱山や南方への物流が止まってしまいますぞ!?」
「だからこそ、先手を打つ」
ガルドは二人を連れ、工廠の最深部にある「地下研究室」へと向かった。
地下研究室の中央には、何千もの細かな魔導回路が組み込まれた、見たこともない巨大な「水晶の盤」と「銅線のコイル」が鎮座していた。
「ガルドの親父……こいつは一体何なんだ? 夜な夜な俺たちに命じて作らせていた、この妙な機械は……?」
ガルムが不思議そうに巨大な装置を見上げる。
「これは……前世で言うところの『長距離・高速魔導通信機(モールスおよび電話・データ通信ハブ)』の試作第一号機だ」
「長距離……通信……!?」
ケネスが首を傾げた。
「我が国には魔法通信術士がおりますが、一回の通信に膨大な魔力を消費し、届く距離もせいぜい十数キロ……長距離の連絡は、飛空艇や早馬に頼るしかございませんが……」
「これまでの『魔法通信』が使い物にならなかったのは、通信回路が熱を持ち、遠くに飛ぶ前に魔力波が拡散して衰退してしまうからだ」
ガルドはニヤリと笑い、地下氷室から運ばせてきた「超低温の保冷液体」を、通信装置の冷却パイプへと注入させた。
──シュウゥゥゥゥッ……!!
猛烈な冷気が装置全体を包み込み、銅線と魔法回路の温度が絶対零度近くまで急降下する。
「いいか、ガルム。金属や魔導回路は、極限まで冷やすことで『電気・魔力の抵抗』がほぼゼロになる(超電導現象)。我が国の誇る超低温冷却技術を使えば、微小な魔力で、何千キロも離れた場所へ一瞬でノイズのない情報(魔力波)を飛ばすことができるのだ!」
「抵抗が……ゼロ……!? 一瞬で何千キロも……!?」
ガルムの目が飛び出さんばかりに見開かれた。
「試してみよう。ケネス、山脈の向こうの『ドワーフ鉱山都市の長老』へ向けて、このレバーを引け」
半信半疑のケネスが、震える手で送信用レバーを押し下げた。
──ジジジッ……ピコンッ!
装置中央の水晶盤が青く光り輝き、次の瞬間──設置された拡声魔道具から、何百キロも離れた山脈の向こうにいるドワーフ長老の「生声」が、まるで隣部屋にいるかのような鮮明さで響き渡った!
『おおっ!? な、なんだこれは!? アルスランドのケネス宰相か!? ワシの声が聞こえるか!? 空中に文字と声が浮かび上がってきたぞ!!』
「ひ、ひゃあああぁぁぁぁっ!?」
ケネスが悲鳴を上げて尻餅をついた!
「長老の声だ……! 飛空艇で丸一日かかる山脈の向こうの長老の声が……一瞬で、まるで目の前にいるみたいに聞こえる……!?」
「これが『アルスランド・超電導魔導通信網』だ」
ガルドは腕を組み、誇らしげに言った。
「帝国がどれほど空路を妨害しようと、この通信網を大陸中に張り巡らせれば、我が国は大陸全土の『相場情報』『物流指示』『軍備の動き』を一瞬で把握できる。……情報速度で他国を圧倒すること。これこそが、現代ビジネスにおける最強の参入障壁だ」
「す……すごすぎる……」
ケネスは涙を流しながら、通信装置を見つめた。
「物流(モノの移動)を制した我が国が、今度は通信(情報の移動)まで制する……! ガルド陛下、あなた様は一体どこまで先を見据えておられるのですか……!?」
「フッ……まだ序の口だ。モノと情報が揃ったら、次に必要なのは何か分かるか?」
「え……? モノと情報以外に、何が必要なのですか……!?」
「『決済(お金の移動)』だ」
ガルドの瞳に、悪魔的なまでの経営戦略の光が宿った。
「帝国が発行する金貨や紙幣の価値を揺るがし、我が国が大陸全体の経済決済の主導権を握る……『アルスランド中央銀行・信用決済システム』の導入だ」
モノ(コールドチェーン)、情報(魔導通信)、そして決済(中央銀行)。
この三つのインフラを握られた時、大国フェルゼン帝国は武力を振るうことすらできず、アルスランドの経済軍門に降るしかなくなるのだ。
だが、ガルドたちがこの新技術に歓喜していたまさにその時──王宮の暗がりから、二つの怪しい影が静かに忍び寄っていた。
帝国第一王子が放った、最悪の『暗殺者兼・産業スパイ』の影が──。
超電導魔導通信機の発明と、ドワーフ鉱山都市連合との直接提携。
アルスランド王国が提示した「技術・情報・物流」の三位一体の改革は、国家の枠組みを超えた「巨大経済圏」の誕生を予感させていた。
だが、成功の陰には必ず、追いつめられた敵の泥臭く陰湿な暴走が伴う。前世のビジネス現場でも、ライバル企業が特許や製品で勝てなくなった際、工作員を使った技術泥棒やネガティブキャンペーンに走る姿を、ガルドは何度も目にしてきた。
「ガルドの親父、今夜の警備巡回は終わったぜ。超電導通信機の地下研究室も、ドワーフから届いた高純度鉱石の保管庫も異常なしだ」
深夜、王宮の執務室。
汗を拭きながら報告に入ってきたガルムに対し、ガルドは静かに首を横に振った。
「いや、ガルム。本当の『侵入者』は、もう中にいる」
「……あ? 何言ってんだ親父、監視の兵は夜通し立ち回ってるんだぞ?」
「現場の職人や警備兵の目を盗むのは、外部からの侵入者だけではない。『内部の人間』だ」
ガルドは引き出しから、一束の勤怠記録データとアクセスログの羊皮紙を取り出した。
「ここ数日、第2王立工廠の深夜の魔力消費量が、原因不明のまま微増している。さらに、最新の安全回路の設計図が置かれている第3閲覧室の入退室記録に、不自然な時刻の照合痕跡があった。……ケネスが雇い入れた新入りの職人の中に、帝国の息がかかった『産業スパイ』が潜んでいる」
「な……なんだとぉっ!? 俺の目を盗んで工廠をコソコソ探り回ってやがる奴がいるってのか!?」
ガルムが太い腕の筋肉を浮き上がらせ、爆発しそうな怒りを露わにした。
「怒るな、ガルム。前世でも『情報漏洩』の8割は内部関係者や出入業者経由でおきるものだ。問題はスパイがいることではなく、スパイをどう利用し、どう処理するかだ」
「利用……? 叩き潰すんじゃねぇのか!?」
「ただ叩き潰しては、帝国はまた別のスパイを送り込んでくるだけだ。……今夜、奴らは必ず動く。超電導通信機の核心技術である『超低温冷却回路の設計図』と、鉱山都市との秘密協定書を盗み出し、あわよくばこの施設ごと爆破(放火)するつもりだろう」
ガルドの口元に、冷たく冴え渡る笑みが浮かんだ。
「ガルム、前世の製造業で培われた『工場情報セキュリティ(ISO27001基準)』と『情報囮罠』の威力を見せてやる」
丑三つ時。月明かりすら雲に遮られた漆黒の深夜。
第2王立工廠の地下最深部。厳重に鍵がかけられているはずの「超電導研究室」の重い鉄扉が、魔法の鍵開け道具によって静かに、音もなく開いた。
忍び込んだのは、平民の若手技師として工廠に潜入していた二人の男。
帝国第一王子直属の暗部・特殊工作部隊『黒鷹』の工作員たちだった。
「ふん、噂の老国王ガルドも所詮は老いぼれか。セキュリティが厳重だなんだと脅しておいて、鍵の魔法陣など帝国の解体魔法を使えば一瞬で解ける」
「油断するな。目的の『超電導通信の設計原本』と『爆破用魔導爆薬』の設置を急ぐぞ。設計図を回収したら、このおもちゃ工場を跡形もなく吹き飛ばし、ガルドの老いぼれごと燃やし尽くすのだ」
黒装束の男たちは笑みを漏らし、部屋の中央に置かれた金庫へと近づいた。
金庫の扉は半開きになっており、そこには輝く羊皮紙──『極秘・超電導回路設計原本』と書かれた書類が置かれていた。
「よし! 手に入れたぞ! これで第一王子殿下から莫大な報酬が……」
工作員がその書類を手に取った、その瞬間──。
──カチリ。
部屋全体に、不気味な歯車の噛み合わせ音が響いた。
「な……なんだ!?」
部屋の壁一面に刻まれていた隠し魔法陣が一斉に青白く発光し、出入口の鉄扉がドス we ──ン!と音を立てて自動落下一閉鎖された。
それと同時に、天井のノズルから猛烈な冷気と、粘着性のある特殊な『魔力封じの粘液スプレー』が散布された!
