すれ違う時間
同じ家にいるはずなのに、
結子と顔を合わせることが、ほとんどなくなっていた。
俺が起きる頃には、
結子の部屋のドアは閉まっている。
夕方になっても、
そのまま動く気配がない日もある。
夜遅く、
キーボードを叩く音が聞こえることもあれば、
まったく物音がしない日もあった。
生活リズムのズレは、
もう「調整できる違い」ではなかった。
机の端に置いた食事が、
そのまま残っていることが増える。
ラップをかけた皿。
レンジで温めればすぐ食べられるもの。
朝になっても、
位置が変わっていない。
捨てるたびに、
胸の奥が少しだけ冷える。
――食べなかったのか。
それとも、食べられなかったのか。
どちらか分からないまま、
ゴミ袋を結ぶ。
結子は、成果を出していた。
それは、疑いようがない。
スマホを眺めていると、
ネットニュースに彼女の名前が出てくる。
若手作家特集。
繊細な文体。
次作への期待。
気づけば、
出版された作品は九十話を超えていた。
「……もう、そこまで来たのか」
一年という期限が、
現実味を帯びて迫ってくる。
家の中で、
結子はほとんど姿を見せない。
大学に行っているのかどうかも、
正直、分からない。
昼か夜かも判別できない時間帯に、
部屋の灯りだけが点いている。
籠もって、
ひたすら書いているのだろう。
それが分かっているから、
声をかけられない。
邪魔をしない。
踏み込まない。
それが、
俺が選んだ距離のはずだった。
それでも、
ふとした瞬間に思う。
――俺は、今、何をしているんだろう。
生活は回っている。
家事も問題ない。
「役に立っている」という実感は、
まだ確かにある。
だが同時に、
ここにいても、
いなくても変わらないのではないか、
という考えが頭をよぎる。
ある夜、
久しぶりに結子と顔を合わせた。
キッチンで水を飲みに来ただけの、
ほんの数分。
「……あ」
結子が先に気づく。
「まだ、起きてたんですか」
「まあな」
それだけで、
会話は止まった。
沈黙に耐えきれず、
俺は余計な一言を口にする。
「……ちゃんと、食べてるか」
結子は一瞬だけ視線を逸らす。
「大丈夫です」
即答だった。
それ以上、続ける気配はない。
「ああ、そうか」
それで終わりだ。
衝突はない。
怒りもない。
ただ、
噛み合わなかった。
結子は水を飲み終え、
何事もなかったように部屋へ戻る。
ドアが閉まる音が、
やけに大きく聞こえた。
一年。
最初に聞いたときは、
ずいぶん先の話だと思っていた。
だが今は違う。
結子の九十話目と、
俺の一年。
それぞれの時間が、
確実に進んでいる。
同じ家にいながら、
別々の場所を歩いている感覚。
支えることと、
離れていくことは、
こんなにも近かったのか。
机の上には、
今日も手つかずの皿が残っている。
それを片づけながら、
俺は初めて、
この生活が永遠ではないことを、
はっきりと意識していた。




