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妹ばかり褒められる伯爵令嬢でしたが、絵を描いたら公爵に見出されました

 ヴァルトリア王国の社交界において、フェルミエラ伯爵家の令嬢といえば、誰もがエリスのことを思い浮かべるだろう。長女のマイエラではなく、次女のエリスのことを。


 舞踏会の煌めく灯りは、妹の黄金の髪を一層輝かせ、私の存在をより深い影へと沈めていく。


「お姉様、踊らないのですか?」


 エリスが扇子を揺らしながら近づいてくる。彼女の周りには常に求婚者たちが群がっている。花に集まる蝶のようだ。


「少し疲れたから休んでいるわ」


「そうですか、無理しないでくださいね」


 妹は無邪気に微笑んで、待ち構える若い騎士の元へと戻っていった。悪意など微塵もない。ただ、彼女にとって世界はあまりにも優しく、私にとってはあまりにも厳しいというだけのことだった。


 父上も母上も、口を開けば「エリスを見習いなさい」と言う。もっと社交的に、もっと明るく、もっと愛らしく。けれど鏡に映る私の瞳は灰青色で、エリスの空色の瞳のような輝きはない。私の髪は夜のように暗く、彼女の陽光のような金髪とは対照的だった。


 舞踏会の喧騒から逃れるように、私は庭園へと足を向けた。月光に照らされた噴水のほとりで、ようやく息をつく。ここでなら、誰にも比較されることはない。ここでなら、私は私でいられる。


 懐から小さな手帳を取り出し、炭筆で噴水の情景を描き始めた。月光が水面に砕ける様子、夜風に揺れる薔薇の影、静寂に包まれた石畳。これが私の世界だった。言葉にできない想いを、線と陰影に託して。


「素晴らしい画力ですね」


 突然の声に、私は手帳を胸に抱きしめた。振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。漆黒の髪に深緑の瞳。デュラン公爵家の紋章を身につけている。


「ああ失礼。リオネル・デュランと申します。失礼ですが、その絵を拝見してもよろしいでしょうか」


 私は戸惑いながらも、恐る恐る手帳を差し出す。


 公爵は月明かりの下で、私の拙い素描を丁寧に見つめた。その表情は真剣そのもので、社交辞令の欠片もなかった。


「光と影の対比が見事です。特にこの水面の表現……。まるで音が聞こえてくる」


「そんな……ただの落書きです……」


「いいえ」彼は首を横に振った。「あなたは絵を通じて、言葉では表せない真実を語っている」


 私は困惑した。今まで誰も、私の絵になど興味を示したことはなかった。


「実は近々、画廊を開く予定でして。もしよろしければ、あなたの作品を展示させていただけませんか」


「私の? でも、私は正式に絵を学んだこともありませんし」


「指導を受けているかどうかは関係ありません。あなたが持つ独特の視点と感性は閉じ込めておくには勿体無い」


 彼の言葉に、私の心は激しく揺れた。認められたい、という願望と、失敗への恐れが胸の中でせめぎ合う。


「少し、考えさせてください」


「ええ、引き受けてくださるならぜひ、私の屋敷にきてください」




 それから数日後、私は密かにデュラン公爵の屋敷を訪れた。彼の書斎には、各地から集められた美術品が並んでいた。その中に、私の絵を飾るというのだ。


「この部屋で制作していただいて構いません」


 用意された画材を前に、私は震える手で筆を取った。最初は恐る恐るだったが、次第に没頭していった。窓から差し込む午後の光、埃が舞う空気の粒子、古い書物の匂い。すべてが私の感覚を刺激し、キャンバスの上で新たな世界を紡ぎ出していく。


 画廊の開廊日が近づくにつれ、私は不安に押しつぶされそうになった。もし誰も私の絵を見てくれなかったら。もし笑われたら。


 開廊当日の朝、私は震える手で黒いドレスの襟を整えた。地味で目立たない、いつもの私。けれど今日だけは、この地味さが守護になるような気がした。


 デュラン公爵の画廊は、王都でも指折りの格式を誇る建物だった。大理石の床に響く靴音、シャンデリアの煌めき、そして壁一面に並ぶ芸術作品たち。その中に、私の絵も混じっている。


 会場には既に多くの賓客が集まっていた。皆、華やかな衣装に身を包み、社交的な微笑みを浮かべている。私はその光景を見て、一瞬引き返したくなった。


「マイエラ様」


 リオネル公爵が私を見つけて歩み寄ってきた。


「来ていただけて嬉しく思います」


「でも、私……」


「大丈夫です。あなたの作品が、すべてを語ってくれますから」


 彼は私を会場の片隅へと導いた。そこには署名のない一枚の絵が飾られていた――私の『月光の庭』だ。あの夜、初めて公爵と出会った噴水と薔薇の影、静寂そのものが画布に閉じ込められていた。


