第2話 静かなる侵食
成瑛予備校の自習室は、常に張り詰めたような静寂に支配されている。カリカリとシャーペンを走らせる音、時折誰かが咳払いをする音、分厚い参考書のページをめくる音。それらすべての音が、私には焦燥感を煽る時計の針のように聞こえた。
机の上に広げたのは、先日返却されたばかりの全国模試の結果だ。偏差値は悪くない。志望校の判定もAとBを行き来しているレベル。普通の高校生なら十分に喜べる結果のはずだった。
しかし、私のスマートフォンには、母からの短いメッセージが残されている。
『模試の結果、どうだった? お姉ちゃんは高二の秋にはもう東大A判定で安定してたから、里奈もそろそろ本腰入れないとね。期待してるわよ』
画面を見つめる私の視界が、じわりと滲んだ。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん。私の人生には、いつもその完璧な幻影が付きまとっている。どれだけ必死に勉強しても、どれだけ生徒会長として周囲の期待に応えても、親にとっては「お姉ちゃんには及ばない妹」でしかない。
ため息を一つ吐き出し、私は模試の結果を乱暴に鞄の奥底へと押し込んだ。誰にも見られたくない。特に、私を「完璧」だと信じて疑わない彼氏の陸には、絶対に。
『里奈はすごいな。俺の自慢の彼女だよ』
陸のその言葉を思い出すたび、胸の奥がチクチクと痛む。彼の純粋な好意は、今の私にはあまりにも眩しすぎた。彼は私のすべてを肯定してくれるが、それはあくまで「完璧な白石里奈」という虚像に対する肯定だ。私の内側でドロドロと渦巻いている、嫉妬や劣等感、プレッシャーに押し潰されそうな弱さ。それらを彼は知らない。見せようとも思わない。見せたら最後、彼の中の「理想の彼女」は粉々に砕け散ってしまうのだから。
集中力が途切れてしまった私は、気分転換に質問受付のカウンターへと向かうことにした。解けなかった数学の問題を、大学生のチューターに教えてもらうためだ。
カウンターには、見慣れない青年が座っていた。名札には「五十嵐拓也」と書かれている。私服のシャツを着崩し、どこか退屈そうに頬杖をつきながら、手元のスマートフォンをいじっていた。大学生のアルバイトだろう。少し茶色がかった髪と、切れ長の涼しげな目が印象的だった。
「あの、すいません。数学の質問、いいですか?」
私が声をかけると、拓也はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、彼の冷ややかな視線が私を上から下まで値踏みするように舐め回したのが分かった。
「ん? ああ、いいよ。どこ?」
彼はスマホをテーブルに置き、私の差し出した問題集を覗き込んだ。私は事前に用意しておいた「完璧な優等生」の笑顔を作り、分からない箇所を丁寧に説明した。
拓也は数秒ほど問題を見た後、さらさらとボールペンを走らせて解法を書き出していく。説明は的確で分かりやすかった。
「……こういうアプローチになる。で、ここから先は自分で計算できるでしょ?」
「はい、分かりました。ありがとうございます、五十嵐さん」
「拓也でいいよ。白石さんだっけ? 生徒会長なんだってね。受付の人たちが噂してたよ。あの完璧な優等生がうちの予備校に来たって」
拓也は口角を少しだけ上げ、面白そうに私を見た。私は愛想笑いを浮かべながら、いつものセリフを口にする。
「そんな、完璧なんてとんでもないです。ただ、みんなの期待に応えようと頑張ってるだけで……」
「へえ」
拓也は私の言葉を遮るように、短く相槌を打った。そして、ペンを指先でくるくると回しながら、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
「でもさ、本当はすげえ息苦しいんじゃないの?」
「え……?」
不意を突かれた言葉に、私は愛想笑いを張り付けたまま固まった。
「その顔、無理して作ってるのバレバレ。目は全然笑ってないし、肩に力入りすぎ。完璧な優等生を演じるのって、疲れない? まぁ、周りの馬鹿どもは騙せるんだろうけどさ」
