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9話 ご近所さんとご一緒する夕食で、狼が噂になる

 臨時の仕事を終えたエリザベートは上機嫌でトゥールーズ理髪外科医院に帰ったが、悲しいことに客はひとりも来ないまま夜を迎えた。


 エリザベートはいつものように店舗ドアに(かんぬき)をかけ、蝶番(ちょうつがい)の革紐を縛って戸締まりをすると、2階に上がって陽が沈む位置を確認した。それから1階に下りて、中庭側の出入り口から隣のティレル家へ向かう。夕食をとるためだ。


 竈も瓶も桶も爪切りも、隣近所で貸し借りしあうのが当たり前。竈がない家の者は、ある家を訪ねて利用させてもらわないと、温かい夕食にはありつけない。

 竈の燃料になる薪を使用するのは基本的に夕食のみ。森は領主の所有物なので、庶民が勝手に薪を採取することは禁止されている。冬前の一時期のみ枝拾い(グラナージュ)が許可されるが、普段は領主から採薪権(さいしんけん)を許された業者のみが木を切って薪を採取できる。その売り上げは、都市にとって重要な税収となる。貴族でもない者が朝昼晩に使用できるほど薪は安くはない。


 ティレル家にはエリザベートの他に、さらに2家族が集まるため、合計で4家族16名になる。平均寿命が短いため3世代が同居する家は少なく、1軒のみ。他はいずれも2世代だ。


 暖炉を兼ねる竈の傍に男が腰掛けを並べて座り、女子供や赤子は部屋の隅と隣室にゴザを敷いて座る。

 竈の隣の台には壺、平鍋、深鍋、鉢、水差しといった炊事道具が置かれており、壁から伸びる釘には肉が刺してある。天井の(はり)からはタマネギ、魚の干物、ベーコンが吊されている。床に置かれた木桶の中に魚がいるようだが、暗くてよく見えない。

 既に陽は城壁よりも低く、都市内の路地は蝋燭か松明(たいまつ)がなければ足下が覚束(おぼつか)ない暗さだ。石造りの屋内はさらに暗く、竈の灯りと2本の獣脂蝋燭シャンデル・ド・スイフのみが光源だ。


 男たちは木製の器に盛った麦や豆の煮物を食べながら、近隣に出没する狼の噂話をした。女たちは「女が男の会話に口を挟むな」と言われるのが分かりきっているので、黙って話を聞く。


「最近、都市の周りに暮らす農家が狼をよく見かけるそうだ」


「俺は、川の向こうの森で見かけたという話を聞いたぞ」


「なんでも普通の狼の2倍くらい大きく、立ちあがれば人間と変わらない体躯(たいく)をしているそうだ」


 獣油を使用した蝋燭は燃焼時に、特有の獣臭を放つ。その臭いを嗅いだ女たちは、部屋の隅の暗がりに、いつの間にか狼が潜んでいるのではないかと不安になり互いに身を寄せあった。エリザベートだけは平然としており「水()みに行って狼と遭遇したら、水瓶(みずがめ)をぶつけて倒すか……」等と考えている。


「噂の狼は人狼(ロップ・ガルー)ではないのか? 満月の青い光を浴びすぎると人は狼になるというぞ」


「そういうことであれば、もうすぐ満月だ。あまり夜中は出歩かない方が良いだろう」


「だが、もし人狼(ロップ・ガルー)が現れても恐れる必要はない。アイガス・モルタスにはリュシアン様がおられる」


「ああ。それは安心だ。3年前にも人狼(ロップ・ガルー)騒動があったが、リュシアン様が見事解決してくださった。なあ、エリザベート。お前はよく知っているんだろう?」


 エリザベートは自分から会話に加わるつもりはなかったが、話を振られれば応じるしかない。もう何度もこの夕食時に話した定番の持ちネタだ。


「ええ。よく知ってるわ。今から3年前、私がアイガス・モルタスに住むようになったときのことね。私は悪魔憑きの疑いをかけられたの。私があまりにも多くの男たちから言いよられたものだから、怪しげな術を使っているんじゃないかって……。単に美人なだけなのに」


