第一話 境界のバス停
電車のドアが閉まり、走り去る音が夜の底へ吸い込まれていく。
無人駅のホームに降り立つと、肺の奥まで洗われるような、冷たく澄んだ空気が流れ込んできた。
私は、ホームの端で一度大きく背伸びをした。
身体の奥底で眠っていた、古い記憶の断片がわずかに蘇ってくる。
二十年ぶり。その月日は、この山あいの景色をどれほど変えただろうか。
駅を出て、一つしかない街灯の下を歩く。街灯の真下を通る際、地面に伸びた自分の影を見つめる。
一分一秒を惜しみ、何者かになろうと、見えない階段を駆け上がることばかりを考えていた。
エネルギーに溢れ、世界は自分次第でどうにでもなると信じていた、あの情熱。
そんなことを思い出しながら、私はやってきたバスに乗車した。
懐かしい夜の景色が、ただ流れるように静かに見つめ返している。
終点の停留所に降り立つと、昔と変わらない錆びついたポールが一本、街灯の橙色の光に照らされて立っているだけだった。
旧友が車で迎えに来るまで、まだ少し時間はある。
私は、木製の古いベンチに腰を下ろした。
風が止み、森が息を潜める。
霧が出始めていた。
湿った土の匂い。
遠くで鳴く虫の声。
私は膝の上に軽く手を置き、指先に触れる冷気をただ感じていた。
霧は音もなく、視界のすべてを淡い乳白色で包み込んでいった。
霧の奥から、歩く靴音が近づいてきた。
「……迎えかな」
独り言が、白く濁った空気の中に小さく溶けた。
霧を割って現れたのは、一人の男性だった。
三十代前半だろうか。
街灯の光の下に立ち止まったその男は、私の存在に目を向けることもなく、険しい表情のまま闇の奥を睨みつけていた。
握りしめた拳の震え。
張り詰めた肩のライン。
彼は私の隣に、音を立てて座った。
「……結局、何も分かっちゃいないんだ」
絞り出すような声は、焦燥に焼かれていた。
「俺は間違ってない。誰よりも先を見て、筋道を通している。なのに、なぜ周りは足を引っ張る。なぜ、俺のやり方を誰も見ようとしないんだ。評価されるべき人間が、なぜこんなところで足踏みをしなきゃいけない」
私は、黙って聞いていた。
若者の放つ言葉が、霧を震わせ、夜の冷気と混ざり合う。
私は、ただ彼が放つ熱の傍らで、夜の空気を静かに吸い込んでいた。
ベンチの背板に軽く体を預け、騒がしい言葉をそのまま夜に流していく。
かつての私も、あんな風に自分自身を追い詰めていただろうか。
世界を敵に回してでも自分のやり方を貫こうとする、その不器用なエネルギー。
「……あんた、聞いてるのか?」
若者が苛立ちを隠さずに私を見た。
私は、ただ穏やかに彼を見つめ返した。
ぶつかり合うような視線を、ただ静かな水面のように受け止める。
若者は、私の沈黙にいっそう肩を強張らせたようだったが、やがて視線を自分の靴先へと落とした。
私は、霧に濡れた夜の匂いを、ただの匂いとして受け取り、静かな時間を過ごしていた。
霧がいっそう濃くなり、視界は白一色に染まった。
ふと横を向くと、そこにいたはずの若者の姿は、もうなかった。
座っていた感触も、彼が放っていた熱量も、霧の中に溶けて消え去っていた。