心臓がドクン、と大きく跳ねた。見透かされている。私の心の中に何重にもかけていた鍵を、この初対面の男は一瞬でこじ開けてしまった。
「な、何を言ってるんですか。私、別に無理なんか……」
「強がらなくていいって。別に説教したいわけじゃない。ただ、見てて痛々しかったから言ってみただけ」
拓也はふっと鼻で笑うと、再びスマホに視線を落とした。
「ま、俺の前でくらい、その重たい仮面外せば? 誰も見てないんだし。質問があったらまたおいで。ただし、本音で話せるようになったらね」
私は何も言い返せず、逃げるようにその場を立ち去った。自習室に戻っても、心臓の鼓動はしばらく収まらなかった。彼の言葉が、耳の奥で何度もリフレインしている。
『本当はすげえ息苦しいんじゃないの?』
陸は決して言わない言葉。私の仮面の裏側を、いとも簡単に見透かした男。恐怖と同時に、私の心の奥底で、何かが静かに熱を持ち始めているのを感じていた。
自習室へと小走りで戻っていく白石里奈の後ろ姿を見送りながら、俺、五十嵐拓也は小さく舌打ちをした。
「あーあ、面白いおもちゃ見つけちゃったな」
白石里奈。高校の生徒会長で、成績優秀、容姿端麗。誰もが羨むような完璧な優等生。だが、俺の目には、彼女がひどく滑稽な存在に映っていた。
彼女が抱えている劣等感の匂いは、俺のような人間にはすぐに分かる。親の期待、周囲の評価、そして自分自身が作り上げた「完璧」という呪縛。それに縛られて身動きが取れなくなっているくせに、必死に余裕なフリをしている。そういう女の心の隙間に入り込むのは、実に簡単だ。
俺は昔から、他人の弱点を見つけるのが得意だった。特に、プライドが高くて優等生ぶっている女が、俺の言葉一つでボロボロに崩れ落ち、俺に依存していく過程を見るのがたまらなく好きだった。それは、俺自身の満たされない虚栄心を満たしてくれる、最高のゲームだ。
白石里奈には、同じ高校の彼氏がいるらしい。純粋で真っ直ぐな、いかにも「良い奴」といった感じの男だそうだ。だが、そういう男の眩しさは、里奈のような闇を抱えた女にとっては猛毒になる。光が強ければ強いほど、彼女の影は濃くなるからだ。
「さて、どうやってあの仮面を引き剥がしてやろうか」
俺はスマートフォンを取り出し、SNSの裏アカウントを開いた。そこには、過去に俺が「攻略」してきた女たちの惨めな姿が、戦利品として並んでいる。
白石里奈の連絡先を手に入れ、彼女の全てを俺の色に染め上げる。そして、彼女が最も大切にしているものを壊してやる。その想像だけで、俺の胸は暗い悦びで満たされていく。あの息苦しそうな優等生の顔が、快楽と絶望に歪む瞬間を早く見たい。
俺はニヤリと笑い、次の獲物を手に入れるためのシナリオを頭の中で組み立て始めた。
予備校での授業が終わり、夜の冷たい空気を吸い込みながら駅への道を歩いていた。拓也に言われた言葉が、頭から離れない。
『俺の前でくらい、その重たい仮面外せば?』
今まで、誰にもそんなことを言われたことはなかった。両親は「もっと頑張れ」と言い、クラスメイトは「さすが白石さん」と褒め称え、陸は「俺の完璧な彼女」と微笑む。誰もが私に何かの役割を押し付け、それに私を当てはめようとしてきた。
ポケットの中でスマートフォンが振動した。陸からのMINEだ。
『予備校お疲れ様! 今日も夜遅くまで頑張ってて偉いね。俺も部活でクタクタだけど、里奈が頑張ってると思うと力が湧いてくるよ。明日も学校で会えるの楽しみにしてるね。おやすみ、俺の最高のお姫様!』
いつもなら、このメッセージを見て「私も頑張ろう」と無理やりにでも自分を奮い立たせていた。でも、今日は違った。画面の文字が、やけに重たく、冷たく感じられた。
『俺の最高のお姫様』
違う。私はお姫様なんかじゃない。嫉妬深くて、臆病で、誰かと比べられることに怯えているだけの、ただの醜い女の子だ。
陸の純粋な愛情が、今はただただ苦しい。彼は私を光の当たる場所に立たせようとする。でも、私の心はすでに影に覆われていて、光を浴びれば浴びるほど、自分の醜さが浮き彫りになっていくような気がした。
