第1話 陽だまりの仮面
放課後のチャイムが鳴り終わっても、二年B組の教室には心地よい喧騒が残っていた。黒板の前に立つ彼女の姿を、俺、神崎陸は、自分の席からただ静かに見つめていた。
窓から差し込む夕日が、彼女の艶やかな黒髪を黄金色に縁取っている。黒板の前に立ち、来月の文化祭についての連絡事項を伝えるその声は、凛としていて、それでいてどこか優しさを帯びていた。
白石里奈。
この学園の生徒会長であり、誰もが認める才色兼備の優等生。そして何より、俺の自慢の恋人だ。
「――以上が、各クラスの出し物に関する注意事項です。質問がある委員は、放課後に生徒会室まで来てください。それでは、今日のホームルームはこれで終わります」
里奈が深く一礼すると、教室中から感嘆の入り混じったような拍手がパラパラと起こった。担任の教師でさえ、彼女の完璧な仕切りに満足げな頷きを返している。彼女が動くたびに、周囲の空気が浄化されていくような錯覚に陥る。それくらい、里奈は俺にとって、いや、この学校の生徒全員にとって、手の届かない高嶺の花であり、絶対的な光だった。
ホームルームが解散となり、生徒たちが三々五々帰り支度を始める中、俺は自分の席に座ったまま、里奈が教卓の資料をまとめるのを待っていた。彼女の邪魔にならないよう、いつもこうして少し離れた場所から見守るのが俺の特等席だ。
「里奈、今日もお疲れ様」
資料を抱えて歩いてきた彼女に声をかけると、里奈は少しだけ目を細め、俺にだけ見せる特別な笑顔を浮かべた。
「ありがとう、陸。待たせちゃってごめんね。生徒会室にこのプリントを持っていったら、一緒に帰れるよ」
「全然待ってないよ。荷物、半分持つよ」
俺は当然のように手を差し出し、彼女の抱えていた重そうなファイルを受け取った。里奈は「いつもごめんね」と申し訳なさそうにするが、俺にとってはこの些細な手助けすら至上の喜びだった。完璧な彼女の隣に立つためには、俺自身も彼女を支えるにふさわしい存在でなければならない。彼女を守り、支え、その笑顔を永遠に曇らせないこと。それが俺の使命だと、本気で信じていた。
生徒会室への用事を済ませ、二人で校門を出る頃には、空は鮮やかな茜色に染まっていた。長く伸びた二つの影が、寄り添うようにアスファルトの上に落ちている。
「今日のホームルームでの説明、すごく分かりやすかったよ。やっぱり里奈はすごいな。クラスのみんなも感心してたし」
並んで歩きながら俺がそう言うと、里奈は少しだけ肩をすくめた。
「そんなことないよ。ただ原稿を読んだだけだもん。それに、生徒会長なんてただの飾りみたいなものだし……」
「またそんな謙遜して。里奈がどれだけ夜遅くまで資料作ってたか、俺は知ってるよ。本当に尊敬する。俺には絶対できないもん」
俺は心からの賞賛を口にした。里奈の努力家なところ、誰に対しても平等で優しいところ、そして決して弱音を吐かない強さ。そのすべてが愛おしく、誇らしかった。
「……ありがとう、陸。陸がそう言ってくれると、頑張れる気がする」
里奈は柔らかく微笑んでくれたが、その伏せられた瞳の奥に、ほんの一瞬だけ疲労の色が混じったことに、俺は気づけなかった。完璧な彼女が弱さを見せるはずがないと、俺自身が勝手に決めつけていたのだ。
駅までの道のりを歩きながら、俺たちは他愛のない会話を交わした。週末に観に行く映画のこと、新しくできたカフェのこと。すれ違う他校の生徒たちが、里奈の美しさに振り返るのを横目で感じながら、俺は密かな優越感に浸っていた。この完璧で美しい少女は、俺のものなのだと。
「そういえば、来月は里奈の誕生日だね。今年は絶対、最高のサプライズを用意するから楽しみにしててよ」
駅の改札前で別れ際、俺がそう宣言すると、里奈は少し驚いたように目を見開いた後、ふわりと笑った。
「ふふ、プレッシャーかけないでよ。でも、陸が一緒にいてくれるだけで、私は十分幸せだよ」
「ダメだよ、俺が何かしたいんだ。里奈にはいつももらってばっかりだから、たまには俺にもかっこつけさせて」
「……うん、楽しみにしてるね」
