表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
完璧だと信じていた彼女が、僕の用意した誕生日サプライズの日に別の男とラブホに消えた。  作者: ledled


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

第3話 綻びゆくMINE

薄暗いワンルームの部屋に、微かに甘いバニラと煙草が混ざったような香りが漂っている。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、乱れたベッドシーツを青白く照らし出していた。私はそのシーツに身を沈めながら、天井の隅にできた小さなシミをぼんやりと見つめていた。


「何見てんの」


背後から低く掠れた声が聞こえ、同時に素肌の背中に温かい体温が触れた。五十嵐拓也の腕が私の腰に回り、彼特有の冷ややかな、それでいてどこか安心感を与える香りが私を包み込む。


「……何でもない。ただ、少し時間が気になって」

「帰りたいの? 完璧な彼氏様が待ってるもんな」


拓也は私の耳元でわざとらしく鼻で笑った。その響きには明らかな嘲笑が含まれていたが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、私が普段必死に隠している「後ろめたさ」や「汚い部分」を彼が容赦なく暴き立ててくれることで、私は奇妙な安堵感を覚えていた。


「別に、そういうわけじゃ……」

「嘘つけ。さっきからスマホ気にしてただろ」


拓也は身を乗り出し、ベッドサイドのテーブルに伏せて置いてあった私のスマートフォンを無造作に手に取った。画面が明るくなり、ロック画面に通知が溜まっているのが見える。


「やめて、見ないで」


私が慌てて手を伸ばすと、拓也は意地悪くスマホを高く持ち上げ、私の頭を反対の手で軽く押さえつけた。


「『予備校お疲れ! 今日も遅くまで勉強? 無理しないでね。里奈が頑張ってると思うと、俺も部活頑張れるよ。明日、お揃いのキーホルダー付けていこうね』……うわ、寒っ。こいつ、毎日こんなお花畑みたいなLINE送ってくんの?」

「返してよ……!」


私は半ば本気で拓也の腕にすがりついたが、彼は面白そうに笑いながらスマホを遠ざけた。


「完璧なお姫様を演じるのも楽じゃないねぇ。こんな重たい愛情、よく毎日受け止めてられるよな。本当はお前、こういうの吐き気がするほど面倒くさいって思ってんだろ?」

「……そんなこと、ない」

「嘘ばっか。お前のそういう優等生ぶった嘘、俺には全部透けて見えてるって言ったろ。お前は俺の部屋でこうして息抜きしないと、あいつの純粋さに押し潰されて狂っちまうんだよ。違うか?」


拓也の言葉は、鋭利な刃物のように私の心の最も柔らかい部分を正確に切り裂いた。痛いのに、そこからドクドクと流れ出すどす黒い感情が、私を圧倒的な解放感で満たしていく。


「……そうだよ。疲れたの、私。陸の前で『理想の白石里奈』でい続けることに。お姉ちゃんみたいに完璧にならなきゃって、周りの期待に応えなきゃって、ずっと気を張って……でも、陸はそんな私の苦しみに気づかない。ただ『すごいね』『完璧だね』って、私を勝手に神格化して……」


堰を切ったように本音が溢れ出した。私の目からポロポロと涙がこぼれ、シーツを濡らしていく。拓也はスマホをベッドに放り投げると、泣きじゃくる私の頭を乱暴に撫でた。


「だから言ったろ。俺の前ではクズでいいって。あんなガキの押し付ける理想なんか、適当に誤魔化しとけ。お前の本当の居場所は、ここにあるんだからさ」


拓也の唇が私の涙を舐め取るように重なる。彼の手が私の体をなぞるたび、陸への罪悪感と、それを上回る強烈な背徳感が全身を駆け巡った。私は自分が底なしの沼に沈んでいくのを感じながら、それでも彼の腕にすがりつくことしかできなかった。



同じ頃、俺、神崎陸は、自分の部屋のベッドに寝転がりながら、スマートフォンの画面を何度もリロードしていた。


MINEのトーク画面には、俺が送ったメッセージの横にぽつんと時間が表示されているだけで、「既読」の文字はいつまで経ってもつかない。


『予備校お疲れ! 今日も遅くまで勉強? 無理しないでね。里奈が頑張ってると思うと、俺も部活頑張れるよ。明日、お揃いのキーホルダー付けていこうね』


時計の針は午後十時を回ろうとしていた。普段なら、予備校が終わる九時半過ぎには必ず「今終わったよ、駅に向かってる」という返信が来るはずだった。


「……今日は特別忙しいのかな」


独り言のように呟き、俺はスマホを胸の上に置いた。


最近、里奈とのMINEのやり取りに、ほんの少しだけ違和感を覚えていた。以前は俺がメッセージを送れば、どんなに忙しくても数十分以内には丁寧な返信と、可愛らしいウサギのスタンプが送られてきた。しかし、ここ数週間、返信が極端に遅くなることが増えた。既読がついてから半日以上放置されることも珍しくない。