「ぐあっ!? ま、魔力が練れない……!? 体が固まる……!?」
「バ、バカな! 罠か……! 爆薬を起動しろ! 相打ちでもいい、ここを爆破するんだ!」
焦った工作員が胸元から『魔導爆薬』を取り出し、魔力を注ぎ込もうとした。
だが、爆薬の起動陣は一向に反応しない。
「無駄だ」
暗闇の中から、カツン、カツンと杖を突く音が響いた。
壁の魔導灯が一斉に点灯し、そこに立っていたのは……冷ややかな視線で見下ろす老国王ガルドと、両手で巨大なスパナを構えたガルム、そして武装した近衛兵たちだった。
「お前たちが持ち込もうとしたその『魔導爆薬』は、工廠に入る前の金属検知陣にかかった時点で、内部の魔力火薬をすべて『不活性化のダミー』とすり替えておいた」
「な……なに……!?」
「それに、お前が今手にしている『超電導の設計図』だが……」
ガルドは可哀想なものを見るような目で工作員を見つめた。
「それは我が国の技術者が描いた『一見すると本物に見えるが、組み立てると回路が短絡して高圧電流が逆流する偽のハニーポット(囮設計図)』だ。ご丁寧に帝国本国へ持ち帰って模倣してくれれば、帝国の通信研究室がまるごと一つ吹き飛ぶ仕掛けになっている」
「ひ、ひぃぃぃぃっ……!!」
工作員たちは恐怖で顔を青ざめさせ、その場に崩れ落ちた。
自分たちが仕掛けたつもりの暗躍や侵入のすべてが、老国王の手の上で完全に踊らされていたのだと悟ったからだ。
「ガルドの親父……本当に恐ろしいじいさんだぜ」
ガルムが呆れたように、だが感服したように首を振った。
「スパイが紛れ込むのを見越して、偽の設計図と無力化した爆薬を掴ませ、現場で現行犯逮捕か。ぐうの音も出ねぇ完全勝利だな」
「現場の安全とリスク管理を舐めてもらっては困る。前世の工場でも、産業スパイ対策と防犯訓練は徹底していたからな」
ガルドは近衛兵に命じて哀れな工作員二人を拘束させると、冷徹な声で宣告した。
「この二人を即座に投獄し、取り調べを行え。帝国の第一王子が我が国の工場に対し『テロおよび産業破壊工作』を仕掛けたという動かぬ証拠(自白と録音魔道具の記録)を全て保全しろ」
「へ、陛下……! その証拠を使って、どうされるのですか!?」
駆けつけたケネスが固唾を呑んで尋ねる。
「決まっているだろう。帝国が仕掛けてきた汚いテロ工作の全貌を、我が国の『超電導通信網』を使って、大陸中の全国家・大商人ギルドへ一斉配信する」
「な……大陸中に……!?」
「そうだ。『大国フェルゼン帝国は、自国のパクリ商品が売れなくなった腹いせに、平和なアルスランドの工廠へ放火テロを企てた』とな。……大国としての帝国の信用と国際的地位は、これで完全に地に落ちる」
ガルドの不敵な笑みに、ケネスもガルムも背筋が寒くなるほどの凄みを感じた。
武力で争うのではない。相手の法的・道義的過失を徹底的に突き、情報戦で相手の社会的信用(ブランド価値)を破壊する。これぞ、現代のビジネスにおける最も恐ろしい「危機管理広報」の真骨頂だった。
翌朝。
ガルドの放った「情報弾」は、新設された超電導通信網を通じて、大陸全土を激震させた。
南方の商業都市、東方の海原諸国、ドワーフの鉱山連合、さらには帝国と協定を結んでいた周辺国に至るまで──あらゆる都市の新聞や掲示板に、帝国の不祥事と工作員の自白映像(魔導投影)が拡散されたのだ。
「帝国はここまで落ちぶれたのか!」
「正々堂々と技術で勝てないからと、放火テロなど……呆れてものも言えん!」
「我が商会は、本日をもって帝国官営公社との全取引を停止する! 信頼できるアルスランドと契約を結ぶぞ!」
大陸中で帝国製品に対する「不買運動」が巻き起こり、帝国の信用は一夜にして暴落。逆に、工作を完璧に返り討ちにし、圧倒的な技術と信頼を示したアルスランド王国には、大陸中からさらなる投資と契約の打診が殺到した。
執務室でその報告を受けたガルドは、ゆっくりとお茶を一口すすった。
「ケネス、ガルム。外敵の排除と防衛はこれで完了だ。……いよいよ、仕上げに入るぞ」
「仕上げ……でございますか!?」
「ああ。我が国を中心とした、大陸規模の『巨大経済同盟』の結成だ」
七十二歳の老国王は、いよいよ大陸全体の構造そのものを塗り替える、最終段階の事業へと足を踏み出そうとしていた。
帝国の放火テロ工作を「危機管理広報」によって完璧に返り討ちにしたことで、アルスランド王国の国際的地位は決定的なものとなった。
大陸中の大商人や周辺国の使節団が、連日のように王都へと殺到する。
彼らの目的はただ一つ──アルスランドが誇る「保冷物流」と「超電導通信網」、そして「高品質な精密魔導農機具」の優先供給契約を結ぶことだった。
王都は以前の静けさが嘘のように活気と熱気に包まれ、街の至るところで新しい店舗や倉庫、宿泊施設の建設ラッシュが続いていた。
だが──そんな未曾有の繁栄の真っ只中にあって、老国王ガルドの視線はすでに「その次」の課題へと向けられていた。
「ガルドの親父、今日も朝から使節団の応対か? 顔色がまた悪くなってきてるぞ」
王宮の会議室。
ドワーフの技師長ガルムが、大量の契約書類の山と格闘していたガルドに声をかけた。
「フッ……なに、書類を精査するのは前世からの日課だからな。それよりガルム、ワシが呼び集めさせた『若手たち』の準備はどうなっている?」
「おう、揃ってるぜ。ケネスが選抜した行政の若手官僚、工廠から選んだ優秀な若手職人、それに……例の『寝返ったスパイ技師』の男までな」
ガルドが指し示した会議室の奥には、二十代から三十代前半の若者たち、十数名が集まっていた。
彼らは緊張の面持ちで、伝説の「経営聖王」であるガルドを見つめている。
「皆、よく集まってくれた」
ガルドはゆっくりと立ち上がり、若者たちを見渡した。
「今日お前たちを呼んだのは、他でもない。ワシの『経営ノウハウ』のすべてをお前たちに叩き込み、このアルスランドを動かす“次世代の経営陣”として育成するためだ」
若者たちの間に、ざわめきが広がった。
「べ、陛下……! 私どものような若輩者が、陛下の後継として国を動かすなど……!」
