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完璧だと信じていた彼女が、僕の用意した誕生日サプライズの日に別の男とラブホに消えた。  作者: ledled


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第6話 止まっていた時計の針

春の暖かな日差しが、地域の公民館の大きな窓から柔らかく差し込んでいる。開け放たれた窓からは、近くの公園で遊ぶ子どもたちの元気な声が風に乗って聞こえてきた。


「陸くん、そっちのお鍋、そろそろ火を止めてもいいかな。カレーのルーが焦げちゃいそう」


台所に立つ俺の隣で、エプロン姿の陽菜ひなさんがクスクスと笑いながら声をかけてきた。彼女の少し色素の薄い茶色の髪が、窓からの光を反射してキラキラと輝いている。


「あ、すみません! ぼーっとしてました。すぐ火を止めます」


慌ててガスコンロのつまみを回すと、陽菜さんは「ふふっ、陸くんってたまにすごく不器用だよね」と笑いながら、お玉を受け取って鍋の中身をかき混ぜ始めた。その横顔は、まるで春の陽だまりのように温かく、見ているだけで心がすっと軽くなるような不思議な魅力があった。


あの日から、三年という月日が流れた。


高校二年の冬、俺は白石里奈という絶対的な光を失い、深い絶望の底に沈んだ。彼女の裏切りと、その直後に起きた凄惨なSNSでの炎上事件。俺は彼女に「完璧な偶像」を押し付けていた自分の愚かさに気づき、同時に、人間を信じることができなくなってしまった。


部活も辞め、ただ機械のように学校と家を往復するだけの日々。なんとか地元の大学に進学したものの、心の中にぽっかりと空いた虚無の穴は、何年経っても塞がることはなかった。


そんな俺の止まっていた時計の針を動かしてくれたのが、この子ども食堂のボランティア活動であり、そこで出会った陽菜さんだった。


大学の先輩である陽菜さんは、初対面の時から裏表がなく、誰に対しても同じように明るく接する人だった。最初は彼女のその眩しさが少し苦手だったが、一緒に活動していくうちに、彼女の明るさが「作り物」ではなく、深い悲しみを乗り越えた末に手に入れた強さなのだと気づいた。


ある日の活動帰り、二人で駅まで歩いていた時のことだ。俺がぽつりと過去の恋愛へのトラウマをこぼした時、陽菜さんは立ち止まり、俺の目を真っ直ぐに見つめてこう言った。


『私もね、昔、絶対に裏切らないって信じてた人に酷い嘘をつかれて、人間不信になった時期があったんだ。世界が全部敵に見えて、毎日泣いてた』


陽菜さんは少し寂しそうに微笑みながら、空を見上げた。


『でもね、ある時気づいたの。私が相手に「完璧」を求めすぎてたんだって。人間なんて、みんな弱くて、ズルくて、不完全な生き物でしょ? だからこそ、その不完全さを許し合える関係じゃないと、いつか絶対に壊れちゃうんだよ』


その言葉は、俺の胸の奥深くに突き刺さった。

俺は里奈に対して、まさに「完璧な彼女」であることを求め続けていた。彼女が抱えていた劣等感やプレッシャーに気づかず、自分の理想を押し付けて息を止めさせていた。俺の純粋すぎた信頼が、彼女をあの男の元へ走らせる一因になったのだと、ようやく心の底から理解できた瞬間だった。


『陸くんは、すごく優しいよ。でも、自分にも他人にも、もっと優しくなっていいんだよ。ダメなところを見せ合えるのが、本当の信頼だから』


陽菜さんのその言葉に、俺は三年間流せなかった涙をボロボロとこぼした。陽菜さんは何も言わず、ただ俺の背中を優しくさすってくれた。


それ以来、俺は少しずつ前を向けるようになった。陽菜さんと一緒にいると、背伸びをする必要がなく、自然体の自分で息を吸うことができた。彼女のひまわりのような笑顔を守りたいと、今度は間違えることなく、心からそう思えるようになっていた。