返ってくるメッセージも、どこか事務的で素っ気ないものになった。


『ごめん、寝てた』

『予備校の自習室にいたから気づかなかった』

『うん、そうだね』


そんな短い言葉だけの返信。スタンプが使われることも減った。


「いや、気にしすぎだろ、俺」


俺は両手で自分の頬をパチンと叩き、悪い想像を頭から追い出した。


里奈は生徒会長としての仕事に加えて、大学受験のための予備校通いも始めている。毎日どれほどのプレッシャーと疲労を抱えているか、想像に難くない。俺みたいな能天気な部活バカとは背負っているものが違うのだ。彼女が俺への返信を後回しにしてしまうほど疲れているのなら、彼氏である俺はそれを大きな器で受け止め、支えてあげなければならない。


彼女は白石里奈だ。俺の自慢の、完璧な彼女。誰に対しても誠実で、嘘をつくような子じゃない。俺が彼女を疑うなんて、彼女の努力を冒涜するようなものだ。


ブブッ、とスマホが震えた。飛び起きるように画面を見ると、里奈からの通知だった。


『ごめん、スマホの充電切れてた。今家に着いたよ。今日も疲れたー。キーホルダー、もちろん明日付けていくね。おやすみ』


「……なんだ、充電切れてただけか」


俺は安堵の息を長く吐き出した。胸につかえていた嫌なモヤモヤが、一瞬で晴れていくのを感じる。やっぱり俺の考えすぎだったのだ。彼女はちゃんと俺のメッセージを読んで、こうして返事をくれた。それだけで十分じゃないか。


『おかえり! 充電切れなら仕方ないね。ゆっくり休んで。おやすみ!』


すぐに返信を打ち、俺は満足感に包まれながら目を閉じた。彼女の些細な変化や、時折見せる作り物めいた笑顔。それらすべてに気づきながらも、俺は「彼女は完璧だから」「俺を愛してくれているから」という盲目的な信頼という名のベールで、見たくない現実を覆い隠していた。そのベールがどれほど脆いものか、この時の俺は知る由もなかった。



翌日の昼休み。屋上のベンチで、私と陸は一緒にお弁当を食べていた。


秋の風が心地よく吹き抜けていくが、私の心はざわめいたままだった。昨夜、拓也の部屋から帰った後、泥のように眠りについた。今朝目を覚ました時、自分の体から拓也の香水とタバコの匂いがするような気がして、慌ててシャワーを浴びた。


「そういえばさ、里奈」


卵焼きを頬張っていた陸が、ふと顔を上げて私を見た。その真っ直ぐな瞳に見つめられると、心臓が罪悪感でギュッと縮み上がる。


「ん? なに?」

「最近、シャンプー変えた?」

「えっ……」


持っていた箸が、カチャンと音を立てて弁当箱の縁にぶつかった。私は動揺を隠すように、慌てて視線を落とした。


「ど、どうして?」

「いや、なんかいつもと違う匂いがするなって思って。ちょっと大人っぽいっていうか……俺はいつものフローラルな匂いの方が好きだけど、それも似合ってるよ」


陸は屈託なく笑って見せた。彼に悪気はない。ただ純粋に、私の小さな変化に気づいて感想を言ってくれただけだ。しかし、その言葉は私を凍りつかせるのに十分だった。


それはシャンプーの匂いじゃない。昨夜、拓也のベッドで彼と抱き合った時に染み付いた、彼の部屋の芳香剤と、彼の肌の匂いだ。いくらシャワーを浴びても、私の心の底まで染み込んだその毒のような匂いは、そう簡単には消えなかったのだ。


「あ、うん……ちょっともらい物の試供品を使ってみただけで、すぐ元のに戻すよ」

「そっか。里奈は何でも似合うからズルいよな」


陸は私の嘘を微塵も疑うことなく、再び弁当に意識を戻した。


私の横に置かれたスマートフォン。いつもなら画面を上に向けて置くのに、今日は無意識のうちに画面を伏せて置いていた。拓也から突然MINEが来るかもしれないという恐怖。通知が画面に表示され、陸に見られてしまうかもしれないという焦り。


