壊れた鏡
朝、レイは鏡に映るその顔を見て、静かに息をのんでいた。
そこに映るのは、完璧な美しさを持つ、理想の顔そのものであったのだから。
肌は透き通り、瞳は宝石のように輝き、微笑めば誰もが見惚れるほどに整っていた。
それはもとの世界にいた頃よりも、はるかに美しく、この世の物とは思えないほどの輝きを放っていた。
「……やっと、ここまでこれたんだ」
胸の奥から、歓喜にも似た震えが広がる。
しかし次の瞬間、視界の端がゆらりと揺れた。
「あれっ……?」
鏡の中の顔が、微かに歪んでいるかのように見えていた。
まるで、光が乱反射するかのように。
何度瞬きをしても、その歪みは消えることがなかった。
鏡の奥で、誰かが微笑んでいるような錯覚。
疲れているだけだと言い聞かせ、レイは魔法学校へ向かう支度を進めていた。
学内の廊下を歩くと、誰もがレイのことを振り返ってはひそひそと話をはじめていく。
「ねぇ、あの人……誰?」
「新入生?すごく綺麗……」
レイは微笑みながら、胸の奥で高鳴る心臓を押さえていた。
しかし教室に入った途端、その空気は一変する。
「レイ?」
最初に声を上げたのは、リオであった。
驚き、そして困惑を隠せないその表情。
「何だよ、その顔……。……本当に、レイなのか?」
リオの声は、ひどく震えていた。
「どうして、そんなに……」
「リオ。俺は、やっと理想になれたんだ」
そう浮かべたレイの笑みは、どこか虚ろなものでもあったのだ。
頬が引きつり、笑顔の形だけが不自然に残っている。
リオは一歩近づくものの、レイは思わず身を引いた。
「触らないで」
「……どうして……」
「違うんだ……。魔法が、崩れてしまうから」
その言葉に、リオの心は凍りつく。
その後、校舎裏で佇むレイのもとをシュリが訪ねていた。
シュリはレイを見つけるなり、その光景に目を疑う。
まるで魔法研究員の一室であるかのように、地には紙が散乱していた。そこにはいくつもの魔法陣が描かれ、どれも焦げ跡を残している。その光の痕が、まだ微かに漂っていた。
「これは、いけない」
シュリはそう、呟いた。
「魔力の流れが乱れているよ。レイ君、このままでは君の身体は保てなくなってしまう」
包み込むように、そっとレイの肩に触れていた。
「……でも、綺麗なんです。今の僕は、きっと誰にも負けないくらいに……」
「勝ち負けのために、君はその尊い命を削るのかい?」
「俺の命なんて……最初から、大した価値もない」
「レイ、」
シュリの声が、鋭く響く。
「君は、生きているだけでその価値があるんだよ。」
レイはふっと諦めたような笑みを浮かべた。
「そんな言葉、整った顔で言わないでください……」
その冷ややかな言葉に、シュリの心がきしんでいく。
彼自身、かつて美しさの檻に囚われていた時に同じようなことを思っていたからだ。
しかしシュリの言葉は、今のレイには届かない。
「私も同じだよ。美しくなければ、愛されないと信じていた……」
「違うんです。俺は、美しくなれば……愛せるような気がするんです」
「誰を?」
「俺自身を」
その言葉があまりにも痛く感じられ、シュリは何も言うことができずにいた。
しかし、あることを信じてこう伝える。
「……だったら、私が君の鏡となろう」
レイが、顔を上げる。
「君が自分を見失うときは、いつでも私が見ていると思えばいい。君が綺麗だと思えなくなっても、私だけは美しいと信じる。それで少しでも君が生きやすくなるなら、それでいい」
その言葉は、優しくも狂おしい。
まるで、祈りのような愛でもあった。
思わずレイは、その場で泣き崩れてしまう。
***
しかし次の日、またしてもレイは魔法陣を描いていた。
手は震え、指先の皮膚が裂けて血が滲む。もはや魔法に操られているかのように、流れるように杖を振っていた。
