第4話 硝子のサプライズ
駅前の広場にそびえ立つ大きな時計塔の針が、午後七時を少し回ったところだった。十一月の夜風は冷たく、吐く息が白く霞んで街灯の光に溶けていく。駅周辺は週末の夜ということもあり、待ち合わせをする人々や、楽しそうに連れ立って歩くカップルたちで賑わっていた。
俺、神崎陸は、冷えた手をコートのポケットに突っ込みながら、時計塔の下でただ一人、彼女の到着を待っていた。
ポケットの中には、小さなベルベット素材のジュエリーボックスが隠されている。ひと月分のアルバイト代をすべて注ぎ込んで買った、小さなダイヤモンドがあしらわれたネックレス。俺の自慢の恋人、白石里奈の誕生日のために用意した特別なプレゼントだ。
「遅いな……」
スマートフォンを取り出し、画面を確認する。MINEのトーク画面には、午後五時に送った「もうすぐ家出るよ。七時に時計塔の下で待ってるね」というメッセージが残されたままだ。既読の文字はついていない。
いつもなら、待ち合わせの十分前には必ず現れる里奈が、今日は時間を過ぎても姿を見せない。予備校の授業が長引いているのだろうか。それとも、生徒会の急な仕事でも入ったのだろうか。
予約しているイタリアンレストランの時間は午後七時半。そこから夜景の見える観覧車に乗り、頂上でこのネックレスを渡す。完璧なサプライズ計画だ。里奈の驚く顔、そして最高に美しい笑顔を想像するだけで、寒さなんて吹き飛んでしまうような気がした。
だが、時計の針が七時十五分を過ぎ、二十五分になり、ついに予約の三十五分を回っても、里奈は現れなかった。
「……電話、してみるか」
焦りが胸の中に広がり始める。俺はレストランに少し遅れる旨の連絡を入れた後、里奈に電話をかけた。しかし、無機質な呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけで、彼女が電話に出ることはなかった。
もしかして、何か事件に巻き込まれたんじゃ……。
嫌な想像が頭をよぎる。最近の里奈は、どこか様子がおかしかった。顔色が悪く、心ここにあらずといった感じで、いつも疲労を抱え込んでいるように見えた。完璧な優等生である彼女が、過労で倒れてしまったのではないか。
居ても立っても居られなくなった俺は、時計塔の下を離れ、里奈が通っている成瑛予備校の方向へと走り出した。冷たい空気が肺を突き刺すが、そんな痛みよりも彼女への心配の方が勝っていた。どうか無事でいてくれ。ただの勘違いで、すれ違っただけだと言ってくれ。そう祈りながら、俺は人混みを掻き分けて夜の街を駆け抜けた。
時間を少し遡る。午後六時。
予備校の自習室で参考書を閉じた私は、深く長いため息をついた。今日は私の誕生日。そして、陸がずっと前から計画してくれているサプライズデートの日だ。
「……行かなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、鞄に荷物を詰める。陸はきっと、私を喜ばせようと一生懸命に準備してくれているはずだ。高いお店を予約して、プレゼントを買って、完璧なエスコートをしてくれるに違いない。
それなのに、私の足は鉛のように重かった。
陸の真っ直ぐな愛情を受け止めるのが怖い。彼が私を「完璧な彼女」として扱えば扱うほど、私の内側にある嘘と罪悪感が私自身を切り刻む。彼が用意した光り輝くステージに、今の汚れた私が立つ資格なんてないのに。
それでも、彼を悲しませるわけにはいかない。今日だけは、完璧な「白石里奈」を演じきらなければ。
決意を固めて予備校の自動ドアを抜けた瞬間、冷たい夜風とともに、聞き覚えのある声が私の鼓膜を揺らした。
「よ、優等生さん。誕生日おめでとう」
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、建物の陰から五十嵐拓也が姿を現した。彼はポケットに手を入れたまま、薄暗い街灯の下で意地悪な笑みを浮かべていた。