「よし、カレー完成! 陸くん、子どもたちを呼んできてくれる?」

「了解です。みんな、お腹空かせて待ってますよ」


俺はエプロンを外し、笑顔で食堂の方へと向かった。俺の時間は、もう過去には縛られていない。確かな未来に向けて、力強く進み始めていた。



同じ頃、薄暗い四畳半のアパートで、五十嵐拓也は割れるような頭痛とともに目を覚ました。


「……っ、クソ……」


寝汗でべっとりと張り付いたTシャツを脱ぎ捨て、ゴミが散乱する床を這うようにして冷蔵庫に向かう。中には飲みかけのペットボトルの水と、賞味期限の切れたコンビニ弁当しか入っていない。水を一気に喉に流し込むと、胃が気持ち悪く波打った。


スマートフォンを手に取ると、画面には日雇い派遣会社からの「本日の現場割り当て」の通知が来ている。


「またあの現場かよ……ふざけんな」


拓也は舌打ちをしてスマホを放り投げた。


三年前に起きた「成瑛予備校チューター裏垢晒し事件」。ネットの特定班の執念によって本名、顔写真、大学名、そして過去の悪行のすべてを暴かれた拓也の人生は、その日を境に完全に終了した。


大学は退学処分となり、実家の親からは勘当され、友人たちは一人残らず去っていった。逃げるように地元を離れ、名前を変えずに済む日雇いの仕事で食いつなぐしかなかった。


しかし、デジタルタトゥーの恐怖は、どこまで逃げても彼を追い詰めた。


就職活動をしようにも、履歴書の名前を検索されれば一発で過去の炎上記事が出てくる。何度か面接に漕ぎ着けたこともあったが、面接官が手元のタブレットを見た瞬間に冷ややかな目に変わり、「後日連絡します」と言われて落とされるのがオチだった。


日雇いの現場でも、若い作業員がスマホで名前を検索し、すぐに噂が広まった。


『おい、五十嵐! お前、また資材落としたのか! だからネットで女子高生晒すようなクソ野郎なんだよ!』


現場の親方からは事あるごとに過去を掘り返され、理不尽な罵声を浴びせられる。反論すれば「じゃあ辞めろ、代わりはいくらでもいる」と切り捨てられるため、拓也は泥水に顔を突っ込むようにして謝り続けるしかなかった。


「なんで……なんで俺ばっかりこんな目に……」


拓也は頭を抱え、うめき声を上げた。

あの時、自分は完全に安全な場所から、プライドの高い女が転落していく様を見下ろして笑っていたはずだった。自分の言葉一つで他人の人生を狂わせることに、全能感すら抱いていた。


しかし、今の自分はどうだ。誰からも信用されず、社会の最底辺を這いずり回り、見ず知らずの人間から石を投げられ続ける毎日。あの時嘲笑った白石里奈よりも、今の自分の方がよっぽど惨めで滑稽な存在だった。


スマートフォンが震え、掲示板のまとめサイトの通知が表示される。


『【悲報】元エリート予備校チューターの五十嵐拓也さん、現在の姿がヤバすぎると話題にwww』


誰かが現場で隠し撮りしたであろう、泥だらけの作業着姿の自分の写真がアップされていた。コメント欄には「自業自得」「一生底辺で苦しめ」「クズの末路」といった容赦ない言葉が並んでいる。


「やめろ……もう許してくれよ……!」


拓也はスマホを壁に叩きつけ、画面を粉々に割った。

しかし、物理的な端末を壊したところで、ネットの海に刻まれた彼の罪と罰が消えることは永遠にない。


彼は暗い部屋の隅で膝を抱え、後悔と怨嗟の涙を流し続けた。自らが作り出した因果応報の地獄の中で、彼は死ぬまでこの消えないデジタルタトゥーという十字架を背負って生きていくしかなかった。