私は陸を騙している。彼の純粋な愛情を裏切り、彼とは正反対の、軽薄で残酷な男の腕に抱かれている。自分でも自分が恐ろしかった。どうしてこんなことになってしまったのか。陸と一緒にいる時間は穏やかで優しいはずなのに、私はその優しさに息が詰まりそうになる。そして、私を蔑み、クズだと罵る拓也の冷たい視線を求めてしまう。


「あ、そうだ。来週の土曜日、里奈の誕生日だろ?」


陸の声にハッとして顔を上げると、彼は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いていた。


「うん。……覚えててくれたんだ」

「当たり前だろ、彼女の誕生日だぞ。ずっと前から計画してたんだ。今年は絶対に里奈を泣かせるくらい感動するサプライズを用意してるから、期待しててよ」


陸の笑顔は太陽のように眩しかった。その眩しさが、私の内側にある醜い闇を容赦なく照らし出す。


「サプライズ……? そんな、無理しなくていいのに。一緒にいられるだけで……」

「ダメ! 俺がやりたいんだよ。里奈にはいつももらってばっかりだから、俺からの恩返し。夜の七時に、駅前の時計塔の下で待ち合わせね。絶対遅刻しないでよ?」


無邪気に笑う陸の顔を見つめながら、私の顔はひきつっていたに違いない。


「……うん。楽しみにしてる」


嘘だ。ちっとも楽しみじゃない。陸が私のために完璧な計画を立てれば立てるほど、私は自分の罪の重さに耐えられなくなる。彼の用意した光り輝くステージに、今の汚れた私が立つ資格なんてないのに。


(拓也に、来週の土曜日は会えないって言わなきゃ……)


頭の片隅でそんなことを考えながら、私は陸に向かって、今日一番の「完璧な作り笑い」を浮かべていた。



放課後、俺は部活を早退し、駅前のショッピングモールに来ていた。里奈の誕生日プレゼントを買うためだ。


親友の健太けんたにも付き合ってもらい、ジュエリーショップのショーケースを真剣な顔で覗き込む。


「お前、高校生でこんな高いネックレス買うのかよ。バイト代全部飛ぶぞ」


健太が呆れたようにショーケースの値段表を指差した。そこには、小さなダイヤモンドがあしらわれた、華奢で上品なネックレスが並んでいる。値段は三万円を超えていた。


「いいんだよ。里奈は俺にとって特別な存在だから。あいつはいつも生徒会とか予備校とかで頑張ってるし、俺の完璧な彼女だから、これくらいのものじゃないと釣り合わないだろ」

「お前なぁ……完全に盲目だな。まぁ、白石さんならこれくらい似合うだろうけどさ」

「だろ? あいつがこれ着けて喜ぶ顔が早く見たいよ」


俺は迷うことなく、そのネックレスを店員に告げた。綺麗にラッピングされていく箱を見つめながら、俺の胸は期待で大きく膨らんでいた。


最近の里奈は、どこか疲れているように見えた。MINEの返信が遅かったり、一緒にいても上の空だったりすることが増えた。さっきの昼休みだって、俺が誕生日サプライズの話をした時、一瞬だけ彼女の顔が強張ったように見えた。


でも、それはきっと疲れのせいだ。俺が彼女を楽しませて、最高の一日をプレゼントすれば、あの完璧で美しい笑顔が戻ってくるはずだ。俺には彼女を幸せにする義務がある。


「レストランの予約もバッチリだし、夜景が見える観覧車のチケットも買った。完璧なサプライズだ」

「気合い入りすぎだろ。逆に重いって引かれないように気をつけろよ」

「里奈に限ってそんなことないって。あいつは俺の気持ち、絶対分かってくれるから」


健太の忠告を軽く笑い飛ばし、俺は大事そうに紙袋を抱え直した。


信じている。里奈のことなら何でも知っている。彼女が俺を裏切るはずがない。日常に響き始めた不協和音を、俺は力任せに打ち消そうとしていた。彼女が俺の手の届かない遠くへ行ってしまうのではないかという、心の奥底でチリチリと燃える微かな不安から目を背けるために。


誕生日まであと一週間。

俺が用意したこの「完璧な計画」が、残酷な真実の幕を開ける引き金になることなど、この時の俺は知る由もなかった。硝子のように脆い私たちの日常は、すでに修復不可能なほどにヒビ割れていたのだ。


ただ、俺だけが、そのヒビに気づかないふりをして、彼女という偶像に祈りを捧げ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