若手官僚の一人が、恐縮したように声を上げた。
「恐れるな」
ガルドは優しく、だが力強い声で言った。
「どんなに優れた企業や国家であっても、一人の『カリスマ』に依存し続ければ、その人間が倒れた瞬間に崩壊する。ワシは七十二歳の老体だ。いつ命が尽きてもおかしくはない。……だからこそ、ワシという『創業者』がいなくなっても、現場で正しく状況を判断し、PDCAサイクルを回し続けられる『次世代のリーダー(マネジメント層)』が必要なのだ」
前世の中小企業でも、社長がワンマンで全てを仕切り続けた結果、世代交代に失敗して黒字倒産する企業をガルドは山ほど見てきた。
組織の真の強さは、「社長の優秀さ」ではなく「層の厚いミドルマネジメント(中間管理職)」によって決まるのだ。
「これより、お前たちには『OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング:実務を通じた実践教育)』を受けてもらう。教科書の勉強ではない。実際のプロジェクトの予算管理、人員配置、リスク評価を、ワシの隣で直接学んでもらう!」
ガルドの言葉に、若者たちの瞳に熱い覚悟の光が宿った。
その日から、王宮内での「ガルド式・経営塾」が始まった。
ガルドは若者たちをいくつかのチームに分け、実際の国家事業の現場へと投入した。
例えば、若手官僚チームには「地方農村の物流ハブ整備計画の収支計算」を任せ、単に「予算を使う」のではなく「投資に対する回収期間(ROI)」を意識させた。
「良いか。税金とは国民からの『出資』だ。出資された資金を使って事業を行う以上、それ以上の価値(雇用や税収の増加)を国民へ還元しなければ、それは単なる『浪費』に過ぎん」
ガルドの厳しい指導に、若手官僚たちは徹夜で帳簿を付け直し、予算の無駄を極限まで削ぎ落とす術を学んでいった。
一方、工廠の若手職人チームと元スパイ技師の若者には、「製品の標準化(マニュアル化)と品質管理」を担当させた。
「職人の勘や経験に頼るな。誰が作業しても同じ最高品質が作れるよう、工程を標準化し、図面とマニュアルへ落とし込むのだ。属人化を排除することこそが、規模拡大の絶対条件だ」
元スパイ技師の若者は、過去の罪を咎めることなく自分に重要な開発マニュアルの作成を託してくれたガルドの懐の深さに涙し、死に物狂いで品質管理システムの構築に奔走した。
二ヶ月後──。
ガルドの手によって叩き上げられた若者たちは、劇的な成長を遂げていた。
彼らはもはや、上からの指示を待つ「兵隊」ではない。自ら現場の課題を発見し、改善策を提示し、予算と効果を試算してプレゼンできる「本物のビジネスパーソン」へと進化していたのだ。
「ガルドの親父……すげぇよ」
ガルムが工廠のテラスから、指示を出し合いながら生き生きと働く若者たちを見下ろして呟いた。
「昔は指示されるのを待つだけだった若い奴らが、今じゃ『この工程のロスを減らせば、月間金貨百枚の削減になります!』なんて議論してやがる。工場の空気が、完全に変わったぜ」
「フッ……組織に『カイゼン』の精神が根付いた証拠だ」
ガルドは満足げに目を細めた。
「これで、ワシがいつ倒れてもこの国は揺らぐことはない。……さて、ケネス。若者たちの準備が整ったところで、いよいよ本題に入るとするか」
「は、はいっ!」
傍らに控えていた宰相ケネスが、緊張した面持ちで一冊の巨大な構想書を机の上に広げた。
「ガルド陛下が打ち出された……大陸の構造を根底から変える構想でございますね」
「そうだ」
ガルドは構想書の表紙を指で叩いた。
「対帝国・最終戦略──『アルスランド・ホールディングス(同盟連合体)』の結成だ」
「アルスランド……ホールディングス……!」
「帝国は高関税と包囲網によって、我が国を孤立させようとした。ならばこちらは……我が国の『物流・通信・技術』に依存する周辺の弱小国や商業都市を、一つの大きな『ホールディングス(持株会社・経済同盟)』として集約する」
ガルドの描いた構想は、恐るべき規模のものだった。
加盟国(ドワーフ鉱山都市、東方海原諸国、南方の主要商業都市など)は、それぞれの自慢の特産品(鉱石、海産物、農産物)をアルスランドの「保冷物流網」に乗せて相互に流通させる。
さらに、取引の決済にはアルスランドが新たに発行する『アルスランド信用手形(共通通貨・決済システム)』を使用し、取引手数料と通信インフラの使用料を我が国が受け取る仕組みだ。
「加盟国は、我が国のインフラを使うことで絶大な経済的利益を得る。逆に言えば……我が国の同盟から離脱すれば、物流と通信を失って一気に経済が停滞することになる」
「あ……あぁぁぁっ……!」
ケネスが武者震いに全身を震わせた。
「武力や恐喝によって他国を支配する帝国に対し……我が国は『圧倒的な便利さと利益』によって、他国を自発的に傘下へと組み込むのですね……!」
「そうだ。前世における『プラットフォームビジネス(AppleやGoogleのようなインフラ支配)』だ。インフラを制した者が、時代の覇者となる」
「ですが陛下! このような巨大な経済同盟を結成すれば……帝国本国は黙っておりませんぞ! 帝国の皇帝と第一王子は、自国の経済覇権を脅かされたとして、我が国に対し『全軍を挙げた武力侵略』を仕掛けてくる危険性がございます!」
「来させるさ」
ガルドの口元に、絶対の自信に満ちた笑みが浮かんだ。
「そのために……ワシらは来月、帝国の首都で開催される『全大陸・全経済サミット』へ乗り込むのだからな」
「え……!? 帝国の首都へ……ご自身で乗り込まれるのですか!?」
「そうだ。戦争(物理的な殺し合い)など、経営における『無駄な損失(特別損失)』の最たるものだ。……皇帝と第一王子の目の前で、帝国の経済モデルそのものを論理的に『破産(破滅)』へ追い込み、戦わずして完全降伏させてやる」
七十二歳の老国王ガルドの瞳には、前世の修羅場で数々の悪徳大企業を言論と契約の力で返り討ちにしてきた「鬼の創業者」の光が、メラメラと燃え上がっていた。
アルスランドの再生劇は、いよいよ一国の復興を超え、大陸全体の覇権をかけた「最終決戦」へと突入しようとしていた。
