番外編 イオとワカの話
夜間魔法学校の門をくぐれば、空はすでに深い群青に染まり、街の灯が遠く霞んでいた。
魔法の灯具が点々と浮かぶ校庭は、まるで星を閉じ込めたように明滅していた。
イオは吐く息を白くしながら、同じ方向を歩く影に目をやった。
「ワカ、寒くないのか?」
「これくらい平気だよ。それに……冬の風のほうが、目が覚める」
ワカは、いつも通り穏やかな口調で言う。
その横顔は、魔法灯に照らされて淡く光っていた。
イオは無意識にその顔を見つめ、慌てて目を逸らしてしまう。
二人は、幼馴染でもあった。
街で並んで商売を営む家同士に生まれ、幼いころはよく市場の片隅で一緒に手伝いをしていた。
そのような雑多な日常の中で、魔法は限りなく縁遠いものでもあったのだ。
だが時代は変わり、どの商家も魔法を使える人材を求めるようになっていた。
魔法で商品の管理をしたり、倉庫を冷却したり、火を使わずに灯をともしたり。魔法が使えないような者は「時代遅れ」だと嘲られるようなこともしばしば。
だからこそ、イオとワカは夜間魔法学校に通うことを決めていた。
昼は店を手伝い、夜は学ぶ。
体力はすり減り、寝る時間もほとんどなかった。
それでも、彼等には互いがいた。
教室に入ると、夜の空気がわずかに緩む。
魔法灯のやわらかな光の中、同じように年齢も経歴もばらばらな生徒たちが熱心に机に向かっていた。
教壇の前で、教師が淡々と説明を続ける。
「今日は、魔力の流動制御について学ぶ。体内の魔力を外部に出すには、イメージの安定が第一だ」
ワカが小さく頷き、ノートを取る。
イオはペンを握りながら、どこか上の空の様子であった。
――俺は、どうしても途中でイメージが途切れるんだよな。
そのようなとき、視界の端で誰かがうまくいかず苦戦している姿が見えていた。
レイであった。彼はひときわ魔力の低い生徒で、何度試しても魔法陣が淡く光るだけで終わってしまう。
教師がわずかに、眉をひそめる。
「レイ、そこはもっと呼吸を整えて。焦ると魔力が乱れる」
「……はい」
レイの小さな声に、ワカもそっと視線を向けた。
その横で、イオは胸の奥に妙なざらつきを覚えていた。
――自分より下がいると、少し安心する。
しかしそのような考えに、イオは唇を噛んでしまう。
授業後、ワカはいつものようにこう言った。
「イオ、僕たちも上を目指さないと」
イオは、苦笑をして頭をかく。
「お前はほんと、真面目だな」
「だって、努力しなきゃ追いつけないから。魔力が少ないなら、制御と練習量で補うしかないんだ」
ワカのその真っ直ぐな目に、イオは少しだけ息を詰めた。
「……ああ、そうだな。俺も頑張るよ」
そのときワカが柔らかく微笑んだ。
月の光が差し込んで、白い頬が微かに輝く。
その笑顔を見ただけで、イオの胸はざわつき、何かがゆっくりと変わっていくのを感じていた。
しかし夜間魔法学校の日々は、過酷なものでもあった。
講義が終わるのはいつも朝。
家に帰れば商家の仕事の手伝い、帳簿の整理。食事を終えれば、もう空が白み始めていることもしばしばだ。
それでも、ワカは不思議と楽しそうに通っていた。
「大変だけど、悪くないね。昼の商売よりも、新しいことを覚えられる」
「お前、ほんとに真面目すぎるよな」
「そうかな。……イオと一緒に勉強できるの、嬉しいんだ」
その一言に、イオの鼓動がびくりと跳ねる。
「な、なんだよ急に……」
「ふふ、なんでもない」
ワカが笑う。
その声が、夜風の音に溶けていく。
イオはその笑顔を、焼き付けるように見つめていた。
***
レイは、そのような二人の姿をいつも少し離れた席から眺めていた。
彼は誰よりも努力家で、授業が終わっても遅くまで残って練習をしていた。
それを見て、ワカが感心したように言う。
「レイって、ほんとにすごいよね。あんなに魔力が少ないのに、誰よりも粘り強い」
「……まあ、そうだな」
「イオも、負けてられないね」