「もう少し……。もう少しで、完成するはずなんだ……」
魔力が奔流のように流れ、眩いまでの光が辺り一面に広がった。
だが次の瞬間、轟音とともに、魔法陣が爆発してしまう。光が弾け、レイのその身はあっという間に吹き飛ばされる。
壁に叩きつけられた強い衝撃で、やがてその意識は途切れていく。
次に気づいたとき、レイの目の前に広がるのは白い天井だけであった。
魔法学園の医療棟で、静かに横になっていたのだ。
ベッドの隣には、リオの姿が。
心配そうに覗き込む彼の目は、ひどく赤く腫れていた。
「……レイ、わかるか?見えるか?」
レイは唇を動かしたが、声にはならなかった。
頬を伝う涙が、枕を静かに濡らしていく。
リオは、そっとレイの手を握っていた。
「もう、無理はするな。……お前がいなくなったら、どうすればいいんだ……」
レイは首を振ろうとしたものの、身動きをとることさえもできなかった。
身体がひどく重く、魔力の流れが滞っている。
鏡のように透き通った肌は、今や不気味なほど白く、氷のように冷たかった。
「魔法医が言ってた。魔法が、肉体に固定されかけてるみたいなんだ。もう、元に戻せないかもしれないって……」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
戻れないとは、どのような意味であるのだろうか。
しかしあたたかなリオの手の温もりだけが、これが現実であることをレイに告げていた。
「俺は、前の顔のままでも、今の顔でも、どっちでもいい。……レイが生きててくれさえいれば、それでいいんだ……」
その言葉に、レイは嗚咽を漏らしていく。
***
朝陽が昇る頃、部屋の扉がそっと開いた。
そこには、シュリが立っていた。
「……様子を見に来たよ」
リオとシュリの視線がぶつかり、一瞬、空気が張り詰める。
「……あんたのせいだ」
リオの声は、ひどく低いものでもあった。
「あんたが美しいなんて言うから、レイは……止まれなくなったんだ」
シュリは何も言わず、ただ視線を落としてこう告げた。
「私が言ったのは……。どんな君でも美しい、という意味だった」
「その曖昧さが、レイを追い詰めたんだ」
「……わかっている。レイ君、君には本当にすまないことをした」
シュリの声もまた、ひどく震えていた。
「だから、これ以上君を壊さないように、私は君の魔力を安定させることにした。わかってくれるかい?レイ君」
レイを取り巻く二人の想いは、確かに同じはずであった。
ただ、愛し方が違っていたのだ。
***
その後、漂う意識の中でレイはとある夢を見た。
鏡の中の自らが、こちらに向けて微笑みかけている夢を。
けれど、その唇がはっきりと動く。
「きみは、だれ?」
レイは答えることができなかった。
鏡の中の男は、冷たく笑う。
「俺を作ったのは、君だろう?だったら俺が、本当のレイだよ」
「違う!俺は……」
「君は、もう俺の中に閉じ込められたんだ」
「ちがう!!」
その瞬間、鏡は粉々に砕け散る。
レイは、叫び声を上げて目を覚ます。
シュリとリオが同時に駆け寄り、レイの顔を覗き込む。
「大丈夫か!」
「レイ君、落ち着いて……」
レイの手は、強く震えていた。
二人の顔を交互に見て、思わず涙があふれ出す。
「もう、わからない……。どっちが、本当の俺なのか……」
リオが抱きしめようとするものの、レイはそれを強く拒む。
「やめてくれ……。壊れそうなんだ……」
部屋の光が、激しく明滅をはじめていく。
それはレイの魔力が、暴走し始めた証でもあったのだ。
とっさにリオがその腕を掴み、シュリが魔法陣を展開する。
レイのその身から放たれた光は、まるで砕けた鏡の欠片であるかのように鋭さを含んでいた。
その中で、三人の想いが交錯する。
美しさとは、何か。愛とは、何か。
壊れゆく光の中で、それぞれの答えが揺らめいていた。