「拓也……どうしてここに」
「どうしてって、お前の誕生日だろ。お祝いしてやろうと思ってさ」
「今日はダメって言ったでしょ。これから、陸と待ち合わせが……」
私が言い終わる前に、拓也は私の腕を強く掴み、路地裏の方へと強引に引き寄せた。
「おい、放してっ……!」
「あんなガキのお遊戯会みたいなデートに行くのかよ。お前、今すげえ息苦しそうな顔してんぞ」
拓也の言葉が、私の図星を容赦なく突き刺した。
「そんなことない……! 陸は私のために、色々準備してくれてるの。だから、行かないと……」
「行けばいいじゃん。行って、また作り笑い浮かべて、『陸、すごーい』『嬉しい、ありがとう』って心にもないこと言ってこいよ。で、明日も明後日も、息の詰まる優等生ごっこを続けるんだろ?」
拓也の顔が近づき、彼の纏う煙草と甘い香水の匂いが私を包み込む。その匂いを嗅いだ瞬間、私の体の奥底で、あの抗いがたい麻痺のような感覚が蘇ってきた。
「本当のお前を解放できるのは俺だけだろ。あんな窮屈な光の下より、俺と泥沼で息継ぎしてる方が楽なんじゃないの?」
「……やめて、言わないで」
「スマホ、出せよ」
拓也は私の制服のポケットから強引にスマートフォンを抜き取った。画面には、陸からの「もうすぐ家出るよ。七時に時計塔の下で待ってるね」というメッセージが表示されていた。
「あ、返して……!」
「ごめん、予備校の補習が長引いてて遅れる……って、嘘のMINE打とうとしてたんだろ? めんどくせえな」
拓也はそう言うと、私の目の前でスマートフォンの電源を長押しし、画面を真っ暗にさせた。
「あ……」
「これでよし。もう誰もお前を縛らない。俺んとこ来いよ、里奈。お前のその重たい仮面、全部ぶっ壊してやるから」
拓也の手が私の腰に回り、強引に抱き寄せられる。陸への申し訳なさと、約束を破ってしまう罪悪感。それらが頭の中で警報を鳴らしているのに、拓也の毒を含んだ甘い囁きが、その警報をドロドロに溶かしていく。
「……陸が、待ってるのに」
私の口から出た拒絶の言葉は、ひどく弱々しかった。
「待たせとけよ。どうせお前は、あいつのところには戻れないんだから」
拓也に手を引かれ、私は暗い路地裏を歩き出した。もう引き返せない。私は自ら進んで、陸の用意してくれた光を捨て、拓也の差し出す絶望の暗闇へと堕ちていくのを選んだのだ。
成瑛予備校の受付に飛び込んだ俺は、息を切らしながら窓口のスタッフに尋ねた。
「す、すみません! 白石里奈って、まだ自習室に残ってますか!?」
「白石さんですか? えっえーと……あ、白石さんなら、もう一時間以上前に帰られましたよ。退室の記録が残っていますから」
スタッフの冷静な声に、俺は愕然とした。一時間前? 予備校から駅前の時計塔までは、歩いても十五分とかからない。それなら、とっくに待ち合わせ場所に着いているはずだ。
「どこに行ったんだ……」
予備校を出て、俺は再び夜の街を走り出した。もしかして、途中で気分が悪くなって、どこかで休んでいるのか。それとも、俺の知らないトラブルに巻き込まれたのか。
スマートフォンを握りしめ、何度も電話をかけるが、ついに「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……」という無機質なアナウンスに切り替わってしまった。
焦燥感が全身を駆け巡る。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は繁華街の裏通りへと足を踏み入れた。駅前の大通りをショートカットするためだ。
そこは、煌びやかなネオンサインが毒々しく光る、歓楽街の端に位置するエリアだった。居酒屋の客引きや、けばけばしい看板が立ち並び、高校生が一人で歩くには少し場違いな空気が漂っている。
