5 火と書との伝播にて
翌朝は、よく晴れていた。
水源寺の客間で一晩を過ごした久玖里は、夜明けとともに目を覚ました。
板敷きの床に敷かれた布の上で、身を起こす。
網代編みの簾を透かした光が、室内を淡く照らしていた。
その気配に気づいた世話の者が、すぐに水桶を携えて現れる。
静かな足音とともに、部屋の隅へと膝をつく。
(さすがは水守、行き届いたものね)
内心、火嶺の粗雑さを思い出しながら、久玖里は礼を述べる。
「ありがとう」
「朝餉はいかがされますか?」
「朝の祈りの後で。すぐでなくてもいいわ」
「かしこまりました」
世話の者は、さっと身を引き、簾を再び下げて静かに去っていった。
久玖里は、部屋の奥に据えられた炉へと向かう。
土間に切られた炉では、火種が燻っていた。
彼女は膝をつき、火種に息を吹きかける。
火が、細く、静かに立ち上がる。
目を閉じ、祈りを込める。火の声が聴こえる。
語りの始まり、火の揺らぎが余韻となって部屋の空気にただよう。
久玖里は、火嶺へと伝わるように、火としばらく語った。
火は、応えるように脈打ち、やがて静かに落ち着いた。
見計らったように、外から声がかかる。
「朝餉の準備が整いました」
「わかったわ」
食堂へ向かうと、すでに沙耶が待っていた。
木の卓に並べられた器と、湯気の立つ粥。
庭の水音が、静かに響いている。
「父上が、返書をしたためられました。食事の後、館へご案内いたしますわ」
「ありがとうございます」
久玖里は、静かに頭を下げた。
このあとの政の気配が、朝の光の中で差し始めていた。
館の奥、書の間。
清澄はひとり、机に返書を置き、瞑目する。
筆はすでに置かれている。あとは渡すばかりだった。
部屋の簾は下げられたまま。
灯りも消している室内は、外から入る淡い朝の光だけで、文の墨跡を薄く照らすのみ。
久玖里が携えてきた高見の文を、昨晩、清澄は何度も読み返していた。
(ヤマトは、何か焦っているのか……)
記されていたのは、不遜なヤマトの使者が隷属を求める文を携えて、急に現れたことだった。
礼を欠き、理を欠いた振る舞いに、高見が憤っていることが行間にも滲み出ていた。
(高見殿らしいな)
文の内容を静かに思い出した清澄は、ふっと息を吐いた。
火嶺が受けたヤマトからの圧力は、すでに水守にも届いていた。
何よりも清人らの訪問は、水守が先だったのだ。
表向きは水源寺への参詣という体裁だったが、
成通から、おそらく高見が受け取った文と同じものが、会話の最中、さりげなく手渡された。
机の端に並べた、ヤマトからの文に目をやる。
そこには、我らの土地を囲い込もうとする意図が、あからさまに滲んでいた。
この地の行く末を語るには、火嶺と水守だけでは足りない。
(おそらく、高見殿も同じ思いだろう)
一癖も二癖もある豪族たちの顔が、脳裏に浮かぶ。
(一度、皆で話し合うしかあるまい)
この点については、清澄の中で揺るぎない決意があった。
(だが――)
高見の文は、続けて寺院建立の意向に触れていた。
道信という僧の名が添えられている。
(道信殿……何を企んでいる)
高見の筆には、道信の言葉に対する戸惑いと、
寺院の件について内々に相談したいという一文があった。
清澄は、ふと遠い記憶を辿る。
百済より仏教がもたらされた折、父に連れられて筑前へ赴いた。
荘厳な建物。
僧の大音声による読経。
――その迫力に、言葉を超えた力を感じた。
そのとき、百済の僧より父が譲り受けたのが、水源寺の釈迦像だった。
はじめて拝顔したとき、清澄は、水の気配を纏う仏の姿が心に浮かんだ。
その思いを象らせたのが、水煙菩薩である。
水と仏のつながりを見出した清澄にとって、仏を迎えることは不自然ではなかった。
涼木の語りが絶え、沙耶が仏に帰依したのも、この流れの中にある。
だが、火嶺は違う。
語りの厚い土地。初源の地。
火の語りと仏の信仰は、果たして重なり得るのか。
清澄は、窓の外に目をやる。
水源寺の屋根が、朝の光に濡れていた。
(この地の語りを沈め、仏のみにすがるべきか……)
だが、言葉にならぬ思いが、まだ胸の奥に残っていた。
それは、伝え聞く久玖里の力であった。
昨日、亡き涼木と語ったという。
涼木のことは清澄にとって、まだ癒えぬ静かな痛みだった。
「久玖里、火の語り部か……」
まもなく現れるであろう久玖里を思い浮かべ、また瞑目する清澄であった。




