11 火と土との混合にて
羽根郷を後にし、仏の灯を胸に、次なる語りの地へ。
道信は、風を背に歩む。
向かうは、根深郷。
北に火嶺山を臨みながら、羽根郷から東へと歩を進める。
やがて、なだらかな平野へと至る。
細く白い小川がいく筋も流れ、周囲の土は柔らかく、至る所がぬかるんでいた。
水辺を好む植物たちが寄り添い合うように命を育んでいる。
慎重に歩く道信が踏みしめるたび、足が沈む。
すべてを包むような黒い土に含まれる命の重さが、そこにはあった。
豊かな土に守られた地、根深。
ここでは、語りは土に宿り、沈黙の名を刻む。
(土から命の息吹を感じる。ここでは、どのように語りと縁をもつべきか)
道信は、ぬかるみに苦労しつつ、ゆっくりと前に進む。
その一歩一歩は、語りの器としての旅路を刻んでいた。
やっとの思いで、たどり着いた根深郷は、重い霧に包まれていた。
郷の入り口には誰の姿もなく、奥の様子は見えない。
人の気配が感じられぬことに、道信は訝しげに中へと足を進めた。
広場に出たと思った矢先、どこからともなく、ひとりの老女が現れた。
背を丸め、顔の半分を布で覆っている。
道信は、内心の驚きを苦笑いで隠しながら、静かに言う。
「道信と申します。
根深郷司・葦里土彦尊様に、
ご挨拶を申し上げたいのですが」
老女は、しばし道信を見つめた。
その瞳には、土の沈黙が宿っていた。
「……旅の方か。悪いが、今は……」
その声には、疲れと、何かを諦めた響きがあった。
道信は、老女の様子に病の気を感じ、言葉を継ぐ。
「拙僧、及ばずながら多少なりとも医の心得がございます。
これも仏の導き。診させていただけないでしょうか」
老女は、しばし沈黙したのち、ぽつりと呟いた。
「多くのものが……土へと還った。
土彦も……村に病が……」
その言葉は、土に吸われるように低く、湿っていた。
道信は、静かに頭を垂れた。
この時代、病が広がれば、なす術もなく、名もなき死が積もる。
道信の心に火が灯る。
(どこよりも、この地こそ仏の慈悲が必要だ)
その問いを胸に、道信は、老女を支え、霧の奥にうっすらと見えていた館へと進む。
根深郷の館。
門は開かれていた。
だが、誰ひとり迎えに出る者はいない。
道信が足を踏み入れると、その足音は土間に吸い込まれるように消えていった。
館の中は、すべての部屋が板で閉ざされ、火は焚かれていない。
空気は湿り、土の匂いが濃く、息をするたびに肺に重さが残る。
(まずは空気を入れ替えねば。暖も必要だ)
道信は、老女を一室に寝かせると、迷いなく動き始めた。
戸を開け、板を外し、炉に火を入れる。
湿った薪に火が移ると、ぱちりと音がして、ようやく館に音が戻った。
やがて、館に火が灯り、風が吹き、空気が変わる。
閉ざされていた空間に、わずかに命の気配が戻ってきた。
薬湯を煎じ、老女に飲ませる。
しばらくして、顔色がわずかに和らいだのを見て、道信は静かに口を開いた。
「お加減はいかがですか?」
老女は、布をずらし、かすかに微笑んだ。
「私は……葦里陽里と申します。
土彦の妻にございます。
道信様には、なんとお礼を申し上げてよいやら……」
「仏の導きゆえ。お気になさらず。 語り部様は……?」
陽里は、わずかに目を伏せた。
「語り部をご存知なのですね。
語り部は、娘の土音が務めておりました……それも……」
言葉が途切れる。 道信は、静かに頷いた。
「辛い話を申し訳ありません。
では、ここには……郷司も、語り部も……?」
「はい。急なことで……。
私は火嶺から嫁いだ身。
このような時に、根深の役に立てませぬ……」
陽里の声は、土に沈むように低く、湿っていた。
道信は、炉の火を見つめながら、静かに言葉を探していた。
日が暮れてきた。
暗い内容に二人の無言が続いて、しばしの時がたつ。
風が一筋流れ、道信がふと炉の火をみる。
揺れていた火が一際大きくなる。
そのとき、門の方で急に声が響いた。
「伯母様!」
陽里が顔を上げる。
「あの声は……久玖里かしら?」
(久玖里……もしや!)
道信はすぐに申し出る。
「陽里様、拙僧が案内しても?」
「……ご無礼ながら、お願い申し上げます」
「では」
道信は心を落ち着けようと念じながら、門へと向かった。
ぱちっ、と炉の火がかすかに爆ぜる音が背後で聞こえる。
門の前には、白の衣をまとい、三つ巴の勾玉の首飾りをつけた女性が立っていた。
その姿は、火嶺の気配を纏っていた。
「どなたか?」
道信を見つめる女性――久玖里は、訝しげに冷たい声を発する。
その姿を無言で見つめていた道信はハッとして、罰の悪い表情を浮かべた。
「ご無礼を。拙僧は道信と申します。
縁あって、陽里様のお世話をさせていただいております」
「それは……ありがたきこと。それで伯母様の容態は?」
久玖里は表情を緩め、深く礼をする。
「ご心配ありませぬ。館の方へどうぞ」
館へ移ると、陽里はすでに起き上がっており、凛とした姿勢で、久玖里を迎える。
「久玖里、久しぶりね。しかし、なぜこの地へ?」
「父上が四つ郷での会合を開こうとして、土彦様にも使者を送りました。
帰ってきた使者が『根深郷は潰えた』と……
私は居ても立っても居られなくなって」
「心配かけましたね」
久玖里は陽里に寄りかかり、涙をこぼす。
「……よかった……」
遠慮して御厨にいた道信が、薬湯を持ってやってくる。
「久玖里様、あなたもこの薬湯を。病を侮ってはいけません」
両手で受け取る久玖里が一口薬湯を飲み、口を開く。
「ありがとうございます。道信様とは……どこかで?」
「わからないのも、やむを得ません。こちらが一方的に知っているのです」
「?」
「以前に火嶺を訪れたことがございます。歓迎はされませんでしたが」
「もしや……」
「ええ。葛城臣清人様と、忍壁首成通様とともに、ヤマトの使者として出向きました」
少し気まずい空気が流れる。
久玖里は、静かに頭を下げる。
「伯母様のこと、感謝いたします」
「仏の導きゆえ」
その言葉に、久玖里はわずかに眉を動かす。
火嶺の者にとって、「仏」は警戒すべき響きを持つ。
「道信様は……火嶺に寺を建てるつもりと聞きました」
その問いは、火と土の混合に揺れる語りの始まりだった。