『アルスランド・ホールディングス(経済同盟)』の構想発表は、大陸全土の情勢を一変させた。
アルスランドが提示した「保冷物流網」「超電導通信」「共通信用手形(決済インフラ)」という三位一体のプラットフォームは、これまで帝国の不当な高関税や高圧的な外交に苦しめられてきた周辺中小国や諸都市にとって、まさに喉から手が出るほど欲していた「経済的解放」のシステムだったからだ。
ドワーフの鉱山都市連合を皮切りに、東方の海原諸国、南方の主要商業都市群が、雪崩を打つようにアルスランド同盟への加盟を表明。
アルスランド王国の首都には、連日連夜、加盟協定書にサインを求める使節団の馬車や飛空艇が殺到し、ケネスと彼が育て上げた若手官僚たちが、不眠不休で対応にあたっていた。
しかし──当然ながら、大陸の旧支配者であるフェルゼン帝国が、この動きを黙って指をくわえて見ているはずがなかった。
「ガルドの親父、帝国の首都『フェルザリア』から、正式な招待状──いや、実質的な召喚状が届いたぜ」
王宮の執務室。
重厚な黒革の手帳を閉じたガルムが、金箔で飾られた豪華だが禍々しい羊皮紙をガルドのデスクの上に放り投げた。
「『全大陸経済サミット(大陸首脳経済会議)』……か」
ガルドは老眼鏡の奥の目を細め、招待状の文面に目を通した。
差出人はフェルゼン帝国・第一皇子『ヴィルヘルム・フォン・フェルゼン』。
廃嫡された第三王子ルードヴィヒの兄であり、帝国の軍部と官僚機構を実質的に掌握する「帝国の冷酷な怪物」と恐れられている男だ。
「ケネス、このサミットの真の目的は分かるか?」
デスクの傍らで若手官僚たちに指示を出していた宰相ケネスが、緊張で表情を硬くしながら進み出た。
「はい、ガルド陛下。名目は『大陸全土の貿易ルールの再構築と関税調整』となっておりますが……実態はあからさまな“踏み絵”でございます。帝国は、我が国が進める『ホールディングス同盟』の勢いをつぶすため、周辺国の首脳や大商人を帝国の膝元に集め、圧倒的な武力と大国の威圧によって、アルスランドとの協定を強制破棄させようと企んでおります」
「さらに裏があるぜ」
ガルムが太い腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「帝国の第一皇子ヴィルヘルムの野郎、ガルドの親父を帝国の首都へ直接引っ張り出して、何らかの難癖をつけて捕らえるか……最悪の場合、帰りの道中で『事故』に見せかけて暗殺するつもりだ。わざわざ敵の本拠地へ飛び込むなんて、自殺行為だぞ!」
「ケネスもガルムも、言うことが前世の『買収防衛策会議』の時とそっくりだな」
ガルドはフッと鼻で笑い、お茶をゆっくりと口に含んだ。
「相手は資本力と武力に物を言わせた『巨大な親会社』。こちらは技術と速度で成り上がった『新興ベンチャー』だ。敵の本拠地で行われる株主総会に、生身で乗り込むのがどれほど危険かなど、百も承知だ」
「で、では陛下……! この招待を拒否されるのですか!?」
ケネスが身を乗り出した。
「バカ者が。拒否すれば『帝国を恐れて逃げた』と噂を流され、加盟を決めた周辺国が不安になって日和るだけだ。……行くに決まっているだろう」
「へ、陛下ぁぁぁッ!?」
「本気かよ、ガルドの親父!? 殺されるかもしれないんだぞ!?」
「殺せるものなら殺してみろという話だ」
ガルドは腰を上げ、壁に掛けられた大陸地図を見つめた。
「ケネス、ガルム、そしてワシが育てた若者たち。今回の遠征は……我が国の技術と組織力を世界に見せつける最大の『展示会(展示会プレゼンテーション)』だ。ワシらが開発した『超電導通信』『最高級・保冷専用迎賓飛空艇』、そして『アルスランド信用手形システム』のすべてを持ち込み、サミットの会場そのものを我が国のプレゼン会場に変えてやる」
七十二歳の老国王の瞳には、一切の迷いも恐怖もなかった。あるのは、前世の修羅場で幾多の大企業を言論と実績で黙らせてきた「絶対的経営者」の覇気だけだった。
一週間後。
フェルゼン帝国の首都『フェルザリア』。
天を突くような白亜の城壁と、豪華絢爛な石造りの街並み。大陸最大の超大国としての誇りと威圧感を象徴するこの都市に、大陸各地から首脳や大商人、貴族たちが続々と集結していた。
「おい……見ろよ、あれを……!」
「な、なんだあの飛空艇は……!?」
首都の巨大な中央発着場に集まっていた群衆から、どよめきと悲鳴が巻き起こった。
上空からゆっくりと舞い降りてきたのは、帝国の金ピカで悪趣味な飛空艇とは一線を画す、流線型の白銀に輝く巨大飛空艇──アルスランド王国のフラッグシップ機『アルス・フロンティア号』だった。
前世の最新鋭旅客機を思わせる空気抵抗を極限まで削ぎ落としたデザイン。エンジンからは黒煙すら上がらず、超電導魔法陣による静寂と滑らかな着陸。
その圧倒的な機能美と技術力に、集まっていた帝国兵や他国の使節団は、息を呑んで見上げるしかなかった。
タラップが下ろされ、降り立ってきたのは……上質な黒の仕立て服を纏った老国王ガルド。
その左右には、堂々とした佇まいの宰相ケネスと技師長ガルム、そしてガルドが鍛え上げた若手官僚や技術者たちが、洗練されたビジネスパーソンのような佇まいで整然と続いていた。
「ふん……田舎の小国が、物珍しいおもちゃを仕立てて登城したか」
発着場の最前列。豪華な軍服に身を包んだ一人の青年が、冷酷な笑みを浮かべながらガルドたちを見下ろしていた。
鋭い鷹のような目つき、薄い唇、そして全身から溢れ出る圧倒的な選民思想。
彼こそが、フェルゼン帝国第一皇子──ヴィルヘルム・フォン・フェルゼンであった。
「初めましてかな、アルスランドの『老王』ガルド殿。第三王子ルードヴィヒのような出来損ないを唆し、不当な協定を結ばせた手腕……噂通り、なかなかに賢しい老害のようだ」
ヴィルヘルムの挨拶は、隠す気すらない極上の侮蔑に満ちていた。周囲の帝国兵たちが、嘲笑を含んだ視線をガルドへ向ける。
しかし、ガルドの表情はピクリとも動かなかった。