「はっはっはっ。確かに顔だけは美人だからな!」


「お前は白くて細っこいからな。地中海の女とは雰囲気が違う。妖精のような(フェリーク)エリザベート。若いもんがお前を妖精か何かに見違えるのも仕方ない」


「まあ、北国生まれの私は異国の血が入っているらしくて、そのせいでリュシアンの隠し子じゃないかなんて言われたりもしますが、その城代リュシアンに聖剣を突きつけられて生き残っている唯一の人間が私です」


 ああ、不幸な私……と芝居がかって言えば、女たちの間に笑い声が生まれ、狼への恐怖が和らぐ。


「あれは忘れもしない夏の暑い日……」


 声を低く、重く、遅くする。


「満月の寝苦しい夜……。既に戸締まりを終えたトゥールーズ理髪外科医院のドアを何者かが叩いたのです。ドン、ドン、ドン……と」


 声にあわせて土床を叩く。


「いったい何事だろう……。私は2階の窓から顔を出し、路地を見下ろします。事情を聞いてみれば相手は漁師で、怪我人が出たと言うのです。アンリさんは病床の身。そこで私、エリザベートが彼等についていくことにしたのです。……そして、その道中。街を巡回していた我らの騎士(カヴァリエ)リュシアンと出会い……」


 聴衆たちは何度も耳にした台詞をエリザベートと一緒に口にする。


人狼(ロップ・ガルー)を従えるとは、貴様、やはり悪魔憑きであったか!」


「――なんと私に聖剣を向けたのです……!」


 笑い声が収まるのを待ってから、普段の調子で続ける。


「ほんっと、あの野郎! 怪我人が出たから満月の晩に出歩いていたんだし、ちょうど雲がかかって月が隠れて見えにくかったけど、私の横にいたのは人狼(ロップ・ガルー)じゃなくて、顔中髭に覆われた漁師!」


「くっくっくっ。リュシアン様ともあろう御方が」


「はっはっはっ! あの隙のないリュシアン様に、そのような一面があるというのは面白いではないか」


「私は言ってやったわ。『人狼(ロップ・ガルー)に食い殺された人は何処(どこ)? 私はオイル語もオック語もラテン語もアラビア語も読めるから、住民台帳か税の徴収記録を見せなさい。過去数年に(さかのぼ)って、この都市から住民が不自然に減ったかどうか見てあげる』ってね。それが切っ掛けで公証人(こうしょうにん)としての仕事を貰えるようになったんだから、リュシアンのことは許しましょう」


 ここでエリザベートの話は終了だ。

 また男と女の輪に別れる。

 話題は大きく変わらないが、エリザベートは発言を控えて男たちの会話に耳を傾ける。


人狼(ロップ・ガルー)というが、実際にそんな者が存在するのか? それこそ、髭の濃い男を暗闇で見間違えただけではないのか?」


(はる)か東に住む人間は頭が犬の形をしていると聞くが、その犬頭人間(キノケファルス)たちが遥々(はるばる)やってきたのではないか?」


「私は悪魔崇拝をしている者が怪しげな術で狼に変身すると聞いたぞ。つまり、悪魔憑きが狼に変身する途中というのが、人狼(ロップ・ガルー)であろう」


「それにしても恐ろしいことだ。爺さんたちの代に異端教徒との大規模な戦いがあったが、この辺りにもまだ異端の生き残りがいるのだろうか」


「そういえば、これは話半分に聞いていたのだが……。モンペリエ帰りの行商人からも狼の話を聞いた。なんでも人を襲う狼がいるそうだ」


「狼が人を? 羊や牛ではなく人を襲うのか?」


ああ(オック)。その人喰い狼は奇妙なことに、人間の肉は食わずに血を飲むらしい。普通の狼は食いきれなかった獲物を土に埋めるが、その人喰い狼は血の気のない死体を村に残したまま姿を消したという」


 それから、狼が原因で物流が滞り小麦が値上がりするのではないかと、話題が移る。

 温暖なアイガス・モルタスでは近隣の沼から魚や鳥を獲り、南の海から魚介類を獲り、北の平地や林で牛や豚を放牧している。そのため、魚や肉は豊富に手に入るが、一方で小麦の生産量は全市民を養うには足りなく、陸路での輸入に頼る部分が大きい。この温暖な地では小麦よりも、オリーブや葡萄の栽培の方が適しており、魅力的であった。

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