ラブホテルが数軒連なる細い路地。こんな場所に里奈がいるはずがない。早く大通りに戻ろうと足を早めたその時だった。
前方を歩く男女のシルエットが、ふと俺の視界の端に引っかかった。
女性が着ているキャメル色のダッフルコート。そして、その首元に巻かれた、赤とネイビーのチェック柄のマフラー。
「……え?」
足がピタリと止まった。見間違えるはずがない。あのマフラーは、去年のクリスマスに俺が彼女と一緒に選び、プレゼントしたものだ。
「里奈……?」
声に出して呼ぼうとしたが、喉が引きつって音にならなかった。
彼女の隣には、見知らぬ背の高い男が歩いていた。大学生くらいの、少し茶色い髪をした男。男は当たり前のように里奈の腰に腕を回し、里奈もそれに身を任せるように男の肩に寄りかかっている。
嘘だろ。何かの見間違いだ。俺の里奈が、あんな見ず知らずの男とあんな距離で歩くはずがない。
しかし、街灯の光が二人の顔を照らし出した瞬間、俺の全身の血が凍りついた。
間違いない、里奈だ。俺の自慢の恋人で、誰よりも真面目で誠実な生徒会長。その彼女が、俺の前では一度も見せたことのないような、甘ったるくて、だらしなくて、ひどく色っぽい「女」の顔をして、その男に微笑みかけている。
「……あ、はは……」
乾いた笑いが漏れた。脳が目の前の現実を処理しきれず、理解を拒絶している。
二人の足が止まった。その目の前には、『HOTEL VENUS』という紫色のネオン看板が妖しく輝いている。
男が里奈の髪を優しく撫で、何かを囁いた。里奈は小さく頷き、男の胸に顔を埋めるようにして笑った。そして、二人は互いの体を密着させたまま、吸い込まれるようにホテルの重厚なガラス扉の向こうへと消えていった。
扉が閉まり、再び路地裏に静寂が戻る。
「…………」
俺は、その場から一歩も動くことができなかった。
耳鳴りがする。周囲の喧騒も、風の音も、すべてが遠のき、ただ自分の心臓が異常な早さでドクドクと脈打つ音だけが頭の中で響いていた。
完璧な彼女。俺の光。俺の誇り。俺のすべて。
俺が信じて疑わなかったその絶対的な偶像が、音を立てて、粉々に砕け散っていく感覚。
『陸が一緒にいてくれるだけで、私は十分幸せだよ』
『いつもごめんね。陸には感謝してる』
彼女が俺に向けてくれたあの優しい言葉の数々は、一体何だったのか。あの笑顔の裏で、彼女はこんな裏路地で別の男に抱かれていたのか。俺が彼女の誕生日のために一生懸命サプライズを考え、バイト代を貯めてプレゼントを選んでいる間、彼女はこの男の隣で、俺のことを見下して笑っていたのだろうか。
手から、スッと力が抜けた。
大切に抱えていた紙袋が、重力に従って俺の手から滑り落ちた。
ポスッ、という鈍い音とともに紙袋がアスファルトに落ち、中から転がり出たベルベットのジュエリーボックスが、冷たい地面に無惨に投げ出された。
俺のひと月分の汗と労力。そして、彼女への盲目的なまでの愛情の結晶。それが今、この薄汚れた路地裏の地面で、何の価値もないゴミのように転がっている。
怒りすら、湧いてこなかった。
「なんで……」
裏切られたという悲しみよりも、ただ圧倒的な虚無感が俺の心を真っ白に塗りつぶしていく。足元から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、俺は毒々しく光るホテルの看板を、ただ虚ろな目で見上げることしかできなかった。
俺の隣で、彼女は誰かの夢を見ていた。
いや、違う。俺が見ていた彼女の姿こそが、都合の良い幻想という名の「夢」だったのだ。
残酷な真実が、硝子でできた俺たちの日常を粉々に打ち砕き、鋭い破片となって俺の全身を切り裂いていた。痛い。息ができない。この絶望の底で、俺は完全に一人ぼっちになってしまった。