「初めまして、第一皇子ヴィルヘルム殿。……前世でもよく見かけたよ。親の威光と会社の規模だけを自分の実力だと勘違いし、下請けを見下すだけの二代目坊ちゃんをな」
「……何だと?」
ヴィルヘルムの眉間が一瞬で跳ね上がった。
「無礼な老いぼれめ……! 自分がどこに足を踏み入れたか分かっているのか!? ここはフェルゼン帝国だ! お前たちがコソコソと進めている『ホールディングス』などという滑稽なごっこ遊びも、明日のサミットで粉々に踏みつぶしてやる!」
「踏みつぶす、かね?」
ガルドは静かに老眼鏡の位置を直し、ヴィルヘルムの目を真っ直ぐに見返した。
「市場(市場原理)を支配しているのは、大国の武力でも権力でもない。『顧客(民と商人)にとって何が真に有益か』だ。……ヴィルヘルム殿、明日の会議を楽しみにしているよ。大国という名の『巨大な欠陥企業』が、どのように破産へ向かうのかをな」
「言わせておけば……ッ!!」
ヴィルヘルムが怒りで剣の柄に手をかけたが、周囲の他国使節団の目がある手前、強引に手を引っ込めた。
「ふん……死にかけの老いぼれが、強がりを言っていられるのも今夜までだ。明日のサミットで……お前たちの『アルスランド』という存在そのものを、大陸の歴史から消し去ってやる!」
言い捨てて去っていくヴィルヘルムの後姿を見送りながら、ガルドはフッと小さく口元を緩めた。
「ケネス、ガルム」
「は、はいっ!」
「おうよ!」
「敵のトップが感情的になって頭に血が上っている。ビジネスにおける『交渉戦』において、怒りに任せて動く相手ほど御しやすいものはない。……明日のサミット、予定通りの『プレゼンテーション(決算発表&製品発表)』を行うぞ」
「ハッ……! 承知いたしました、ガルド陛下!」
大陸の運命を決する『全大陸経済サミット』。
大国の武力と選民思想、そして弱小国が誇る「経営・技術・戦略」のすべてが激突する、運命の最終対決の幕が上がろうとしていた。
フェルゼン帝国の首都フェルザリアの中心に聳え立つ『太陽の開会宮殿』。
天井まで吹抜となった重厚な大ホールには、大陸全土から集まった三十を超える国家の首脳、大貴族、そして各地の商人ギルドの代表者たちがぎっしりと詰めかけていた。
大ホールの中心を囲むように配置された円形議場。
その最上段、一段高い金箔の玉座に座しているのは、帝国の実権を握る第一皇子ヴィルヘルム・フォン・フェルゼンだ。その周囲には、威圧感を放つ帝国軍の重装騎士たちが居並び、会場全体に息の詰まるような圧迫感を醸し出していた。
「……見ろよ、アルスランドのガルド国王だ」
「いくら新しい技術を開発したからといって、帝国の膝元に直接乗り込んでくるなんて……正気か?」
「ヴィルヘルム皇子は今日、アルスランド主導の『経済同盟』を違法と断じ、全加盟国に制裁を科すつもりらしいぞ……」
議場のあちこちで、緊張に満ちた囁き声が交わされる。
参加した諸国の首脳たちの顔は、帝国の武力と経済規模に対する恐怖で青ざめていた。
そんな緊迫した空気のただ中を、老国王ガルドはゆっくりとした足取りで入場した。
上質な黒の仕立て服を纏い、片手に木製の杖を突いているものの、その背筋はピンと伸びている。背後には、緊張を押し殺した表情の宰相ケネスと、巨大な革の鞄を抱えた技師長ガルム、そしてガルドが育て上げた若手官僚たちが静かに続いていた。
「静粛に!」
ヴィルヘルムの傍らに立つ帝国宰相が、杖で床を激しく叩いた。一瞬で場内が静まり返る。
玉座から見下ろすヴィルヘルムが、冷酷な笑みを浮かべながら口を開いた。
「これより、第百四十二回・全大陸経済サミットを開会する。……諸君、本会議の議題は一つだ。最近、大陸の秩序を乱し、不当な技術独占と違法な経済協定によって各国の貿易を混乱させている極小国……アルスランド王国の処分についてである!」
ヴィルヘルムの第一声に、会場に小さなどよめきが走った。
挨拶も前置きもなく、最初からアルスランドを「犯罪国家」として吊し上げる構えだ。
「アルスランドのガルドよ!」
ヴィルヘルムがガルドを指さし、嘲笑を含んだ声を響かせる。
「貴公らは我が帝国の第三王子ルードヴィヒを脅迫して不当な条約を結ばせ、さらに我が帝国の特許技術を盗用して『保冷コンテナ』なる模倣品を製造・販売した! 挙句の果てには、周辺国を言葉巧みに欺き、帝国に対抗する怪しげな『経済同盟』なるものを立ち上げようとしている! これらは全て、大陸の平和と秩序を脅かす重大な経済犯罪である!」
ヴィルヘルムは羊皮紙の宣言書を突きつけた。
「よって帝国はここに宣言する! アルスランドとの一切の貿易を永遠に禁じ、アルスランドの主導する『同盟』に参加するあらゆる国家に対し、帝国全土からの物流遮断および三倍の制裁関税を科す! 今この場でアルスランドとの協定を破棄し、我が帝国に忠誠を誓う国のみ、従来の貿易を許してやろう!」
圧倒的な強圧外交。
大国の力で弱小国を脅し、アルスランドを完全に孤立させて首を絞める、帝国の王道にして最悪のハラスメント戦術だ。周辺国の首脳たちは恐怖に震え、次々と目を背けた。
「ふむ……」
だが、攻撃の渦中に立つガルドは、慌てる素振りすら見せなかった。
ゆっくりと老眼鏡を掛け直し、懐から一冊の黒い手帳を取り出すと、穏やかな声で静かに言い放った。
「第一皇子ヴィルヘルム殿。前世でもよく見かけたよ。自社の製品やサービスの質で勝てなくなった巨大企業が、下請けやライバル社に対して『取引停止』をチラつかせて脅迫する、見苦しい独占禁止法違反の光景をな」
「何……!? 独占禁止……何だと!?」
「何でもない、ただの『経営の常識』だ」
ガルドは杖をコトンと床に突き、議場の中央へと一歩進み出た。
「ヴィルヘルム殿は我が国が『帝国の技術を盗用した』『不当な同盟を結んだ』と仰られたが……客観的な帳簿とデータ(数字)は、全く異なる事実を示している」
ガルドが手合図をすると、ガルムと若手官僚たちが議場の中央へ巨大な『魔導投影機』をセットした。
青い光が天井へと照射され、大ホール全体に巨大な「大陸貿易試算表」と「製品品質比較グラフ」が立体的に浮かび上がった!
