リオ
夜の帳が、ゆっくりと街を包み込む。
魔法学校の窓から見える灯りが、宵闇の中でまるで星のように瞬いていた。
その夜、レイは早めに教室に到着していた。
まだ誰もいない教室で、机の上に開いたノートの上をただぼんやりと眺めていたのだ。
ふと、扉の開く音がする。
振り向くと、そこにはリオが立っていた。
「おっ、やっぱり早いな!」
その声は、いつも少しだけ陽だまりの匂いがするかのようにレイは感じていた。
「うん。なんか、落ち着かなくて……」
「ははっ、わかる。俺もそう」
リオが笑いながら、隣にどさりと腰を下ろす。心なしか、その距離はいつもよりも近いように思えていた。
レイは無意識のうちに、息をのむ。
リオの髪から、汗と墨の匂いが混ざったような、かすかな生活の匂いがしたからだ。
それが妙に、速まる心を落ち着けていく。
「レイ。手、貸してみな」
「えっ?」
リオは、杖を持ったままにレイの手を優しく取る。
「魔力の流れ、感じてみようぜ?ほら、手のひら同士で繋ぐとわかりやすいんだ」
「わかった……」
手のひらが重なった瞬間に、体の奥で何かが弾けた。
脈が跳ね、手のひらの温度が混ざり合う。
「なんか、変なかんじだな」
「だろ? でも、悪くない」
リオが笑う。
その笑みに釣られて、レイも少しだけ口角を上げていた。
しばらく手を合わせていると、ふたりの掌の間で小さな光がゆらりと生まれる。
淡い琥珀の火。それは、レイの色でもあったのだ。
「綺麗だな……」
ぽつりと、リオが呟いた。
その声の響きは、なぜだかレイの胸をくすぐった。
夜の魔法学校は、昼とは異なる姿を見せていた。
昼間は活気に満ちている石畳の中庭も、夜になると青い魔法灯に照らされ、まるで水底のような静けさをまとう。
夜風がアーチをすり抜けて、紙のめくれる音だけが静かに響く。
夜間課程の生徒は少なく、そのほとんどが社会人や家庭を持つ者、もしくは昼に働いて夜に学ぶ者たちでもあったのだ。
そのような中に、レイとリオの姿はあった。
レイは最前列に座り、小さなノートにびっしりと文字を書き込んでいる。
魔力量が少ない彼にとって、学ぶことは才能ではなくもはや執念に近くもあった。
ひとつの呪文を覚えるために、同じ詠唱を何回も唱える。詠唱の節をわずかに変えるたび、声がかすれる。
「……ルーメ!」
小さな光球が指先に生まれ、そしてすぐに消えていく。
それでもレイは、満足気に笑っていた。
「うん。少しは、長く持ったかな?」
背後からその様子を見守っていたリオは、苦笑しながら近づいた。
「頑張りすぎじゃないのか?もう少し、息を抜いたほうがいいぞ」
「抜いたら、灯りが消えちゃうから」
「そうじゃない」
リオはそう言って、指先でレイの額を軽くつつく。
「このあたり、疲れてる」
「……そんなの、どうやってわかるの?」
「レイの魔力は、顔に出る。ほら、眉の間に青い光が少し滞ってる」
レイは思わず頬を押さえ、顔を赤らめる。
「よくそういうこと、平気で言えるな」
「そうか?俺は、本当のことしか言わないけど」
「……なんか、ずるい……」
リオはふっと笑みを浮かべ、魔法灯の光を少し強めた。
机の上の紙が淡く光を反射し、レイの指先が柔らかい影を落とす。
リオは昼間は魔導具店で働き、夜にこの場で学んでいた。
彼の魔力量はレイより多いが、レイのような集中力はなかった。だからこそ、レイの努力が愛おしかった。
折れそうなほど細い芯で、それでも光を灯し続けるような彼を。
「おっと、小さくなってきた……」
リオは、光の弱まった灯を指先でそっと灯し直していく。
その光がレイの頬を照らし、二人の影が重なり合う。
夜風が窓を揺らし、どこか遠くで鐘が鳴っていた。
「もう、こんな時間だ。……帰らなきゃ」
「うん……」
荷物をまとめ、廊下を歩く。
校舎はひどく静まり返っており、魔法灯の青白い光が床に帯を描いていた。
リオが先に歩みを進め、その少し後ろをレイがついて歩いていく。
「今日も、頑張ったな」
「リオも……」
「レイのほうが、もっと頑張った」
