7話 ラテン語の読み書きができるので、公証人やってます
「ここは書き物部屋兼書類置き場。私の小さな書写室よ。棚にあるこれは証書を束ねた物。湿気で痛まないように皮で包んであるの。これで分かったでしょ。私は公証人もしているの」
「公証人?」
「えっとね。簡単に言うと、約束事を紙に記録しておく職のこと。あとから約束なんてしていないって言わせないようにするために証拠を残しておくの。当然、この建物が私のだって証明する物もある」
「そんな物が……」
自身の領域で証書という大勢の味方に囲まれたエリザベートは、誰もがそうであるように得意分野について多弁で早口になる。
「仮に相続人がいない場合、都市内の建物と土地は代官の物になるの。ここはフランス王の領地だからね。理髪同職組合が賃料を請求する権利はないのよ。領主より同職組合の権力が強いような北の方の都市だったら、組合が相続するかもしれないけど、ここアイガス・モルタスは違う。代官はパリから派遣されたフランス王の代理。だからとても強い権力を持ってる。理髪同職組合が法に背いたことをしようとしても無理」
エリザベートは棚の束から、獣皮紙を1枚取りだす。
「あった。この紙に、自由通り5番地にあるトゥールーズ理髪外科医院を、アンリ・ド・トゥールーズがエリザベート・ド・トゥールーズに相続するってラテン語で書いてあるの」
「ラテン語?」
「ん。ローマ帝国って分かる? そこの言葉」
言語に関しては、どうやら過去の知識や経験が残っているらしく、ラテン語は最初から読み書きができた。むしろ、ラテン語の方が得意で、現在暮らしている地域で話されているオック語の方が苦手であった。
尊敬か畏怖か奇異か困惑か……。マリウスの瞳に複雑な色が揺れる。
勉強もせずに得た言語能力をひけらかすつもりのないエリザベートは、謙虚な声音を心がける。
「これはアンリさんの遺言書ね。私が、真実のみを記しますと、神と聖霊と聖書に誓って書いたわ。代官リュシアンのサイン入りよ」
遺産を寄付させたいがために教会は遺言書の作成を強く推奨している。そのため、裕福な人々は死が迫る前に遺言書を書き残すことがあった。アンリは現金を教会に寄付し、家と土地をエリザベートに譲ると遺言書に記している。
説明しながらエリザベートは首に掛けてある紐を引き、子豚の足のような形をした印章を胸元から取りだす。
「ほら。これ印章。溶けた蝋にぺったんするの。この紙から垂れた尻尾みたいなところに、潰れた硬貨みたいなのがくっついているんだけど、これと同じ模様をしているでしょ? この文書は代官から正式に認められている公証人の私が書きましたって証拠」
悪意ある者が印章を使えばエリザベートに成りすまして文書を捏造することが可能なため、彼女は盗まれないように、常に肌身離さず身につけている。
「ね? この建物は私の物。理髪同職組合が小細工をしても無駄よ。インクを削って書き直すのも無理。これは羊の皮を使っているから、改ざんしたところが毛羽立って丸わかりだから。嘘だと思うなら、リュシアンのところに行こっか? 同じ内容の証書が代官の館にも保管してあるから」
「いや、信じる」
マリウスに疑念はなかった。神に虚偽を誓うことは信仰上許されないのだから、エリザベートが神に誓ったと宣言する以上、マリウスはそれを尊重し信じる。また、文字の読み書きができる者が少ない時代において、文書は魔術のように神秘的な力を宿すと信じられることもあった。そのような事情があるからマリウスは納得するしかない。
そのとき、暗い書類置き場に新しく、精力に満ちた声が加わる。
「わざわざ来る必要はない。俺が記憶している。アンリ・ド・トゥールーズの所有した土地と建物は、確かにエリザベート・ド・トゥールーズが相続した」
声の主はまさに今話題にあがったアイガス・モルタスの代官リュシアン・ド・マルティニーである。彼は遠くパリから派遣されている。
リュシアンは壮齢の男で、長身で引き締まった体躯の持ち主である。北フランスの寒冷で厳しい自然環境を過ごしてきた経験が表出したかのように眼光が鋭い。フランス南部の、ローマ人の血が濃い情熱的な男たちと異なり、何処か冷たい印象を与える男だ。
彼はフランス王の権威をよく領民に伝え法と秩序を維持し、都市民に様々な特権を与えて移住者を増やすことにより人口を増加させた。同時に市民の声をよく聞き、彼らの持つ農耕技術によって都市周辺を開発させている。
政治を司る代官と軍事を司る城代を兼務する、アイガス・モルタス最高の権力者である。
市民から慕われる代官ではあるが、エリザベートは過去に彼から悪魔憑き疑惑をかけられており、彼のことを快く思っていない。
「げ。リュシアン……」
「エリザベート。おはよう。ご機嫌いかがかな」
エリザベートは「朝から嫌いなやつに続いて苦手なやつが現れたから最悪よ」と声に出せないから心の中で毒づいた。
「ええ、まあ。はい……。おはよう。紳士様」
「ドアが開いていたし、話し声が聞こえたから入らせてもらったぞ」
「はい。ええ、どうぞ。営業中です」
「そちらの問題は解決したのか?」
リュシアンが視線を向けると、マリウスは萎縮したように「はい」と小さく答えて、目を伏せた。さながら狼に睨まれた子犬であるが、威厳に満ちた眼差しに見据えられれば仕方のないことだ。
「で、なんの用? 髪でも切りに来た? うちを贔屓にしてくれるなら大歓迎よ。うちがあんたの館から一番近いところにある理髪店なんだから、通いなさいよ。というか、その髭、剃らせなさい。絶対に髭がない方が素敵よ」
エリザベートは瞳に星を宿す。誰からも理解されないことだが、彼女は男の濃い髭を剃って、厳つい顎を赤ちゃんの肌みたいにツルツルにするのが、たまらなく好きだった。毛がない方が首筋に食いついて吸血しやすいだろうから、もしかしたら彼女の本能がそうさせるのかもしれない。
リュシアンのように身分の高い者が髭を剃らずに切りそろえているのは珍しいことだ。以前は長い髭が男らしさの象徴として流行したが、現代では時代遅れである。
男が髭を剃るようになった大きな理由はふたつ。
ひとつは、キリスト教の普及。司祭が髭を剃っているため、敬虔なカトリック信者は彼等の真似をするようになった。
残るひとつの理由は、異教徒が髭を伸ばしているため、彼等と外見の区別をつけるためだ。十字軍に参加した騎士たちは髭を剃るようになり、その風習が残り広まった。
「都市が平和な内は髭を剃らぬと誓ったのだ」
「もーう。それは聞き飽きた。切りそろえるだけなら1ドゥニエだから、長くなりすぎる前に来なさいよ」
現れたのがリュシアンである以上、マリウスは自分が蚊帳の外に追いだされたことに文句を言うつもりもないのだが、エリザベートが獅子すら恐れぬ態度で話すから、むしろ彼女を止めるべきではないかと、僅かに狼狽えた。
エリザベートもリュシアンも、そんなマリウスの様子に気づかない。