潮風の匂いが、店の窓を開けるたびにふわりと入り込んでくる。


海に面した小さな港町。その一角にある、木造の古いアンティークカフェで、私、白石里奈はテーブルの上のグラスを丁寧に拭いていた。


「里奈ちゃん、今日も窓ピカピカにしてくれたのね。いつもありがとう」


奥の厨房から、店主である年配の女性が温かいコーヒーを運んできてくれた。


「いえ、これくらいしかできないので。店長、コーヒーありがとうございます」


私はグラスを置き、両手でマグカップを受け取った。コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、心がじんわりと解れていくのを感じる。


あの日、全てが崩壊したあとのことは、今でも思い出すと胸が苦しくなる。


拓也が私の写真をTwotterに晒し、それがまたたく間に学校中に、そしてネット上に拡散された。私は「完璧な生徒会長」から一転して「彼氏を裏切って自爆した淫乱な女」として、全校生徒からの嘲笑と軽蔑の的となった。


当然、学校には居られなくなった。親からは「白石家の恥だ」「お姉ちゃんの顔に泥を塗った」と激しく罵倒され、私は逃げるようにして自主退学を選んだ。


その後、私は実家を飛び出し、誰も私のことを知らない遠くの町へと向かった。住み込みで働きながら通信制の高校でなんとか卒業資格を取り、今はこうして、この静かな海辺の町でひっそりと暮らしている。


家族とは、あれ以来一度も連絡を取っていない。優秀な姉とも完全に縁が切れた。


不思議なことに、全てを失って泥沼に落ちたはずなのに、私の心はどこか穏やかだった。


「お姉ちゃんみたいにならなきゃ」

「完璧な優等生でいなきゃ」

「陸の理想の彼女でいなきゃ」


私を何重にも縛り付けていたあの息苦しいプレッシャーは、もうどこにもない。誰も私に期待していないし、誰も私を評価しない。私はただの「白石里奈」として、自分の足で立ち、自分の力で生きていくだけだ。


「お姉さん、笑顔がいいね。また来るよ」


帰り際の常連客のおじいちゃんが、私に向かって手を振ってくれた。

私は「ありがとうございます、またお待ちしてます!」と心からの笑顔で応えた。


かつて鏡の前で何度も練習した、作り物の「完璧な笑顔」じゃない。今の私の顔には、しわもあれば、疲れも出る。でも、これが本当の私なのだ。


店の外に出て、海の方へと視線を向ける。

波の音が静かに響き、秋の深まりを感じさせる冷たい風が私の短い髪を揺らした。


陸。

今でも時々、彼のことを思い出す。


私がどんなに醜い嘘をついていても、彼は最後まで私を信じようとしてくれた。あの誕生日の夜、冷たい夜風の中で、彼はどんな思いで私を待ち続けていたのだろう。そして、ホテルの前で私と拓也の姿を見た時、彼の心はどれほど深く傷つき、砕け散ってしまったのだろう。


自分が犯した罪の重さは、一生消えることはない。

私は、私に無償の愛を向けてくれていた一番大切な光を、自らの手で汚し、手放してしまったのだ。


「……ごめんね、陸」


波音に紛れさせるように、私は小さく呟いた。


もう二度と彼に会う資格はない。彼に謝罪の言葉を伝えることすら、今の私には許されない傲慢だ。私が彼にしてあげられる唯一の贖罪は、二度と彼の前に姿を現さず、遠くから彼の幸せを静かに祈り続けることだけだ。


どうか、彼が私のことなんて完全に忘れて、本当の愛を見つけて、誰よりも幸せになってくれますように。


私は海に向かって深く目を閉じ、もう一度、心の中で彼への祈りを捧げた。そして、きびすを返し、自分の働く小さなカフェへと戻っていった。



休日の午後。

俺と陽菜さんは、ボランティア団体が主催する地方の施設見学のために、海に面した小さな港町を訪れていた。


「わあ、海風が気持ちいいね! 陸くん、あそこの海鮮丼のお店、すごく美味しそうだよ!」

「陽菜さん、さっき電車の中で駅弁食べたばっかりじゃないですか。どんだけ食べるんですか」

「えー、海鮮は別腹だよ! ほら、早く行こう!」


陽菜さんは俺の腕を引っ張り、子どものようにはしゃぎながら商店街を歩いていく。その無邪気な姿に、俺は呆れながらも自然と笑みがこぼれていた。


三年という月日が、俺の心の傷を確実に癒やしてくれた。陽菜さんと一緒にいる時間は、無理をして笑う必要もなく、ただ心穏やかに過ぎていく。俺はもう、過去の幻影に囚われることはなかった。


