プロローグ
──昼過ぎ。
昼休みが終わった廊下は、不思議なくらい静かだった。人の流れが引いたぶん、床のワックスの匂いまで鼻につく。
成田旭――俺にとって、この静けさは嵐の前触れでしかない。
壁に掲げられた《委員会室》のプレートを見上げる。
今日ここで決まるのは、ただの方針じゃない。俺たちの“明日”そのものだ。
深呼吸を一つ。扉に手を伸ばした、そのとき。
「……あ、旭。いたんだ」
振り向くと、スーツ姿の女が、軽やかな足取りで近づいてきた。
淡いベージュのジャケット。胸元の金色のバッジが、廊下の光を受けて淡く光る。
鷹宮澪。
俺の妻で――そして、この議題に限っては、俺の最大の敵。
彼女はいつもの笑顔を浮かべる。けれど、その笑みの奥だけは、仕事の色をしていた。
「今日の委員会……本気で来るんだよね?」
「当然だ。手加減する気はない」
「良かった。じゃあ私も全力でいくから」
その一言で、胸の奥がきしんだ。
……顔には出さない。出したら、負ける。
澪は、わざと軽い調子で言う。
「旭。私たち、プライベートは夫婦だけど……“ここ”では敵同士だよ?」
わかってる。
十数年前、同じ制服で、くだらないことで笑っていた相手だ。大学も、就職も、支え合ってきた。
それでも――同じ未来を見なくなった瞬間が、確かにあった。
「澪。俺は俺の信念でいく」
「うん。そうでなくっちゃねぇ〜」
互いに一瞬だけ笑う。
その短い笑顔が、高校時代と何ひとつ変わっていないのが、逆に痛い。
扉の向こうでは、もう議論が始まりかけている。
そして今日、俺は妻と真正面からぶつかる。
恋も、家族も、仕事も――同じ道を歩いてきた相手。
それでも立つ場所が違えば、見える未来は変わる。
俺は扉を押し開けた。




