8 火と経との交配にて
照岳山の南面に築かれた光嶺寺。
風の通る伽藍を持ち、香の匂いが静かに漂っていた。
道信は、本堂の奥にある釈迦堂へと通される。
堂の中央には、焚かれた火が静かに揺れていた。
その火を見つめるように、慧嶺が座していた。
百済より渡来し、筑紫にて光嶺寺を開いた祖。
その眼差しは、火の奥を見通すように深かった。
道信は、合掌し、深く礼をする。
「開祖様。道信にございます」
慧嶺は、ゆるやかに頷いた。
「久方じゃな。良き面構えとなっておる」
「開祖様もお元気そうで」
道信は筑前の地に生まれた。
親はない。光嶺寺の僧坊の前に捨てられていたという。
本人は、仏の子と割り切っている。
僧房の雑務をこなしながら住み込みとして働き、堂の外から盗み聞きながら経を覚えていた。
ある日、掃除をしながら経を口ずさんでいた。
庭を散歩していた慧嶺が、それを耳にする。
「今のは、観世音菩薩普門品か?」
供人が驚いて言う。
「観音経を、子供が?」
慧嶺は、静かに微笑んだ。
「仏の導きかもしれんな」
それが、慧嶺と道信の出会いであった。
その後、慧嶺は道信をそばに置き、自ら妙法蓮華経を授けた。
十年の月日が流れ、十五となった道信は、慧嶺に呼ばれた。
「明日香にゆけ」
それが、修行の旅の始まりだった。
明日香で十年。
仏の教えに対する学びを深め、ヤマトに広く伝えた。
そして今、二人は再び照岳山にて向き合う。
慧嶺は、道信の顔を見つめながら、静かに言った。
「そなたの活躍は聞いておる。各地に仏の灯を置く。
そなたは、その器となるであろう」
道信は、深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です」
風が、堂の隙間を通り抜け、香を揺らした。
慧嶺は穏やかな目で道信を見つめ、続ける。
「南の地のこと、いかがであった」
「はい。水源寺釈迦仏の拝観が叶い、感無量でございます。
ただ、仏の教えが隅々まで届いているとは言い難く」
「彼の地は語りの地か」
「ご存じで」
「仏に通じず、自然と語る者がいるというのは聞いておる」
「水守郷は調和し、仏の庇護がございました。
同じように、火嶺・羽根・根深の三郷に寺を建て、教えを広めたく」
慧嶺は、しばし沈黙した。 その沈黙を、火が見つめていた。
慧嶺が口を開く。
「土地と語り部の関係は、民にとって大事なものであろう。
それを断ち切ることを仏がお許しになるだろうか」
「仏の教えは、ただ、灯りとして寄り添うものと心得ております」
慧嶺は、片眉をあげ、道信の成長を感心しつつ、手元の紙に墨を載せた。
それを道信に差し出す。
「これを羽根の地へお持ちなさい」
風無形成仏
(かぜ かたちなく ほとけとなる)
道信は、その言葉を見つめる。
それを両手で受け取り、懐へ収めた。
「ありがたく、頂戴いたします」
慧嶺は、静かに言葉を継ぐ。
「仏は、すべてを包む。
そなたは、語りと仏の間に立つ者となれ」
道信は、今一度、深く頭を下げた。
「その役目、果たしてまいります」
堂を出ると、風がひとすじ、袖を撫でた。
羽根の地へ向かう道すがら、道信は風の谷に差しかかった。
火嶺を北に抱くこの谷は、風が常に通り抜ける。
草は揺れ、岩は鳴り、風は語る。
そのとき、谷の奥にひとつの影が見えた。
白い衣をまとい、風に合わせて舞うように身を揺らしている女性であった。
道信は、なぜかその姿に久玖里を重ね、足を止めた。
そして、静かに近づいていった。
女性は鈴を身につけていた。
音を鳴らしながら舞っている。
白い衣の中央には、円と方を重ねた鍵穴形に、渦巻きと羽根の模様が描かれていた。
道信は、初めて見るその印に目を奪われていた。
女性は、足を踏み、腕を広げ、風の流れに身を委ねる。
風が吹くたび、衣が翻り、鈴の音が風の声と重なって谷に響いた。
道信は、息を呑んだ。
(これは、語りだ。火の語りとは異なるが……風の語り部か?)
女性は、周囲のことは意に介さず、一心に風と語り合うその姿は、まるで風そのもののようだった。
道信は、しばしその場に立ち尽くし、風の語りを見つめていた。
やがて、風がひとすじ、道信の袖を撫でた。
道信は、静かに歩を進めた。
羽根の地へ。