イオは苦笑いを浮かべつつも、心の奥に小さな刺のような痛みを感じていた。
授業が終わると、ワカはよく教室に残って他の生徒の質問に答えていた。
その姿を、イオは遠くから見つめる。
「ワカは、誰にでも優しいんだな」
「当たり前だよ。困ってる人を放っておけない性分なんだ」
ワカのそのようなところを、イオは好ましく思っていた。
けれどそれが、時に胸を締めつけた。
ある夜、イオが廊下を歩いていると、窓際でワカがレイと話をしている姿が目に入る。
優しい笑みを浮かべ、参考書を開いて何かを教えていた。
それは、イオが見たことのない穏やかな表情でもあったのだ。
その瞬間、イオの中で何かが軋む音を立てた。
***
次第にイオは、集中力を失い始めてしまう。
授業でワカの声が遠く聞こえ、家に帰っても帳簿の数字が頭に入らない。
「イオ、最近どうしたの?なんだか元気ない」
「別に……。ちょっと、寝不足なだけ」
そう答えて、目を逸らす。
けれど本当は、自らでもわかっていた。
それはワカの笑顔を独り占めしたいという、幼稚でどうしようもない嫉妬であった。
翌日、ワカがレイの話を楽しそうにする。
「昨日、レイの店で参考書を買ったんだ。相談にものってもらえてね。イオも行ってみるといいよ」
イオはその言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。
「……そうか」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
言葉はそれ以上出なかった。
心の奥に、黒い靄が広がっていく。
ワカが笑って話すほど、イオはますます黙り込んでしまう。
やがて、イオの中にひとつの確信が生まれはじめる。
――俺、ワカのことが好きなんだ。
幼馴染として過ごした年月が、いつの間にか違う意味を帯びていた。
隣を歩くだけで鼓動が高鳴り、目が合うだけで、息が苦しくなる。
けれど、言えるはずがなかった。
彼は優しい。だからきっと、困らせてしまうのではないのかと。
それに、この関係が壊れるのが怖かった。
夜の風が、校舎の外を吹き抜ける。
遠くで鐘が鳴り、授業の終わりを告げていた。
ワカが本を閉じ、ふと笑う。
「ねえ、イオ。僕たち、ここに来てよかったね」
「……ああ」
「きっと、魔法じゃない何かも学んでるような気がするんだ」
「何かって?」
「うーん。人の気持ち、……かな」
その言葉に、イオの胸が熱くなる。
――俺の気持ちなんて、知らないくせに。
月が高く昇り、教室の窓を淡く照らしていた。
ある日、夜間魔法学校に、新しい生徒が編入してくるという噂が流れていた。
その名は、シュリ。
教室の扉を開けて現れた彼は、ひと目で周囲の空気を変えるほどの存在感を放っていた。
美しい容姿もさることながら、年齢はイオたちよりわずかに上で、その眼差しはどこか遠くのものを見つめていた。
「どうぞ、よろしく」
その声には、どこか研ぎ澄まされた静けさがあった。
教師さえも、緊張たような面持ちで頷いていた。
授業が始まると、彼の天才ぶりはすぐに明らかになっていく。
難解な魔法理論を即座に理解し、誰も答えられない応用問題を一瞬で解いてみせる。
魔力の流れを言葉で可視化するような説明に、クラスは圧倒されていたのだ。
「すごいな……」
思わず漏らしたイオの声に、隣でワカが頷いた。
だが、その頷きの奥にはわずかな焦燥が滲んでいた。
――努力しても、届かない壁。
ワカはいつでも、どのような相手にも誠実でいた。
だがシュリを前にすると、どうしても胸の奥がざわついた。
――シュリさんは、努力を越えた場所で生きているんだ。
その思いが、いっそうワカを不安にさせた。
夜の自習室でも、いつもより早く筆を走らせ、手のひらに汗をにじませていた。
イオはそのようなワカの様子に気づき、軽く肩を叩いてみせた。
「……なあ、無理すんなよ」
「無理なんか、してない」
「本当か?字が震えてるぞ」