「……疲れたな」
ポツリと漏らした言葉は、夜の喧騒に呆気なく吸い込まれていった。私は陸への返信を打つ気になれず、スマートフォンをポケットの奥深くに沈めた。
家に帰れば、また「お姉ちゃんの妹」としての生活が待っている。どこにも私の居場所はない。誰も本当の私を見てくれない。
そんな絶望感の中で、ふと拓也の顔が脳裏をよぎった。彼の冷ややかな視線と、全てを見透かしたような言葉。それは確かに毒を含んでいたけれど、今の私には、その毒こそが唯一の救いのように思えてならなかった。
数日後、私は再び予備校の質問受付カウンターの前に立っていた。手には、特に質問もない参考書を握りしめている。
拓也は相変わらず退屈そうに座っていた。私に気づくと、彼は少しだけ目を細め、口角を上げた。
「お、また来たね。優等生さん」
「……質問、いいですか」
私が小声で言うと、拓也は「どうぞ」と隣のパイプ椅子を勧めた。私は周囲の目を気にしながら、そっと椅子に腰を下ろす。
「今日は何の質問? また完璧な自分を演じるための予習?」
からかうような彼の言葉に、私はギュッと唇を噛んだ。
「……どうして、そんなこと言うんですか」
「図星だからでしょ」
拓也は頬杖をついたまま、私の顔を覗き込んだ。
「お前の彼氏、お前のこと『完璧』だとか『最高』だとか言って、持ち上げてんだろ? それでプレッシャー感じて、勝手に息苦しくなって。馬鹿みたい」
「……陸は、私のことを想って言ってくれてるんです。馬鹿になんてしないでください」
反射的に反論したが、その声には自分でも驚くほど覇気がなかった。
「想ってるねぇ。本当にお前のこと想ってんなら、お前がそんなにボロボロになってることに気づくはずだけどな。あいつが見てるのは、お前自身じゃなくて、お前が被ってる『完璧な彼女』っていう仮面だけだろ」
拓也の言葉は、鋭いナイフのように私の心の最も脆い部分を切り裂いた。痛い。痛いのに、同時に、ひどく心地よかった。
ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。私が隠し続けてきた真実を、彼は残酷なまでに正確に言語化してくれたのだ。
「……私だって、本当は嫌なんです」
気づけば、私はポツリポツリと本音をこぼしていた。
「お姉ちゃんと比べられるのも。生徒会長として完璧でいなきゃいけないのも。陸の期待に応え続けるのも……全部、疲れた。本当の私なんて、空っぽで、何もなくて、ただの嘘つきなのに」
涙が視界を滲ませた。誰の前でも決して見せなかった弱音が、堰を切ったように溢れ出す。
拓也は黙って私の話を聞いていた。そして、ふっと柔らかい息を吐き出すと、私の頭にポンと手を乗せた。
「それでいいじゃん」
「え……?」
「空っぽで、嘘つきで、ダメな自分でいいじゃん。俺は別に、お前に完璧なんか求めてない。そのままの、どうしようもないお前でいればいい」
その言葉は、陸が決して私に言わない「毒のある肯定」だった。
陸の「完璧な里奈でいて」という期待は、私を常に背伸びさせ、息を止めさせていた。しかし、拓也の「ダメなままでいい」という肯定は、私を重力から解放し、深く息を吸い込むことを許してくれた。
「俺の前では、もう無理すんな。その代わり、俺には全部見せろよ」
拓也の瞳は、底知れぬ暗い欲望を湛えていた。それが私を破滅へと導く罠だと、頭のどこかでは警告が鳴っていた。この男に関わってはいけない。この甘い毒を飲めば、私はもう二度と元の世界には戻れなくなる。
でも、私の心はすでに限界だった。
「……はい」
私は小さく頷き、拓也の手に自分の手を重ねた。その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちるのが分かった。
こうして私は、陸という光の当たる世界から、拓也という暗く甘い泥沼へと、自ら足を踏み入れてしまったのだ。静かなる侵食は、すでに私の心の奥深くまで進行していた。もう、引き返すことはできなかった。




