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私と約束の99の物語  作者: 阪井秋


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調べてしまった名前


 藤森のマンションを出たあと、俺は自分のアパートへ戻った。


 築年数の経った建物で、来月には取り壊しが決まっている。

 階段を上るたびに、ここがもう「仮の住まい」になっている気がした。


 部屋に入ると、いつもと同じ景色が広がっていた。


 最低限の家具。

 余計な物はなく、散らかってもいない。

 誰かを迎え入れる前提のない、独り身の部屋。


 ベッドに腰を下ろして、天井を見上げる。


 藤森の部屋が、頭に浮かんだ。


 本や段ボールが積み上がり、

 原稿やメモが散らばっていた空間。

 生活は追いついていないのに、

 必死に何かを生み出している部屋。


 あそこには、少なくとも「今を生きている」感じがあった。


 俺は、いつから

 ああいう必死さと無縁になったんだろう。


 高校を出て、大学に進学して、

 就職活動をして、

 特に疑問も持たずに会社に入った。


 やりたい仕事があったわけじゃない。

 無難で、周囲からも止められない道だったから選んだ。


 社会人になってからも同じだ。


 大きな失敗はしない。

 だが、評価されるほどの成果もない。

 気づけば十年以上、

 可もなく不可もなく働いていた。


 夢と呼べるものはなかった。


 恋人がいたこともある。

 だが、関係を深めるために

 自分から動いた記憶は、ほとんど残っていない。


 相手に合わせ、

 波風を立てないようにして、

 そのまま終わる。


 いつも、そうだった。


 自分から何かを選んだ、

 と言い切れる場面が、驚くほど少ない。


 会社を「辞めた」のも、正確には違う。

 切られただけだ。


 このアパートを出るのも、

 自分の意思じゃない。

 壊されるから、出ていくだけ。


 独り身で、身軽なはずなのに、

 なぜか、動けない。


 ふと、藤森の名前が頭をよぎった。


 ――小説家。


 あの年齢で、

 生活できるほど稼いでいると言っていた。


 気にならないわけがない。


 俺はスマホを手に取り、

 検索欄に彼女の名前を打ち込んだ。


 すぐに、いくつもの記事が表示される。


 高校生の頃に投稿した短編小説が賞を受賞。

 それをきっかけに、

 「美人女子高生作家」として話題になったらしい。


 その後も短編を中心に作品を発表し続け、

 大学生になった今も、

 コンスタントに本を出している。


 写真付きの記事もあった。


 確かに、目を引く見た目だ。

 だが、コメント欄やレビューには、

 外見以上に作品の内容を評価する声が多い。


 ――繊細な心理描写。

 ――静かな文体。

 ――読後に余韻が残る。


 いわゆる、純文学寄りの作風らしい。


「……そりゃ、知らないわけだ」


 思わず、独り言が漏れた。


 正直に言えば、

 そういう本を手に取ったことは、ほとんどない。


 仕事帰りに読むのは、

 実用書か、気軽に読める娯楽小説くらいだ。


 彼女の世界と、

 俺の生活は、これまで交わることのないものだった。


 それなのに。


 あの夜、公園で腹を鳴らしていた姿と、

 画面の中の「売れっ子女子大生小説家」が、

 どうしても結びつかない。


 藤森の言葉を思い出す。


「期間は、一年でお願いします」


 一年。


 終わりが決まっている時間。


 それは、逃げ道のようでもあり、

 覚悟を迫られる期限でもある。


 今までの俺は、

 期限のない場所に身を置いてきた。


 辞めてもいいし、

 続けてもいい。


 何もしなくても、

 日々は勝手に過ぎていく。


 だが、今回は違う。


 一年後には、終わる。


 その先に、

 今の延長はない。


 だからこそ、

 怖さよりも、妙な現実味があった。


 部屋の隅に置いた段ボールに、

 まとめた荷物がある。


 それを見ながら、思う。


 ――俺は、いつから

 「動かないこと」を選び続けてきたんだろう。


 レールの上を歩いていれば、

 自分で決断しなくて済む。


 失敗しても、

 誰かのせいにできる。


 だが、今はもう、

 そのレール自体が途切れている。


 だったら。


 一度くらい、

 自分で選んでみてもいいんじゃないか。


 スマホを置き、目を閉じる。


 藤森結子という名前が、

 ただの検索結果ではなく、

 現実の選択肢として、胸に残っていた。


 一年。


 その言葉が、

 静かに、俺の背中を押している気がした。



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