「な……なんだ、あの光の図表は……!?」
「数字やグラフが……空中に浮き出ている……!?」
最先端の魔導プレゼンテーションに、各国の使節団から驚愕の声が上がる。
「ご覧いただこう」
ガルドは投影されたグラフを指さした。
「まず第一に『技術盗用』の件だ。帝国官営公社が製造した保冷箱と、我がアルスランド製の保冷コンテナの事故率比較である。帝国製のものは粗悪な魔結晶を過剰に使用したため、輸送中の魔力暴走・腐敗事故率が実に『三十四パーセント』に達している。対して、我が国の安全回路付きコンテナの事故率は『ゼロ点一パーセント』だ」
「ぐっ……! それは……!」
ヴィルヘルムの顔色が深緑に変わる。
「単なるコピー品を作り、事故を起こして顧客(商人たち)に莫大な損害を与えたのは帝国の方だ。我が国が売っているのは単なる箱ではない。『絶対に商品を壊さない安心と保証』だ。品質で勝てないからと『盗用』という言葉で誤魔化すのは、技術者と顧客に対する最大の不誠実(侮辱)である」
「だ、黙れ老いぼれ! 事故のデータなど捏造に過ぎん!」
「では第二に『経済同盟』の真実についてだ」
ガルドはヴィルヘルムの怒号を軽く受け流し、次のスライド(図表)を表示させた。
「帝国は『自国を中心とした関税障壁』によって、周辺国から莫大な関税を巻き上げ、富を吸い上げてきた。だが、その結果どうなったか? 周辺国の購買力が低下し、帝国の製品を買える顧客が激減した。結果として帝国の輸出金額も過去五年で二十パーセント減少している。……これは経営学で言う『縮小生産の悪循環』だ」
ガルドの声が、大ホール全体に朗々と響き渡る。
「対して、我が『アルスランド・ホールディングス』が目指すのは……相互依存による『市場全体の拡大(パイの拡大)』だ! 我が国の保冷物流と超電導通信網を使えば、ドワーフの鉱石、東方の魚介、南方の果物が、関税の壁を越えて最短時間で大陸中に届く! 各国が自国の強みを活かして富み、その結果として全体の貿易額が従来の『三倍』に跳ね上がるのだ!」
ガルドが提示した完璧な試算データと将来予測(収益モデル)に、諸国の首脳たちの目が一斉に輝き始めた。
「三倍の貿易額……!?」
「我が国の特産品が、腐らずに大陸中に売れるというのか……!?」
「帝国の高関税に縛られているより、アルスランドの同盟に参加した方が、我が国は遥かに豊かになるぞ……!」
会場の空気が、完全に逆転した。
帝国の「恐怖による支配」が、ガルドが提示した「圧倒的な利益と論理」によって粉々に打ち砕かれていく。
「おのれ……おのれぇぇぇッ!!」
顔を真っ赤に沸騰させたヴィルヘルムが、激昂して玉座から立ち上がった。
「えぇい、黙れ老害め! 屁理屈を並べ立ておって! いくら理屈を捏ねようと、我が帝国には大陸最大の『軍隊』があるのだぞ! 貴様らのような弱小国など、我が帝国の騎士団が一踏みすれば灰燼に帰すのだ! 軍の力こそが絶対の正義だ!」
ついに本性を現し、武力による脅迫を口にしたヴィルヘルム。
だが、ガルドは悲しそうな、哀れむような目をして首を振った。
「……前世でも、最後の最後に行使された『暴力や法的威嚇』ほど見苦しいものはなかったよ、ヴィルヘルム殿」
「何だと……!?」
「貴公は『軍隊を動かす』と言ったな? では尋ねるが……その巨大な軍隊を維持するための『兵糧』と『軍費(金貨)』は、一体どこから出ているのだ?」
「な……?」
「我が国の超電導通信網が得た『リアルタイムの市場情報』によれば……帝国官営公社は今回のダンピング攻撃と不良在庫の山によって、すでに金貨三百万枚を超える『特別損失』を抱えている。さらに、本日このサミットで周辺国が一斉にアルスランド同盟へ参加すれば……帝国の来期の税収は『五十パーセント以上』激減する」
ガルドは手帳をバタンと力強く閉じた。
「税収が半減し、金庫が空っぽになった国が、どうやって何万もの軍隊に給料を払い、兵糧を給与するのだ? ……軍隊を動かした瞬間、給料を払えない兵士たちが起こすのは『暴動とクーデター』だぞ」
「ひ……っ!?」
ヴィルヘルムの喉から、ひゅっと情けない悲鳴が漏れた。
経営の根本──「資金繰り(キャッシュフロー)」の現実を突きつけられ、顔面が蒼白を通り越して土気色に変わる。
「国が滅びるのは、他国の剣で刺された時ではない。内部の『資金ショート(破産)』と『現場の信頼喪失』を起こした時だ」
ガルドは静かに、だが絶対の威厳を持ってヴィルヘルムを見据えた。
「第一皇子ヴィルヘルム殿。貴公が率いるフェルゼン帝国という会社は……すでに『実質破産』しているのだよ」
「ぐ……あ……あぁぁぁぁっ……!!」
全大陸の首脳や商人たちの目の前で、自身の無知と無能、そして帝国の破綻を完全に暴露されたヴィルヘルムは、泡を吹くようにしてその場に崩れ落ち、崩れ去るように倒れ伏したのだった。
『太陽の開会宮殿』に走った衝撃は、帝国の歴史上、最も苛烈で決定的なものとなった。
圧倒的な武力と大国の威光を背景に、弱小国アルスランドを恐怖で踏みにじるはずだった第一皇子ヴィルヘルム。
だが、彼が直面したのは、老国王ガルドが提示した圧倒的な「数字(財務データ)」と「完璧な経営論理(収益モデル)」、そして帝国自身の「資金ショート(実質破産)」という容赦のない現実であった。
全大陸の首脳や大商人たちの眼前で泡を吹いて倒れ伏したヴィルヘルムは、失意と恥辱のあまりそのまま帝国近衛兵の手によって別室へと搬送されていった。
残された議場には、静寂と……そして怒涛のような歓声が巻き起こった!
