17 火と終との決意にて
筑前。
新たな治の空間は、順調に成長しつつあった。
「府」としての機能も整い、役所の往来には文書と人が絶えなかった。
だが、長官・真峯は苛立っていた。
「どうなっておる」
広間にて、平伏した役人が報告する。
「忠彦様からの文によれば、心配は無用とのことにございます」
「勝の報ではないのは、なぜと問うておるのだ」
怒気を孕んだ声が、岩壁に響く。
役人は震えながらも続ける。
「何でも、火嶺にて面妖な術が使われたとか……
慎重を期したいとのことにございます」
「むむむ……負けは、絶対に認められん」
真峯は、この地の情勢をよく理解していた。
この筑紫、決してヤマトのものとして盤石ではない。
さらには周囲の豪族たちが、ヤマトの力を見極めようとしていた。
(もし、此度の戦にて敗れたとなれば―― 府も危うくなる)
真峯は、静かに言った。
「成通を呼べ」
その声は、謀をはらんでいた。
(私はどこかで何かを間違えたのかねえ)
成通は、背を丸めながら廊下を歩いていた。
行き先は、正殿。
真峯様直々の呼び出しという。
筑前へともたらされる文物の整理に没頭し、
目録の作成に勤しんでいた成通にとっては、寝耳に水の話だった。
前を歩く役人に気づかれぬよう、そっとため息をつく。
(この人も、目的を教えてくれないようで)
「着きましたぞ。中へはお一人でどうぞ」
「……かしこまりました」
それを聞き、扉の横にいた護衛が声を発する。
「忍壁首成通殿、お越しです」
「入れ」
成通は、胸の鼓動を抑えながら、正殿へと足を踏み入れた。
そこには、にこやかな真峯がいた。
「成通。よく来てくれた。まずは、これまでの働き、見事であった」
「もったいないお言葉にございます」
「寺院建立の見事な差配。
それにとどまらず、ここでの文物の整理、目録の整備。
治の礎を築くに、欠かせぬ働きよ」
成通は、頭を下げながらも、内心の不安を拭えなかった。
「さて――清人のことだが」
「清人様……何かございましたか?」
「独断で軍を動かしたと聞く」
「それは……存じませんでした」
(何をされておられるのだ。あのお方は……)
成通は内心でぼやく。
「道信は、どうしておる?」
「道信殿?ああ、たしか、火嶺に向かわれたはずにございます」
真峯の笑みが、静かに消える。
「そう、その火嶺じゃ。いまヤマトに反旗を翻しておる」
その言葉に、成通は息を呑んだ。
「原因は、清人。……分かるな?」
成通は、目を伏せる。
(清人様が火嶺を攻めた? 道信殿は何をしている?)
真峯は、静かに、しかし確かに告げた。
「成通。千を預ける」
「私に軍を?……私に戦の心得などありません」
「案ずるな。率いるだけぞ。あちらには忠彦がおる」
「忠彦様といえば、戦上手の……」
「さよう。そなたは援軍を届けるだけでよい。
そして、清人を連れ帰れ」
「はっ。確かに承りました」
「千のヤマト軍を率いる大役じゃ。
戻れば昇進が待っておる。簡単な遣いであろう」
成通は、苦笑いを隠しながら、深く礼をした。
満足げな真峯の声が、上から降ってくる。
「下がれ」
「ふう……」
扉を出て、護衛の姿が見えなくなる角を曲がったところで、成通は大きく息を吐いた。
(やっぱり、どこかで間違えたかねえ)
千の兵を率いる――
その現実にうんざりしつつも、頭ではすでに準備の段取りが始まっていた。
火嶺前線。
清人は、苛立ちを隠せず、声を荒げた。
「まったく上手くいかぬ。なぜだ……くそ」
思わず声に出してしまう。
「落ち着きなされよ。まだ被害は軽微ですぞ」
忠彦が、静かに諭す。
「火が襲ってきたり、豪雨になったり。何なのだ」
(この男、武の気配は持つが、用兵の妙を知らぬな)
忠彦は内心ため息をつきながらも、言葉を続ける。
「確かに、怪しげな力を持った輩のようですな。
されど、数では我らが圧倒的に有利。焦りは禁物ですぞ」
「しかし、このままでは、やられっぱなしではないか」
「しかり。――私に、妙案がございます」
忠彦の目が、静かに光った。
清人は、苛立ちを抑えながら、忠彦の顔を見つめる。
「火嶺の者は、妙な力を使いますが、
我らがそれを正面から相手する必要はありますまい」
「それはそうだが……」
「そもそも、清人様は、当初わずか手勢五十で攻めるおつもりでしたな。
どうするつもりだったのです」
「儂は奴らを誘き出し、その隙に館を……!」
(ふむ、それなりに考えがあったようだ)
「さようですか。しからば、私が水守、羽根を誘い出しましょうぞ」
「さすれば儂が、高見の首をとる」
「決まりですな」
清人は、うなずいた。
「忠彦。そなたに任せる」
「策を講じます。一日、準備の時間を」
「あい、わかった」
忠彦は、静かに一礼した。
ヤマトの策が動き出した。
武の攻防が、始まろうとしていた。
一夜が明け、火嶺では少し気が緩んでいた。
高見は、気を引き締めねばと思うが、緊張のしすぎも良くないかと、思い直す。
正門の横の櫓では、羽流と清澄が掛け合っていた。
「清澄殿、ヤマト軍は攻めてきませんねえ」
「このまま帰ってくれませんかねえ、羽流殿」
「なにをほざいている」
高見が、二人を睨む。
「冗談ですよ。されど沈黙は妙ですな」
「高見殿、騎馬を一当てしましょうか」
「当てずとも良い。されど様子見はお願いしたい」
「承知」
羽流が手を挙げると、騎馬兵十が森へと駆け出した。
森の端で曲がり、草地との境界をなめて進む。
すると、森の奥からパラパラと矢が飛んできた。
「反応はありそうですが、どうも妙ですね」
「たしかに、数が少ない」
三人は、顔を見合わせる。
沈黙の裏に、何かが潜んでいる。
その予感が、火嶺に漂い始めていた。
日が暮れてきた。
館の一室。 久玖里と道信が、対峙していた。
「仏は火嶺をどうしようというのです」
「仏は何もいたしません。ただあるものです」
「それでは、わざわざ仏は必要でしょうか」
「語りはどうですか。必要だからあるのでしょうか」
「……」
久玖里は、瞑目する。 道信は、合掌して待つ。
「語りは……そこにあるものです」
「さよう。久玖里様は語りを継ぐためにおられるのでしょう」
「では、道信様は?」
「拙僧は、灯りと自らを任じております」
「灯り……」
「僧とは仏の教えを伝える灯りです。寺とはその場です」
しばしの沈黙ののち、久玖里が静かに言う。
「語りと仏は並び立ちますか?」
「仏は寄り添ってくださる存在です」
「形なき語りにも?」
「仏はあるのです」
「あなたは語りを継げばいい。私が語りと仏の間に立ちましょう」
「私と道信様が……」
道信が、深く合掌する。
「さよう。信ずる気持ちは、争うものではありません。
分かりあうことが必要です」
「分かりあう……語り合う」
「あなたは火の語り部でありながら、
水とも風とも土とも語っておられました。
拙僧とも語っていただけないでしょうか?」
「語りは形なくとも、どこにでもある。
ともにあることが最も重要なのですね」
「一切空……因果……縁起……、
ともにあることは自然です」
「語りをつづけましょう」
語りと仏が、つながった。
火嶺の灯は、祈りの光を得て、さらに深く燃え始めていた。