 人々は華やかな作品に目を奪われながら通り過ぎていくが、時折立ち止まる者もいた。


「この絵、なんだか心が落ち着くわね」


「影の描き方が独特だな」


 誰も作者の名を問わない。ただ、絵そのものと向き合っている。

 次第に、絵の前に人が集まり始めた。皆、言葉少なに、ただじっと見つめている。まるで絵が発する静寂に、心を委ねているかのように。



 その時、会場の入り口から華やかな笑い声が響いた。振り返ると、そこにはエリスがいた。陽光のような金色のドレスをまとい、まるで光の精のように輝いている。


 瞬く間に人々の視線が彼女に集まった。


「エリス嬢、今日もお美しい」


「舞踏会でのお姿も素晴らしかった」


 私は反射的に柱の陰に身を隠した。心臓が早鐘のように打っている。

 エリスは社交辞令を交わしながら会場を巡り、『月光の庭』の前で立ち止まった。


「まぁ、綺麗……」


 彼女は目を輝かせて絵に見入った。


「こんなに静かで、それでいて深い絵。誰が描いたのかしら?」


 その無邪気な問いかけに、私の胸は締めつけられた。妹に知られたくない。比較されたくない。また、影に押し込められたくない。


 けれどリオネル公爵が静かに、しかし確かな声で答えた。


「フェルミエラ伯爵家の長女、マイエラ嬢の作品です」


 会場がざわめいた。


「お姉様が?」


「ええ」


 リオネル公爵が頷くと、エリスは感嘆の息をもらした。


「お姉様、こんなに綺麗な世界を見ていたのね……」


 ポツリと彼女の口から漏れたその一言が私の凍りついた心を、春の陽だまりのように溶かしていった。



 展示会の終盤、人々が三々五々帰り始めた頃、リオネル公爵が私に声をかけた。


「今日は大成功でした。マイエラ様の絵のおかげです」


「そんなこと……」


「謙遜なさらないでください」


「え、えっとじゃあ、はい。私のおかげです。えっへん」


 辿々しく胸を張ると、リオネル公爵は右手を口元にやって吹き出すように笑った。目元に皺が寄ってくしゃくしゃになる。


「な、なんで笑うんですか」


「いえ、その……可愛らしいなと思って」


 私は頬が熱くなるのを感じて、慌てて顔を背けた。こんな風に言われたのは初めてだった。エリスならきっと、優雅に微笑んで切り返すのだろうけれど。


「か、可愛らしいだなんて……私はもう二十歳を過ぎていますし」


「年齢は関係ありませんよ。素直になろうとして、でも慣れていなくて……そういう姿が」


 リオネル公爵は優しく微笑んだ。

 彼の瞳が途端に見れなくなり戸惑った表紙に、手にしていた扇子を落としてしまう。拾おうとすると、リオネル公爵が先に拾い上げてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 扇子を受け取り、私は俯いた。


「あの……リオネル様」


「はい?」


「私を見つけてくださって、ありがとうございます」


 ようやく絞り出した言葉だった。


「あの夜、庭園で声をかけてくださらなかったら、私はずっと影の中にいたかもしれません」


 彼は優しく微笑んだ。


「いいえ、いずれ誰かが気づいたはずです。あなたの才能は、隠しきれないほど輝いていますから」


 私は窓の外を見つめながら微笑んだ。月が昇り始め、画廊の中にも柔らかな光が差し込んでいる。


「第一、あなたは影ではない。月光です。太陽とは違う、静かで深い輝きを持つ光です」


 月が高く昇り、会場の灯が一つずつ落とされていく。噴水の水音が静かに響く中、私は目を閉じて深呼吸をした。


 もう、誰かと比べる必要はない。私は私として、ここに存在している。影でも光でもなく、マイエラという一人の人間として。




 その夜、屋敷の自室に戻った私は、新しいスケッチ帳を開いた。真っ白なページが月光に照らされて、淡く輝いている。


 筆を取り、ゆっくりと線を引き始める。それは今日の光景だった。エリスと並んで立つ私。妹は太陽のように輝き、私は月のように静かに佇んでいる。けれど、どちらも同じ空の下で、それぞれの光を放っている。


 筆が止まる。今までは誰かに認められたくて、必死で描いていた。けれど、これからは違う。


「今度は、『誰かに見せるため』じゃなく、『私のため』に」


 窓の外、月光が優しく机を照らしていた。その光は、かつて私が影だと思っていた場所にも、等しく降り注いでいる。


 新しいページをめくる。そこに描きたいのは、もう影でも光でもない。ただ、ありのままの世界。ありのままの私。


 春の夜風が窓から入り込み、カーテンを揺らした。まるで、新しい季節の始まりを告げるように。


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