そうリオが言えば、レイは少し笑ってゆっくりと星空を見上げていく。
「レイが頑張ってること、俺が一番よく知ってるから……」
その言葉が、夜風の中に溶けていく。
レイは顔を赤らめ、何も言えなくなった。
けれど、心のどこかで確信していた。
――この夜は、きっと忘れられない。
リオと過ごす夜の教室。
小さな灯りのもとで、少しずつ近づいていくその指先。
魔法が上手くいかない日も、その沈黙の時間でさえもが心地よくあったのだ。
それはまだ恋と呼ぶには淡く、けれど誰よりも優しい約束のようでもあり。
レイの心にあたたかく広がった。
***
ある日の授業後、ふたりはいつものように並んで歩く。
薄明りのなか、雨の匂いが漂っていた。
石畳が少し濡れて、街灯がぼんやりとした灯りをともしていた。
「なぁ、レイ。もし時間があったらさ、俺んちに寄ってかないか?」
「えっ……」
リオは、照れたような笑みを浮かべてこう続けた。
「別に変な意味じゃなくてさ。うち、今日母さん仕事でいないし、飯多めに作ったから。よかったら、レイにも食べてほしいなって……」
レイは少し迷った後に、静かにこくりと頷いた。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
リオの家は、裏通りにあるこじんまりとした古いアパートの一室であった。
木造の階段を上ると、二階の部屋の前でリオが鍵を回していく。
「狭いけど……。まぁ、落ち着く場所だと思う」
扉を開ければ、ほんのりとしたスープの香りが辺りを漂う。
部屋の中には、古びた本棚や手作りのランプ。机の上には積み上げられた紙とインク壺があった。どれも使い込まれた跡があり、どこか温かいものであるかのように感じられた。
「これ、俺が作ったんだ」
そうリオが指差したのは、いくつもの木片を組み合わせたランプシェード。
中の光がほのかに揺れて、その影が壁に柔らかく広がっていく。
「すごい……!リオって、器用なんだな」
「いや、最初は失敗ばっかりでさ。火が暴発して、机焦がしたりして……最近やっとできるようになったんだ」
そう笑うリオの笑顔が、灯の光で柔らかく照らされていた。
食卓には、シチューとわずかに焦げたパンがならんだ。
レイはスプーンを口に運びながら、じんわりと胸が満たされていくのを感じていた。
「うまい?」
「うん、すごくおいしい!」
「よかった」
ふと、レイはテーブルの端に置かれた紙束に気づく。
「これ、何?」
「あー、詩みたいなもんだな。……魔法詠唱を、自作しててさ」
「詠唱を……自分で?」
「ああ。誰かの言葉より、自分の言葉の方が俺はやりやすくて。火がよく灯るんだ」
リオは、恥ずかしそうに笑っていた。
「……今度、レイも読んでみたらどうだ?」
「えっ、俺はそんなの……」
「いいから。俺、レイの声で聞きたい」
その言葉があまりにも真っ直ぐで、レイは思わずうつむいた。
頬が、燃えるように熱い。声を出したら震えてしまいそうでもあったのだ。
外では、雨が静かに降り始めていた。
言葉のない時間が流れるものの、二人はゆっくりとその時間を楽しんでいた。
ふと時計に目を向けると、いつもの起床時間であることに気付く。
「もうこんな時間だ。俺、帰らないと」
立ち上がったレイを、リオは玄関まで見送ることにする。
「傘、持ってくか?」
「走って帰るから、大丈夫だよ」
レイが一歩踏み出そうとした時、リオがぽつりと呟いた。
「……また、来いよ。飯でも、勉強でもいい。レイがいると、部屋があったかくなるような気がするからさ」
「うん、また来るよ。ありがとう」
レイは控え目な笑みを浮かべて、手を振った。
少し歩いて、来た道を振り返る。
「気をつけて帰れよ?」
ランプの光の中で立つリオの姿が、なぜだか滲んで見えた。
大きく手を振り返して、レイは走った。
雨の匂いと、胸の奥の熱が混ざり合う。
屋根裏部屋に辿りつき、レイは仮眠を取るべく布団にもぐる。
夢の中で、レイはリオと食事をしながら笑い合っていた。その周りで、琥珀色のあたたかな光が揺らめいていた。




