家に帰らない人
きっかけは、本当に些細な一言だった。
夜中、久しぶりに顔を合わせたとき。
机の端に置かれていたノートが、少しだけ歪んでいるのが目に入った。
無意識に、手が伸びる。
「……それ、触らないでください」
結子の声は低く、はっきりしていた。
「あ、悪い。つい」
それで終わるはずだった。
だが、結子は視線を落としたまま、続ける。
「約束、ですよね」
自分の部屋には入らない。
私物には触れない。
契約で決めた、たった一つの条件。
「ああ……そうだったな」
謝ったつもりだった。
けれど、結子はそれ以上何も言わず、
そのまま自分の部屋へ戻っていった。
ドアが閉まる音が、
やけに重く響く。
翌日、短いメッセージが届いた。
『しばらく、ホテルで生活します』
それだけだった。
『仕事に集中したいので、家には戻りません』
電話をかけても、出ない。
既読もつかない。
家の中は、
急に空っぽになった。
数日後、違和感は形になる。
買い出しから戻ると、
マンションの前に見慣れない人影があった。
スマホを構え、
こちらの様子を窺う視線。
嫌な予感がして、その夜ネットを開く。
『人気女子大生作家の裏側』
『支える男の存在?』
心臓が、嫌な音を立てた。
記事の内容は、ほとんどが憶測だった。
売れっ子の若手作家。
都内のマンション。
同居する年上の男。
「……ヒモ男、か」
軽い言葉なのに、
胸に重く落ちる。
男の正体は不明。
だが、生活を彼女に依存している可能性。
それが、俺のことだと分かる人間には分かるだろう。
結子は、今どこにいる。
連絡はつかない。
家にも帰ってこない。
それなのに、
この家の周りには人がいる。
カーテンの隙間から外を見ると、
同じ人物が、同じ場所に立っている。
偶然を装っているが、
偶然ではない。
パパラッチ、という言葉が頭をよぎる。
俺は、どうすればいい。
勝手に出ていけばいいのか。
それとも、ここにいるべきなのか。
契約は、まだ終わっていない。
一年という期限も、残っている。
だが、
結子はここにいない。
俺だけが、
この家にいる。
守るとは、何だ。
支えるとは、どこまでだ。
スマホを握りしめる。
連絡先は、そこにあるのに、
繋がらない。
家の外では、
誰かがこちらを見ている。
静かな生活は、
いつの間にか、外側から壊されていた。
俺は初めて、
この場所が「二人の家」ではなく、
「彼女の場所」だったことを、
はっきりと思い知らされていた。