里奈の手を軽く握り、俺たちはそれぞれの帰路についた。彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送りながら、俺は胸の奥で熱い決意を固めていた。彼女の誕生日は、絶対に誰よりも幸せな一日にしてみせる。彼女の完璧な笑顔を引き出すためなら、俺はどんなことだってできる。
自分の部屋のドアを閉めた瞬間、重たい鉛を飲み込んだような疲労感が全身にのしかかってきた。
私は鞄を床に放り出し、制服のままベッドに倒れ込んだ。天井のシミをぼんやりと見つめながら、大きく息を吐き出す。肺の奥に溜まっていた濁った空気が、ようやく外に逃げていくのを感じた。
「……疲れた」
誰にも聞こえない声で呟いた言葉が、静かな部屋に吸い込まれて消えた。
神崎陸の前で見せる「白石里奈」は、完璧な理想の彼女でなければならない。優しくて、賢くて、誰からも頼りにされる生徒会長。それが、陸が私に求めている姿であり、私が演じ続けなければならない役割だ。
机の上に置かれた写真立てが目に入る。そこには、数年前に撮られた家族写真が飾られていた。両親の間に立つ私と、その隣で自信に満ちた笑顔を向ける三歳年上の姉、美咲。
姉は、昔から何をやっても完璧だった。勉強も、スポーツも、芸術も。地元の名門高校から東大へストレートで進学し、今は誰もが知る一流企業でバリバリ働いている。両親の自慢の娘であり、白石家の「最高傑作」だった。
『里奈も、お姉ちゃんみたいに頑張りなさいよ』
『さすが美咲の妹ね。次も期待してるわよ』
幼い頃から、私はずっと姉の背中を追わされてきた。何かを成し遂げても、必ず「お姉ちゃんはもっと凄かった」という無言の評価がついて回った。どれだけ背伸びをしても、どれだけ努力しても、私は決して「白石美咲」にはなれない。その絶望的なまでの劣等感が、私の心の中に真っ暗な空洞を作り出していた。
だからこそ、私は高校で生徒会長に立候補した。「優秀な白石家の次女」という両親の期待に応えるために。そして、姉の影から逃れ、私自身の価値を証明するために。
でも、現実は甘くなかった。生徒会長としての重圧、周囲からの過剰な期待、そして教師たちからの容赦ない要求。それらに押しつぶされそうになりながらも、私は必死に「完璧な優等生」の仮面を顔に貼り付けていた。誰かに弱みを見せれば、すぐに「やっぱりお姉ちゃんとは違うね」と失望されるのが怖かったから。
そんな私にとって、陸の存在は最初は救いだった。彼は私の肩書きや姉の存在に関係なく、私自身を真っ直ぐに見てくれた。彼の不器用で誠実な愛情に触れるたび、私は自分が特別な存在になれたような気がした。
けれど、時間が経つにつれて、その純粋すぎる愛情が、私を真綿で首を絞めるように苦しめ始めていた。
ブブッ、と制服のポケットでスマホが震えた。画面を見ると、陸からのMINEだった。
『今日も一日お疲れ様! 里奈が頑張ってる姿を見て、俺ももっと頑張らなきゃって思ったよ。いつも完璧でかっこいい俺の自慢の彼女。無理しすぎないようにね! おやすみ!』
画面に並ぶ明るい文字の羅列を見て、私は吐き気にも似た息苦しさを覚えた。
「……完璧なんかじゃないよ」
私は画面を伏せ、ぎゅっと目を閉じた。
陸は知らない。私が毎晩、プレッシャーで胃を痛めながら生徒会の資料を作っていることを。姉と比べられる恐怖で、眠れない夜が何度もあることを。彼の前で浮かべる笑顔が、鏡の前で何度も練習した作り物であることを。
『俺の自慢の彼女』
『いつも完璧な里奈』
陸の口から紡がれる肯定の言葉は、私にとっては呪いだった。彼は「完璧な白石里奈」を愛している。もし私が、この仮面を剥ぎ取って、醜くて弱くて、嫉妬深くて卑屈な本当の自分を見せたら、彼はどんな顔をするだろうか。きっと、軽蔑して離れていくに違いない。
だから私は、陸の前で決して仮面を外せない。彼の純粋な期待を裏切るのが怖い。彼の中の「理想の里奈」を壊してしまうのが怖い。
愛されているはずなのに、どうしてこんなにも孤独なのだろう。陸と一緒にいるときでさえ、私の心の中の空洞は冷たい風をスースーと通し続けている。誰にも見せられない真っ暗な穴。陸の光が眩しければ眩しいほど、私の内側にある影は色濃く、深く沈んでいくのだった。
翌日の昼休み。私は生徒会室で、山積みになった文化祭の予算案の書類と格闘していた。
「白石会長、この機材のレンタル代なんですが、予算を少しオーバーしてしまって……」