ワカは手を止めて、息を吐いた。
「ごめん……でも、怖いんだ。置いていかれるのが」
イオは一瞬、何も言うことができずにいた。
ワカのまっすぐな目が、痛いほどに胸に刺さる。
そのとき、扉が開いた。
シュリが静かに入ってくる。
「おや、まだ残っていたのかい?」
その声は柔らかく、だがどこか人を見透かすようでもあったのだ。
ワカが慌てて、立ち上がる。
「すみません、勉強してまして……」
「努力は素晴らしいことだ。でも、時には休むことも必要だよ」
そう言って、シュリは魔法灯の火を軽く揺らした。
光がふわりと柔らかく広がり、教室の空気が一瞬で変わる。
その手際、その余裕。
イオの胸には、言葉にならない苛立ちが生まれていく。
――あんたにだけは、言われたくない。
ワカは、その光に見とれていた。
その表情を見て、イオはそっと視線を落とす。
三人の間に、かすかなずれが生まれていた。
それは言葉などではなく、沈黙の中で確かに存在するものでもあったのだ。
それから数週間後。
レイの姿が変わっていく。
いつも伏せがちだった目がどこか鋭くなり、まるで別人のように周囲を見渡すようになっていた。
「イオ、気づいた?」
「何か、……あったのかもな」
「綺麗だと思うけど、ちょっとね……」
近頃のレイの周囲には、シュリの姿があったのだ。
彼が何を教えているのかは、誰も知らない。
だがレイの表情には、どこか危うい自信が宿っていた。
「ねえ、イオ」
「うん?」
「……もし、僕たちもああやって変われたら……。何かが違ってたのかな?」
イオはしばらく黙ってから、こう言った。
「お前は、変わらなくていいと思う」
「え?」
「今のままでも、ワカは十分綺麗だから」
なぜそのような言葉が出たのかが、イオ自身にもわからなかった。
ワカは目を見開き、やがてその頬は一瞬で赤く染まる。
「イオ……。それって、口説いてる?」
「別に、口説いてねぇよ」
「そう?でも、そういう言い方は……ずるいと思うよ……」
その言葉に、イオは何も言えなくなってしまう。
「僕、イオのこと好きだから……」
ワカは静かに、イオの大きな手に自らの小さな手を重ねていた。
イオもまた、ワカの目を見つめ柔らかな笑みを浮かべていた。
「俺も、好きだ。ワカのこと」
恋と友情の境界が、ゆるやかに溶けていく。
二人は静かに抱きしめ合い、そして触れるだけの口づけを交わしていた。
***
季節は巡り、学院の夜空に春星が瞬く頃。
卒業試験の結果が発表されていた。
掲示板の前には生徒たちが集まり、大きなざわめきが渦を巻く。
イオは自らの名を探し出し、見つけた瞬間、息をのむ。
――ぎりぎり、あった!
「イオ!」
その声に振り返れば、ワカが笑っていた。
その笑顔は、春の光のようにあたたかなものでもあったのだ。
「受かったね」
「ああ。お前も、上位合格か。さすがだな」
「イオのおかげだよ」
「いや、それはない」
「あるよ」
二人の間に、あの夜の沈黙がよぎる。
けれど今は、それが不思議と温かい。
校門を出ると、東の空がわずかに白み始めていた。
灯りが一つずつ消え、鳥が遠くで囀りはじめる。
夜明けが、ゆっくりと街を照らしていく。
「なあ、ワカ」
「うん?」
「……俺たち、これからどうする?」
「どうって?」
「魔法を仕事にして、生きていけると思うか?」
「きっと、できるよ。イオとなら」
その言葉に、イオは息を呑んでいた。
この胸の奥が、温かく膨らんでいくようでもあったのだ。
「じゃあ、さ……」
「うん?」
「約束しよう。この先どんな困難があっても、また一緒に笑えるように」
ワカは少しだけ黙り、それから照れくさそうに笑っていた。
「なにそれ、……プロポーズみたいだね」
「そうだな。そう、受け取ってくれてもいいかもな」
二人は静かに手を繋ぎ、新たな一歩を踏み出した。
夜の学び舎で始まったその物語は、夜明けとともに、輝かしい未来へと続いていくのであった。
END