「見事だ……! これほどまでに鮮やかで、一滴の血も流さない勝利を見たことがない!」
「帝国のハラスメントと不当な高関税に苦しめられてきた時代は、今日終わったのだ!」
「ガルド陛下! 我が『エルフ森の果樹連合』も、即座にアルスランド・ホールディングスへ加盟させてくだされ!」
「我が『南方海運ギルド』もだ! 保冷物流と信用手形決済の協定書にサインを求めたい!」
議場のあちこちから、各国の首脳やギルド長たちがガルドの元へと押し寄せた。
彼らが求めているのは、もはや帝国の顔色を窺うことではない。ガルドが提示した「持続可能で、全員が豊かになる新しい経済インフラ」への参加権であった。
「皆、落ち着いてくれ」
押し寄せる群衆を前に、ガルドは静かに片手を掲げた。
「我がアルスランドは、旧来の帝国のようにお前たちを支配し、富を吸い上げるつもりはない。我々が提供するのは、飽くまで『成長のためのプラットフォーム(基盤)』だ。協定の条件は全て公明正大に開示し、対等なビジネスパートナーとして共に利益を分かち合う」
ガルドの隣で、若い官僚たちとケネス、ガルムが手際よく「アルスランド・ホールディングス加盟協定書」の束を配布していく。
そこには、各国の自治権を完全に尊重しつつ、共通通貨(アルスランド信用手形)の発行基準、超電導通信網の使用料率、保冷物流の優先割り当てルールが、明瞭かつ公平な条文で細かく規定されていた。
「これだ……! これこそが、我々が長年求めていた『公平な貿易』だ!」
ドワーフの鉱山都市代表が涙を流しながら署名し、東方諸国の使節が印章を押す。
サミットの会場は、帝国が目論んだ「アルスランド吊し上げの場」から、一夜にして「アルスランド主導による新大陸経済同盟の設立総会」へと変貌を遂げたのだった。
その日の夜。
帝国首都フェルザリアの奥深く、重厚な扉に閉ざされた『老帝の執務室』。
病床に伏していたフェルゼン帝国皇帝『フリードリヒ四世』は、自らの手でサミットの議事録と、ガルドが提示した「財務分析報告書」を読み進めていた。
青ざめた顔で傍らに控えるのは、失態を演じて謹慎処分となった第一皇子ヴィルヘルムと、ガルドとの密約によって王宮内での立場を強めていた第三王子ルードヴィヒであった。
「……ヴィルヘルムよ」
病身の皇帝が、かすれ切った、しかし重みのある声で呟いた。
「お前は……アルスランドの老王を『老害』と呼び、侮ったな。だが……真の老害はお前の方だったのではないか?」
「ふ……父上……! し、しかし、奴らは我が帝国の名誉を傷つけ、経済を乱す破逆の徒でございます! 今すぐ軍を動かし、アルスランドを焼き払わねば……!」
「黙れ愚か者が!!」
皇帝が激しく咳き込みながら、杖で床を叩いた。
「ガルド国王の言った通りではないか! 我が帝国の金庫は、お前たちが進めた無謀な対抗策と粗悪品のダンピングによって、すでに空っぽだ! 今軍を動かせば、兵士への給与が払えず、明日にも首都で暴動が起きる! 奴はお前より遥かに正確に、我が帝国の内情を見抜いていたのだ……!」
皇帝は深く溜め息をつき、静かに第三王子ルードヴィヒへ視線を向けた。
「ルードヴィヒ……。お前がアルスランドと結んできた『地方開発協定』と『特許ライセンス契約』のおかげで、帝国の特定部門だけは黒字を保っているそうだな」
「はっ、父上。ガルド陛下は、ただ相手を滅ぼすための戦いはなさいません。帝国が改心し、正しいビジネスモデルと法令順守を受け入れるならば、帝国をも『ホールディングス』の一員として救う準備があるとお仰っております」
「……相変わらず、恐ろしい男だ」
皇帝は目をつむり、自らの敗北を認めるように大きく息を吐き出した。
「武力で脅せば平伏すると思っていた我が帝国の傲慢が、ついに年貢の納め時を迎えたということか。……ヴィルヘルムの廃嫡を決定する。これより帝国の全権をルードヴィヒに譲り、アルスランドとの全面和睦交渉を命じる」
「ち、父上ぇぇぇっ!?」
崩れ落ちるヴィルヘルムを無視し、ルードヴィヒは深く頭を下げた。
「ハッ! 帝国の再生と、ガルド陛下との新たな『対等なパートナーシップ』の構築に向け、全力を尽くします!」
翌朝。
フェルゼン帝国宮殿の巨大な謁見の間にて、歴史的な『降伏および和睦調印式』が執り行われた。
帝国の全権大使として進み出た第三王子ルードヴィヒは、ガルドの前に膝を折り、一枚の羊皮紙──『フェルゼン帝国のアルスランド・ホールディングス加盟申請書』を恭しく差し出した。
「ガルド陛下。我がフェルゼン帝国は、これまでの不当な高関税および妨害工作の全過失を認め、自国の独占市場を解体いたします。今後はアルスランド・ホールディングスの傘下(提携企業)として、その共通ルールに従い、大陸の平和と経済発展に寄与することを誓います」
かつて大陸を武力で支配していた超大国が、一国の老国王の「経営戦略」の前に完全に屈服し、その軍門に降った瞬間であった。
会場を埋め尽くした全大陸の首脳たちから、雷鳴のような拍手と歓声が沸き起こる。
ガルドは差し出された申請書を受け取り、万年筆で静かに自らの署名を走り書きした。
「良いだろう、ルードヴィヒ殿。……これより、フェルゼン帝国という『巨大な経営体』の構造改革(リストラと再建)を開始する。無駄な軍備費を削減し、それをインフラ投資と民の福祉へと回すのだ。……前世でも、破綻寸前の大企業を再建(再生ファンド)するのは、ワシの最も得意とするところだからな」
ガルドの不敵な、だが温かみのある笑みに、ルードヴィヒも、そして傍らで見守るケネスやガルムも、深い感銘とともに頭を下げた。
衰退の一途をたどっていたかつての弱小国アルスランドは、武力による侵略を一一切行うことなく、前世の「現代経営学」「品質管理」「情報セキュリティ」「プラットフォーム戦略」の全てを駆使し、大陸全体の構造そのものを塗り替えてみせたのだ。
フェルゼン帝国の完全屈服と『アルスランド・ホールディングス』の結成から、一年が経過した。
大陸の風景は、劇的な変貌を遂げていた。
かつて重税と高関税、そして戦争の恐怖に怯えていた民衆の姿はどこにもない。
アルスランド主導の「保冷物流網」と「超電導通信網」は大陸の隅々まで張り巡らされ、新鮮な食材や高品質な農機具、そしてリアルタイムの情報が国境界線を超えて自在に行き交っていた。
共通決済手段である「アルスランド信用手形」の導入により、複雑な両替リスクや不当な手数料は排除され、諸国の貿易額はガルドの提示した試算通り、従来の「三倍以上」へと跳ね上がった。
武力ではなく「便利さと信頼」によって大陸を一つに束ね上げたこの奇跡の時代を、後世の歴史家たちは誇りを込めてこう呼ぶことになる──『大経営時代』と。
王都アルスランド郊外。