「会計の山田くんには確認した? 予備費から少し回せるか計算してみて。どうしても無理なら、私が直接教頭先生に掛け合ってみるから」
「わかりました! さすが会長、頼りになります!」
後輩の役員がパッと表情を明るくして走り去っていくのを見送りながら、私は小さくため息をついた。頭痛がする。昨夜もあまり眠れなかったせいか、こめかみの奥がズキズキと脈打っていた。
「里奈、お疲れ。差し入れ持ってきたよ」
コンコン、とドアをノックする音とともに、陸が紙袋を提げて入ってきた。彼が来ることは分かっていたので、私はすぐに口角を上げ、いつもの「完璧な笑顔」を作った。
「ありがとう、陸。ちょうど甘いものが欲しかったところなんだ」
「購買で最後の一個だったイチゴミルクのパックと、チョコクロワッサン。里奈、これ好きでしょ?」
「うん、大好き。わざわざ買ってきてくれて嬉しい」
陸は私の向かいのパイプ椅子に座り、書類の山を見て目を丸くした。
「うわ、すごい量だな。これ全部、里奈がチェックするの?」
「うん。各クラスの予算がちゃんと公平に振り分けられてるか、確認しないといけないから」
「やっぱり里奈はすごいな。俺なんか自分のクラスの出し物のことだけで頭がいっぱいなのに。生徒会長って本当に大変だね」
陸の瞳には、一切の曇りがない純粋な尊敬と愛情が満ちていた。その眩しさに、私は目を細めずにはいられなかった。
「……そんなことないよ。みんなが手伝ってくれるから」
「またまた。里奈が一番頑張ってるの、俺が知ってるから。無理しないでね、俺にできることがあったら何でも言ってよ」
優しい言葉。本来なら心に沁みるはずのその言葉が、今の私には鋭い棘のように突き刺さる。
『何でも言ってよ』と言うけれど、私が「もう生徒会長なんて辞めたい」「お姉ちゃんと比べられるのが嫌で死にそう」「完璧な彼女を演じるのに疲れた」と泣き喚いたら、陸は受け止めてくれるのだろうか。
いや、無理だ。
彼は、そういう泥沼のような感情を知らない。温かい家庭で育ち、真っ直ぐに人を信じることができる陸には、私の抱えるドロドロとした暗い感情など理解できないだろう。彼に見せられるのは、綺麗に包装された「白石里奈」だけだ。
「ありがとう、陸。その気持ちだけで十分だよ」
私はイチゴミルクにストローを挿し、一口飲んだ。甘ったるい味が口の中に広がるが、砂を噛んでいるように味気なかった。
「そういえば、来週の土曜日、予備校の体験授業に行くんだって?」
陸がふと思い出したように尋ねてきた。
「うん。最近、少し成績が伸び悩んでて。三年生になる前に、ちゃんとした塾に通っておこうかと思って。成瑛予備校っていう、駅前のところ」
「そっか。里奈は本当に偉いな。俺もそろそろ受験のこと考えなきゃいけないんだけど、部活が忙しくてつい後回しになっちゃっててさ」
「陸は部活、一生懸命やってるもんね。県大会、応援に行くからね」
「おう! 絶対レギュラー勝ち取るから見ててくれよな!」
屈託なく笑う陸の顔を見つめながら、私は机の下で自分の太ももをギュッと抓った。痛みが、少しだけ私の意識を現実につなぎ止めてくれる。
息が詰まる。この陽だまりのような温かさが、私をじわじわと焦がしていく。
完璧な生徒会長。完璧な彼女。完璧な妹。
私に貼られた無数のラベルが、私の皮膚を覆い尽くし、呼吸を奪っていく。誰か、この息苦しさから私を解放してほしい。私の醜い部分も、弱い部分も、すべてを曝け出しても許してくれる場所が欲しい。
そんな叶わぬ願いを心の奥底に封じ込め、私は再び書類に向き直った。
窓の外では、秋の気配を含んだ風が校庭の木々を揺らしている。平和で、穏やかで、誰もが羨むような私たちの日常。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
その完璧に作り上げられたガラスの城が、たった一つの小さな石ころによって、音を立てて崩れ去る日が、すぐそこまで迫っているということを。私の心の隙間に忍び込み、この息苦しい日常を壊してくれる「毒」との出会いが、すぐ先の予備校で待ち受けていることを。
陸の優しさに押し潰されそうになりながら、私はひたすらに偽りの笑顔を貼り付け続けた。