「あ、ちょっと待って。靴紐解けちゃった」


陽菜さんが道の端に寄り、しゃがみ込んでスニーカーの紐を結び直す。俺はその傍らに立ち、通りを行き交う人々をぼんやりと眺めていた。


その時だった。


前方の角を曲がって、買い物袋を提げた一人の女性が歩いてきた。

ショートカットの髪。薄い化粧。少し日に焼けた肌に、飾り気のないシンプルな服。


すれ違う人波の中で、俺の視線はその女性に吸い寄せられた。

心臓が、トクンと小さく跳ねる。


白石里奈だった。


かつての、誰もが振り返るような完璧で華やかな面影は薄れていた。しかし、その顔立ちや歩き方は、間違いなく彼女のものだった。


距離が近づく。三メートル、二メートル。

彼女もふと顔を上げ、俺の存在に気づいた。


その瞬間、彼女の足がピタリと止まり、目が見開かれた。買い物袋を持つ手に、ギュッと力が入るのが分かった。彼女の瞳に、驚きと、そして深い後悔と罪悪感が入り混じったような感情が浮かび上がる。


時間が止まったかのように、俺と彼女の視線が交差した。


俺の心の中に、不思議なほど波風は立たなかった。

かつては彼女を失った絶望で死にそうになり、彼女を貶めた男を殺したいほど憎んだこともあった。しかし今、目の前に立つ彼女を見ても、怒りも悲しみも、何も湧いてこなかった。


ただ、「あぁ、彼女もちゃんと生きているんだな」という、静かな感慨だけがあった。


俺は微かに、本当に微かにだけ、口角を上げて彼女を見た。

それは「もう気にしてないよ」というサインであり、「さようなら」という決別の合図でもあった。


里奈は一瞬だけ息を呑み、そして、俺の足元で靴紐を結び終えて立ち上がった陽菜さんの姿を見た。陽菜さんの明るい笑顔と、俺と陽菜さんの間に流れる穏やかな空気。それを感じ取ったのだろう。里奈の瞳からスッと緊張が抜け、代わりに安堵したような、寂しげな色が浮かんだ。


彼女は俺に向けて、深く、一度だけ会釈をした。

言葉は何も発さなかった。俺も何も言わなかった。


そして、彼女は俺たちを避けるようにして道を譲り、静かにすれ違っていった。すれ違いざま、かすかに潮風の匂いがした。かつて俺が好きだったフローラルの香りでも、あの夜に俺を絶望させた男の香水の匂いでもない、今の彼女が生きている町の、自然な匂いだった。


「お待たせ! 陸くん、どうかした? 誰か知り合いだった?」


陽菜さんが不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。

俺は振り返ることなく、陽菜さんに向かって笑顔を向けた。


「ううん、何でもないよ。ただの人違い」

「そっか。じゃあ、早く海鮮丼食べに行こう! お店閉まっちゃう!」


陽菜さんが俺の手をギュッと握り、前を向いて歩き出す。その手の温もりが、俺の心に確かな熱を伝えてくれる。


「だから、まだお腹空いてないってば」


俺は苦笑いしながら、彼女に手を引かれて歩き出した。


俺の隣で、彼女は誰かの夢を見ていた。

それはもう、遠い過去の出来事だ。

今の俺の隣には、一緒に同じ未来を歩いてくれる、かけがえのない人がいる。


高く澄み渡った秋の空に、海鳥の鳴き声が響き渡る。

因果応報の果てに訪れた、切なくも確かな夜明け。俺たちの止まっていた時計の針は、今、新しい時間を刻み始めていた。

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