57話 漁師の人狼
「うわっ! なんだこりゃ!」
潮風に灼かれた上半身を夜風に晒し、動物の皮を腰に巻いた男たちは、眼前に迫り来る人狼に面食らったようだ。
人狼は素早く反応して、爪で男の顔を引き裂こうとする。
しかし、筋骨隆々な男は人狼の手首を掴み、ねじり上げ、腹を蹴飛ばし転がす。
「エリザベート。急に呼ぶな、急に」
振り返った顎は数日前に剃ったはずなのに、もう髭に薄く覆われている。
その顔に見覚えがあったヴァンが目を白黒させる。
「あ。漁師のジャンさん」
「おう。嬢ちゃん」
「こら。そこに理髪職人のマリウスがいるでしょ。ヴァンは男の子! いや、まあ、さっきヴァンが『私の方が若くて美味しい』なんて口走っちゃったから、もうバレてるかもしれないけど……」
「はっはっはっ! 確かにヴァンの方が若くて美味そうだ! 大人の豚より子豚の方が美味いからなあ」
漁師が腹を押さえて笑いだす。ヴァンを頭から食べられそうなほど、大きくて豪快な口だ。
「ヴァンを怖がらせないで。あと、私も子豚でしょ」
「違いねえ! 品のない狼どもが涎を垂らして狙ってやがる!」
狼どもの向こうでメリサンドが笑う。エリザベートと漁師の会話が面白かったわけではない。エリザベートを馬鹿にするための嘲笑だ。
「あらあら。貴方、眷属の躾けができていないようね。力のある悪魔憑きかと思ったけど、見た目どおりの子供のようね」
「そうね。貴方の言うとおり。だから、減らず口を叩けないように、ちょっとこいつらを躾けてくれない?」
「いいわよ。たっぷり痛めつけてあげる」
「話は纏まったわ。じゃ、狼退治よろしく」
「おいおい。5人で20人を相手にするのか?!」
漁師は不満げに目を見開く。
エリザベートは敵対者たちに聞こえないよう、口の中で小さく囁く。
「私たちが逃げる時間を稼いで。無理せず、とは言えないけど、死なないように頑張って」
一転、敵対者を指さして大きく声を張る。
「さあ、行きなさい! 私とヴァンの髪と肌に指1本たりとも触れさせないように!」
「一斉にかかりなさい。若い男以外、全部殺せ」
エリザベートとメリサンドが眷属に指示を出す。
メリサンドの人狼は5つの4人組に分かれ、ひとりが前に立ち、ひとりがそのすぐ傍らに控え、残るふたりが距離を置いて隙を窺う体勢だ。集団で個を狩る動きに慣れている。
一方の漁師は欠伸をするか、胸元を掻きむしるか、尻をかくか、髭をしごくか、鼻毛を抜くかしており、危機感は微塵もない。しかし、その背中に勢いよく灰色の毛が生えたかと思うと、肩が膨らみ、脚が伸び、あっと言う間に人狼に変貌した。
体格があまりに違いすぎて、漁師の人狼はメリサンドの人狼とは別種の存在にさえ見える。
メリサンドの配下は狼の頭を持つ人間である。それに対して、漁師が変身した人狼は太ももがヴァンの胴体より太く、背丈はエリザベートがヴァンを肩車したとしても、それりも大きいだろう。
その巨体が作る影で月明かりを隠し、前衛の人狼ふたりを闇に覆いながら漁師人狼は嘯く。
「5人で20人の相手とはなあ……。聖ペトロに誓って言うが、相手が足りなすぎて弱い者イジメになるぞ?」
「我等が主メリサンド様にかけて、貴様らを地に這いつくばらせて、惨めな命乞いをさせてやろう」
人狼が姿勢を低くし、まるで最初から4つ足の獣だったかのように、素早く漁師人狼の背後に回りこんで足首に食い付く。機動力を奪おうというのだろう。
しかし、人狼の短い牙は、漁師人狼の厚い毛皮を貫くことは叶わなかった。漁師人狼はまったく気にした様子もなく、人狼ごと足を上げて、地面に振り下ろした。その衝撃で人狼の牙が外れる。
倒れた人狼が踏みつぶされないように、2体めが正面に立ち注意をひく。さらに3体めと4体めが左右に広がりつつ距離を縮め、牽制する。
そうしているうちに最初の人狼が立ちあがり、仲間たちのもとへ下がって体勢を整える。
漁師人狼は端から倒れた人狼を踏みつぶすつもりはなかったのだが、人狼たちは自分たちの集団戦法が通じていると判断した。
「図体がデカいばかりで動きは遅い。老いた鹿を狩るのよりも容易いぞ」
「囲め。倒してしまえばこちらのもの」
人狼は勢いづき、近づいたり離れたりかがんだり背伸びしたりしながら、漁師人狼への包囲を狭めていく。




