約束の部屋
結子が家に戻ってきてから、
数日が経っていた。
同居契約の解除は決まっている。
荷物をまとめる話もした。
終わりに向かっていることは、はっきりしている。
それでも、
結子はまだここにいる。
互いに必要最低限の会話しか交わさず、
同じ家にいながら、
距離だけが残っていた。
その夜、
結子のほうから声をかけてきた。
「……少し、時間ありますか」
珍しく、はっきりとした声だった。
「ああ」
結子は、自分の部屋の前に立つ。
あの、
唯一、入ってはいけないと約束された場所。
「……今日だけは」
鍵に手をかけたまま、
結子は言った。
「入ってもいいです」
一瞬、言葉を失った。
「約束、でしたよね」
「……ああ」
それでも、
彼女はドアを開けた。
部屋の中は、
これまで見てきた家のどの場所とも違っていた。
整えられているわけでも、
散らかっているわけでもない。
本棚の奥。
段ボールの中。
机の引き出し。
そこかしこに、
時間が詰め込まれている。
古いノート。
手書きの原稿。
何度も読み返された形跡のある束。
「……姉がいました」
結子は、静かに言った。
「体が弱くて、
入退院を繰り返していて」
声に、感情は乗っていない。
事実を並べているだけだ。
「姉は、話を考えるのが好きで。
ノートに、ずっと物語を書いていました」
机の上に、
一冊のノートが置かれる。
表紙は、擦り切れている。
「……これが、全部です」
「全部?」
「九十九話」
そこで、初めて結子は俺を見る。
「姉が書いた物語です」
点と点が、
静かにつながっていく。
一年という期限。
部屋に入れなかった理由。
途中で終わることを、
何より恐れていた理由。
「姉は、
世に出る前に亡くなりました」
それだけで、
十分だった。
「だから、私が出しました」
顔を出して。
名前を出して。
「忘れられないように」
結子は、
小さく息を吐く。
「……でも、九十九話まで来て、
怖くなりました」
初めて、
感情の揺れが見えた。
「百話目を、
姉の続きを書くのか、
それとも……」
言葉が、途切れる。
「私は、
姉ほど才能があるわけじゃない」
それは、
ずっと胸の奥にしまっていた本音だ。
「だから、
ここで全部終わらせたほうがいいって、
思ってた」
同居契約の一年。
すべてが、
この期限につながっていた。
「……編集部の話も、
週刊誌のことも」
結子は、
小さく息を吐く。
「全部、
終わらせる理由に使おうとしてました」
俺は、しばらく何も言えなかった。
踏み込まないと決めていた。
聞かないと決めていた。
だが、
ここまで来て、
何も言わないのは違う気がした。
「……百話目は」
結子が、こちらを見る。
「姉の話じゃなくていい」
自分でも驚くほど、
はっきりした声だった。
「誰かの続きを書く必要はない」
結子は、目を見開く。
「お前が、
書けばいい」
それだけで、
十分だった。
結子はしばらく俯いたまま、
動かなかった。
やがて、
小さく息を吐く。
「……ずるいですね」
そう言って、
初めて、弱く笑った。
この部屋に入った瞬間から、
約束は、もう形を変えていた。
契約でも、
期限でもない。
それでも、
ここまで来た意味だけは、
確かにあった。




