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火を聴く器  作者: katari
9/24

9 火と風との脈動にて

羽根郷はねごうの朝は、風とともに始まる。

火嶺山ひみねさんを北に抱く谷地に、風が通り抜けるたび、草は揺れ、岩は鳴り、名なき声が響く。

その声に耳を澄ませる者が、ここにはいる。


谷間に広がる大地では、多くの馬が走っていた。

風を裂くように駆け、風に溶けるように止まる。

羽根の馬は、風を読む。駿馬としてヤマトにもその名は轟いている。


(馬もまた、語りの器なのかもしれぬ)

道信どうしんは、大地を横切り谷地にある、羽根郷の館へと歩を進めていた。

照岳山しょうがくざんを出て三日。

仏の灯を胸に、いよいよ、風の語りの地へ向かう。


館の前の広場の中央に柱があり、カネがひとつ下げられていた。

その柱にも円と方、それに渦巻きと羽根の模様。

(これは一体?)


不意に、背後から声がかかった。

「羽根へようこそ。それは風の印。」


道信は振り返る。

「お初にお目にかかります。拙僧、道信と申します」

「旅の方ですか。……我が郷に、何かご用ですかな?」


声の主は、羽根郷司・阿末木あまぎの羽流うるのみことであった。

白衣に浅縹の帯を締め、風の印を胸に刻む男。

線は細いが、芯の通った眼差しを持つ。


館の中へと誘われ、謁見の間で二人は対峙する。

羽流は、穏やかに言った。

「あらためて、遠路はるばる、よくお越しになった」

「急な訪問、失礼いたします」

道信は、ちらと羽流の表情をうかがう。

その眼は、風のように揺らぎながらも、地に根を張っていた。


「して、要件は?」

「拙僧は、この地に仏の教えを広めたく」

「仏?――ああ、水守みずもり清澄きよすみ殿のところで信仰されているという、あの教えか」


少し無遠慮な物言いに、道信はわずかに眉を動かす。

しかし、声は静かに保った。

「いかにも。水源寺すいげんじのような、仏の庇護を受けた場が、ここにも必要かと」


羽流は、軽く首を傾けた。

「ふむ。しかし、我々は風とともに生きてきたのでねえ」

道信は、懐より一枚の紙を取り出し、差し出した。

「これを」


羽流はそれを受け取り、目を通す。

「風は形無く、仏と成る――」

余裕の表情を崩さなかった羽流が、その文を見て、初めて眉を動かした。


「……誰かある」

「はっ。ここに」

十森ともりの者を呼べ」

道信は、言葉の意味を測りかねていた。


羽流は、静かに言った。

「我々羽根の者には、しきたりがあるのですよ。

政は阿末木が、祀は十森が」


「十森?」

「風の語り部を継ぐ一族です。

風の声を聴き、名なきものを語る者――

この地の祀は、十森が担います」


風が、館の隙間を通り抜け、紙を揺らした。

それは、語りの始まりを告げる風だった。


風那ふうな様がお越しです」

「なんと……どうぞ、お入りください」

羽流の表情が、わずかに変化した。

その変化は、風のように微細で、しかし確かだった。


道信はそのわずかな違和感を逃さなかった。

(十森の者が来訪した旨を告げたにしては、羽流様のご様子が気になるな)


簾が静かに上げられる。


風がひとすじ、室内に流れ込む。

その風に導かれるように、ひとりの女性が現れた。


白衣をまとい、腰に鈴を下げている。

衣の中央には、円と方を重ねた鍵穴形に、渦巻きと羽根の模様――風の印。


道信は、思わず息を呑んだ。

谷で舞っていた、あの人である。


「風那様。ご足労、恐れ入ります」

「呼びに参った者が、何やら羽流様がお困りの様子だったというものですから」


風那の姿を認めるや、羽流は居住まいを正す。

それに笑みを浮かべながら、風那は羽流の横に静かに座した。


「して、この方は?」

「道信と申します。お会いできて光栄です」

道信は慌てて名乗る。


「ふふ。谷でお見かけした方ですね」

「あっ……」

「なんと、お二人はすでに面しておられたか」

なんとも居心地の悪い道信に対し、羽流がくすりと笑う。

(やりづらいな)

道信は内心、焦る。


十森風那ともりのふうなと申します。当代の風の語り部でございます。

ようこそ羽根の地へ」

そんな様子を流すように、風那が話す。

その声は、まるで鈴が鳴ったようだった。


「道信殿は、この地に寺を建てたいと仰せです。

それに、これをご覧ください」


羽流が、慧嶺の書を風那に差し出す。

風那は目を通し、しばし沈黙した。


「……ヤマトの方々は、すべてを仏というもののもとに置きたいのですね」

「仏は、寄り添ってくださる存在です」

風那は一瞥する。 道信は目を離さない。

熱をもつ道信の眼差しを、風那の瞳は、澄んだ風のように受け流していた。


「いかがなされますか?」

その二人の視線を切るように、羽流が風那に尋ねる。


「……道信殿に羽根の地でしばらく過ごしてもらいたいですね。

……私たちの信ずるものを、まずは知っていただきたいですわ」

ふっと視線を道信から離し、羽流に目を向けた風那が言う。


「いかがかな?」

「しばらくご厄介になりまする」

風那の言葉を受けた羽流の問いかけに、道信は間髪入れず頭を下げる。


「それでは。誰かある」

「はっ。ここに」

「客間を準備いたせ」

「はっ」


素早く指示を出す羽流に、感謝の視線を送りながら、風那は道信に話しかける。

「道信殿。準備の間、しばしお付き合いいただいても?」

「どこへなりと」

「ふふ。では、こちらへ」


道信はまだ少しぎこちない。

二人を見送る羽流の目は、風のように静かに揺れていた。

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