6 火と黙との和解にて
館の奥へと続く板敷きの廊を、久玖里は沙耶に導かれて進んでいた。
朝の光が、壁の木目を柔らかく照らしている。
久玖里の歩みは、高見の代役としての威厳と、静けさを保っていた。
書の間の前に立つと、沙耶は簾の前で足を止め、軽く身を正す。
そして、簾越しに声をかけた。
「父上、久玖里様をお連れしました」
内から、清澄の声が静かに返る。
「お入りください」
沙耶が簾を持ち上げると、久玖里は、手を掲げながら深く腰を曲げた。
これは火巫の使者としての最高礼である。
静かに中へ入り、清澄の前に進み、坐す。
清澄は軽くうなずき、机の上に手を添えた。
「火嶺の主・火巫高見命よりの文、確かに拝受いたしました。
返書を、これに」
清澄は上より文を差し出す。
久玖里はそれを下より恭しく受け取り、両手で包むようにして懐へ収めた。
「お勤め、ご苦労様です」
清澄は、文の内容には全く触れなかった。
久玖里もまた、何も問わず、ただ深く頭を下げて、簾の方へと後ずさる。
入り口で再度、最高礼を示す久玖里を見つめながら、清澄は静かに言葉を添えた。
「そう遠くないうちに、久玖里殿には一仕事してもらうことになりそうです」
久玖里は、その言葉の意味を測りかねて、わずかに顔を上げかける。
だが、清澄はそれを制するように、言葉を重ねた。
「高見殿に、よろしくお伝えください」
機を逸した久玖里は、何も言わず、そのまま書の間を後にした。
廊を戻る途中、沙耶が誰ともなく声を漏らす。
「父上のさきほどの話は、何だったのでしょう?」
久玖里は振り返り、微笑みながら軽く礼をする。
「また近いうちに、再会できそうですね」
沙耶の顔が、ぱっと明るくなる。
「道中、お気をつけて」
「それでは、また」
久玖里は、水守を後にした。
懐には返書、胸には語られぬ予感。 火嶺への道は、静かに続いていた。
火嶺への帰路、久玖里は峠を越えた先の野にて、ひと晩の野宿を取った。
風は冷たく、草の匂いに土の湿りが混じっていた。
慣れた手つきで石を並べ、旅先の簡易な炉を設ける。
夜の帳が降りる頃、久玖里は暖をとっていた火に向かい、おもむろに両手をかざす。
ゆっくりと、その瞳が朱に染まる。
一際大きくなった炎から声が聞こえた。
「そなたを見守ろう」
「よろしくお願いいたします」
この地に残る火の記録が、久玖里を包む。
語りの場となった。
火の前に坐した久玖里の胸には、水守での語りの記憶が残っていた。
(涼木様の声が、私に応えた。
お祖母様の教えでは、火巫は火と、水守は水とのはず、
なにゆえ私に水の語りができたのか)
火が、ぱちりと鳴る。
その音は、久玖里へ語るようだった。
(沈黙の中にあった水座が、火の中に現れた。
語りは、つながるのか)
火は、静かに揺れる。
その揺らぎに、久玖里は語りの余白を見た。
「沈黙は無を示すわけではない。
私は、何をすれば」
つぶやく久玖里に、火は、脈打つように応えた。
その火は、久玖里の語りを受け止めていた。
久玖里は、火に向かって深く頭を下げた。
(私は語り続ける。それが、私の役目)
それは、沈黙との和解でもあった。
夜は静かに更けていった。
火は、語りの余韻を抱えながら、野の空気に溶けていった。
火嶺に戻った久玖里は、館の奥にある火の間へと向かった。
久玖里は火座の前に坐し、祈りを込めて手を胸に掲げる。
そっと目を閉じると、同心円が淡く光り始める。
朱に染まった瞳をひらくと、赤い光の中から、薄っすらと老いた女の姿が現れた。
「……ごきげんよう。お祖母様」
「よく戻った、久玖里」
明羽の声は、火の奥から響くようにかすかで、しかし確かだった。
「そなたはさらに力が強まったな。
よもや水守から声が届くとはな」
「無事に声が届いておりましたか。
それでは、涼木様のことも……」
「……涼木のこと。
水の語り部が途絶えたこと。無念じゃ……
しかし、そなたの話では」
「はい。水に還った涼木様が、私の語りに応えてくださいました」
「火の語り部が水の記録と語るとは……」
「語る前の水座は確かに沈黙していました。
されど語りに応えてくださいました」
火が、ぱちりと鳴る。
その間の沈黙にも、語りがあった。
「語りは、聴く者の意志によって変わるもの。
そなたには火巫を超えた役目があるのかもしれぬな」
「……けれども水守は仏を選びました」
「沈黙したものを語るのもまた、語りの一部。
そなたのなすべきことであろう」
「わたしの、なすべきもの……」
火の揺らぎが、静かに脈打つ。
その光の中で、明羽の姿はゆっくりと薄れていった。
久玖里は、奥壁の朱で描かれた五重の同心円をみつめる。
朱から黒へと戻った瞳は、これまでよりも深く、力強いものになっていた。




