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私と約束の99の物語  作者: 阪井秋


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鍵を預かる朝


 引っ越し初日の朝、藤森から短いメッセージが届いた。


『今日は大学の講義があるので、

 鍵を渡します。

 先に入っていてください』


 指定された時間にマンションの前で落ち合い、鍵を受け取る。


「無理しなくていいですからね」


 そう言って、藤森は少し早足で駅の方向へ向かった。

 講義のある日らしく、いつもよりきちんとした服装だ。


 残された俺は、鍵を手のひらで転がしてから、深呼吸を一つした。


 ――本当に、始まるんだな。


 ドアを開ける。


 前に来たときより、部屋はさらに散らかっていた。


 ゴミ袋が一つ増えている。

 テーブルの上には、飲みかけのペットボトルと紙の束。

 床にもノートが落ちたままだ。


 ただ、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……忙しかったんだろうな」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


 自分の荷物は最低限しかない。

 段ボールは二箱。

 衣類と日用品、仕事用の書類だけだ。


 引っ越し業者が来るほどでもない量で、

 自分でも少し笑ってしまう。


 荷物を空いている部屋に置き、袖をまくる。


 まずは目につくところから。


 ゴミ袋をまとめ、床に散らばった紙を種類ごとに分ける。

 洗濯されたままの服は脱衣所に寄せた。


 コンロと流しは相変わらずきれいだ。

 だからこそ、「ここだけは守っている」という感じがする。


 掃除ロボットを起動すると、

 見えている床だけを律儀に回り始めた。


 昼を過ぎる頃には、部屋の印象はかなり変わっていた。


 物は減っていない。

 ただ、置き場所が決まっただけだ。


 生活が戻ってきた、そんな感じがする。


 夕方、玄関の鍵が回る音がした。


「……え?」


 藤森の、素直に驚いた声。


「……別の部屋、来ました?」


「いや」


 キッチンから顔を出す。


「予定通りだ」


 藤森はしばらく部屋を見回していた。


「……すごい」


 それからぽつりと言う。


「床、見えてます」


「前から見えてただろ」


「前より、です」


 妙に感心した顔だった。


 そのまま空いている部屋を覗く。


「……それ、高城さんの荷物ですか」


「ああ」


「……少な」


 率直すぎる。


「一人で暮らすには、これで足りてた」


「本当に、身軽ですね」


 夕食は特別なものじゃない。


 温かいシチューと、簡単なサラダとパン。


 テーブルに並べると、藤森は少し目を丸くした。


「……家、みたいですね」


「一応、今日からな」


 向かい合って座る。


「いただきます」


 藤森はそう言って、スプーンを取った。


 一口食べて、ほっと息を吐く。


「……あったかい」


 そのまま、黙々と食べ進める。


 ……早い。


 スプーンが止まらない。


 気づいたときには、

 藤森の皿はもう空に近かった。


 ちらりとこちらを見て、

 少しだけ言いづらそうに口を開く。


「……あの」


「なんだ」


「おかわり、ありますか」


 一瞬、言葉に詰まった。


「……結構、食べるんだな」


「はい」


 即答だった。


「人より、たぶん」


 悪びれる様子もなく、真顔だ。


「……分かった」


 鍋を持って立ち上がる。


「遠慮は?」


「それは、ないです」


 そう言って、

 少しだけ申し訳なさそうに笑った。


 シチューをよそう間、

 胸の奥が妙に温かくなる。


 疑似家族、

 という言葉が頭をよぎる。


 血も過去も共有していない。

 ただ、同じ部屋で、同じ時間に、

 同じものを食べているだけ。


 それなのに、

 この光景がやけに自然だった。


 一年という期限は、まだ重たいままだ。


 だが、この食卓だけは、

 確かに「始まり」だった。



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