かつては手つかずの雪原だった小高い丘の上に、温かな湯気を上げる木造の平屋が建っていた。
ガルドが自らの退職金(王室手当)と、ガルムたち工廠の職人たちに命じて掘り当てさせた『温泉付きの小さな離れ』だ。
ぽかぽかと温かい温泉に肩まで浸かり、ゆったりと湯気を見つめる老人がいた。
ガルド・フォン・アルスランド──七十三歳。
「ふぅ……やはり疲れた体には温泉に限るな。前世の日本の箱根を思い出す……」
ガルドは満足げに目を細め、温泉の縁に置かれた桶から木杯を取り、冷えた特製の果実酒を一口含んだ。
「おいおい、ガルドの親父! 医者から酒は一日一杯までって言われてんだろ!」
ドカドカと豪快な足音を立てて浴場に入ってきたのは、ドワーフの技師長ガルムだ。手には出来立ての「保温魔法陣付きの酒瓶」を抱えている。
「ガルムか。かたいことを言うな、今日はワシの『完全引退記念日』なのだからな」
「ハハッ! 違えねぇ! 国王の座をケネスに譲り、ホールディングスの最高経営責任者(CEO)の座も若い奴らに引き継いで、今日から本当の隠居生活だもんな!」
ガルムも豪快に湯船に飛び込み、ザバーンと温湯を溢れさせた。
そう──ガルドはサミットの勝利と帝国の再建の目途が立った直後、宣言通りすべての公職を辞任したのだ。
周囲からは「お願いです、生涯現役でいてください!」「ガルド陛下がいなくなっては国が倒れます!」と涙ながらに留保を求められた。
だが、ガルドの意志は固かった。
『一人のカリスマに依存し続ける組織は脆い。ワシが元気なうちに完璧な事業承継(事業承継)を行い、若い世代が自立して回せる仕組みを完成させることこそが、創業者の最後の仕事だ』
ガルドは自らが育て上げた若手官僚や職人たちに権限を委譲し、自らは一切の口出しをしない「名誉顧問」へと退いたのだ。
「で、ガルドの親父。ケネスの奴、城で泣いてたぞ。『ガルド陛下のお教えを胸に、死ぬ気でこの国を守ります』ってな」
「フッ……あ奴も成長したよ。最初は『倒産です!』と金切り声を上げるだけの無能なイエスマンだったが、今では立派な『二代目社長』の顔をしている」
「職人たちも同じだぜ。元スパイだったあの若い技術者の奴、今や第3工廠の工場長として『ガルド式マニュアル』を更新し続けてやがる。誰に指示されなくても、現場で毎日『カイゼン』のアイデアが出てるんだ」
「……そうか」
ガルドは湯気を見つめながら、温かな感慨に浸った。
(前世の自分は、会社のために死ぬまで働きづめで倒れた。過労死という無念の最期だった。……だが、この世界でやり直した第二の人生は、どうだったろうか)
破綻寸前だった貧乏小国を、現代の知識と叩き上げの根性で蘇らせた。
信頼できる仲間に恵まれ、若者を育て、国を越えた巨大なプラットフォームを築き上げた。
(悪くない……いや、最高の『セカンドライフ(経営者人生)』だったな)
湯から上がり、羽織を引っかけてテラスへ出ると、そこには豪華な来客が待っていた。
「ガルド先生! お邪魔しておりますぞ!」
笑顔で頭を下げたのは、かつてガルドを脅迫しにやってきて返り討ちに遭い、今や再建されたフェルゼン帝国の「新皇帝」となったルードヴィヒだった。
「ルードヴィヒ殿か。皇帝の仕事は忙しいのではないのか?」
「ハハッ、ガルド先生に叩き込まれた『タイムマネジメント(時間管理)』と『権限委譲』のおかげで、帝国の政務も驚くほどスムーズに回っております! 本日は先生への定期報告(業績報告)に参りました!」
ルードヴィヒが持参したのは、アルスランド・ホールディングス全体の今期の『決算報告書』だった。
そこには、過去最高の売上高と利益、加盟国の雇用創出数、そして各地の農村の生活水準向上を示す圧倒的な数字が並んでいた。
「ふむ……素晴らしい実績だ。特にこの『ドワーフ鉱山地区における安全衛生コストの投資』と『若手技術者へのインセンティブ制度』の導入が良い。現場のモチベーションが上がれば、自ずと生産性は向上する」
「はい! 全てガルド先生のお教えの通りでございます!」
かつて高慢だった第三王子は、いまやガルドを生涯の師と仰ぎ、誇り高き「経営者皇帝」として大陸の平和を支えていた。
そこへ、王宮から急報を受けたケネスが、若い官僚たちを引き連れて慌ただしく駆け込んできた。
「ガルド陛下! いえ、ガルド名誉顧問! 新設された『東方海上ルート』のコンテナ割り当てについて、少し現場から相談が……あっ! 申し訳ございません、引退された先生の邪魔をするなとお叱りを受けるところでした……!」
恐縮するケネスに対し、ガルドはフッと温かな笑みを浮かべた。
「構わんよ、ケネス。相談に乗るくらいなら名誉顧問の範囲内だ。……どれ、帳簿を見せてみろ」
「は、はいっ!」
テラスのテーブルを囲み、老国王ガルド、新国王ケネス、新皇帝ルードヴィヒ、技師長ガルム、そして次世代を担う若い官僚や職人たちが、笑顔で一つの図面と帳簿を覗き込む。
そこにあるのは、上下関係による脅迫や恐怖ではない。
「どうすれば現場が良くなるか」「どうすれば人々が幸せになれるか」を真剣に、活き活きと議論する、新しい時代の熱気そのものだった。
夕暮れ時。
赤く染まる丘の上から、ガルドは活気あふれる王都と、その向こうに広がる豊かな農村の風景を見渡した。
煙突からは暖かな煙が立ち上り、街道には保冷コンテナを積んだ車や飛空艇が行き交い、子供たちの明るい歓声が空に響いている。
(前世の自分は、ただ数字と締め切りに追われ、何のために働いているのかを見失っていた。……だが、ビジネス(経営)の本当の目的とは、誰かを踏みつけることでも、金を溜め込むことでもない)
ガルドは自らの温かな手を見つめた。
(自分の技術と知識で、現場で働く人々を幸せにし、次の世代へ『希望』と『仕組み』を残すこと。……それこそが、経営という仕事の持つ、最高の浪漫なのだ)
「ガルドの親父ー! 夕飯の準備ができたぞ! ドワーフ特製の熟成肉と、獲れたての魚のムニエルだ! 酒もたくさんあるぞー!」
部屋の中から、ガルムの賑やかな声が響く。
「今行くよ」
ガルドは静かに老眼鏡を外し、胸のポケットへ収めた。
倒産寸前の貧乏小国を救い、巨大帝国の野望を打ち砕き、大陸全体の構造を塗り替えた「経営聖王」の伝説。
だが、その真の遺産は、ガルドが遺した「カイゼンの精神」と「人を育てる仕組み」として、この先何百年も、何千年も、人々の中で生き続けていくのだ。
夕日に照らされた老王の背中には、一切の悔いも残されていなかった。
「さあ……最高の第二の人生に、乾杯といくか」
老人は力強く歩み出し、温かな光と仲間たちの笑顔が待つ家戸へと、ゆっくりと入っていったのだった。
─完─
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