55話 人狼の爪と牙がヴァンに迫る
メリサンドは内側の格子戸を同じようにして通過し、城壁の内側に姿を現した。
黄金色の瞳と、血の色が染みついたかのような唇以外は、闇の色に覆われている。
「あら。美味しそう。都市に入って早々、若くて新鮮な血を飲めるなんて嬉しいわ」
赤い唇から漏れた冷たい声が夜気を纏い、闇に漂った。
メリサンドがエリザベートたちの方へ歩きだす。城壁内に沈殿した空気を底からかき混ぜるような、遅い足取りだ。
エリザベートは斜め後ろに後退してヴァンを背中に庇う。しかし、メリサンドの狙いはマリウスだった。身がすくんでいるのか、動けずにいるマリウスの眼前にメリサンドが迫った。メリサンドが抱擁するように両腕を開き、口を開けて剥きだした牙をマリウスの首筋に近づける。
「マリウス! ぼうっとしてない!」
エリザベートはマリウスの襟を背後から鷲づかみにし、強引に引っ張る。一瞬マリウスの足が浮き、メリサンドの牙と腕から逃れる。
獲物を失ったメリサンドはゆっくりと腕を閉じて、自らの体を抱きしめると、幽玄な音色の笑い声を響かせる。
「あらあら? どうして意地悪をするのかしら。その子、貴方のいい人?」
エリザベートは相手を刺激しないように、後ろ手でマリウスを後方に押しのけながら、ゆっくりと下がる。
「むしろ逆ね。私と結婚しようとする悪い人なのよ」
「あら。素敵な男性なのに、どうして結婚をお断りするのかしら?」
「貴方には関係ないでしょ」
「まあ。なら私にくれても良いのではないかしら?」
「貴方に渡したら、トレソンやオーケンの人みたいに、血を飲んで殺しちゃうでしょ」
「あら。貴方、色々と訳知りのようね」
メリサンドは胸の前で指先を重ねて微笑む。
「ならこうしましょう。私たちはこれからこの街を毎晩襲うつもりなの。ここには人間が大勢いるんでしょ? きっと血を飲み尽くすのに何ヶ月もかかるわ。だから、その男は殺さない。毎日少しだけ血を貰うわ」
「信じるわけないでしょ。貴方は私たちを全員殺すわ。貴方たちは街の何処かに隠れ潜むつもりだろうけど、そのことを知っている人がひとりでもいたら困るでしょ? 私、貴方の顔、覚えたもの」
「そうね。困るわね。利発なお嬢さん」
格子戸が半ばまで上げられ、次の脅威が都市に踏み入ってくる。
格子戸下端の大釘をかがんで避けながら次々と侵入してくるのは、杜撰な治療で歪んだ傷跡と真っ黒な髭で顔中が覆われた男たち。指のない者、顎が割れた者、耳が片方だけの者、片脚を引きずる者……誰もが争いに満ちた生を送ってきたことが分かる風体だ。
狭い城門内を通り抜けてくるからその全容は分からないが、背の低いエリザベートから見えているだけでも両手では数えられないくらいいる。
「お前たち、存分に月の光を浴びなさい」
メリサンドが合図すると、男たちの鼻と口が前方に突きだし、毛で覆われていく。男たちは瞬きの間に人狼と呼ぶに相応しい姿に変わった。
前方に意識を集中していたエリザベートは、背後で息を吞む気配がしたので、まだヴァンとマリウスが逃げていないことを知った。
メリサンドの体が浮くようにして、城壁の傍へ下がる。
「男は生け捕り。女は食べていいわよ。狼の仕業に仕立てあげるから、頭の骨だけは残しなさい」
人狼が一斉に動きだす。先頭の者は脇目も振らずにエリザベート目掛けて突進し、後ろの者は前の者をなんとか追い越して、最も美味い部分に食い付こうと殺到する。
(どうしよ。避けたらヴァンが危ないし……)
徒弟の身を案じていると、ようやく背後で大きく動きだす気配があった。
(よかった。やっと逃げてくれ――)
「こっち! 私の方が若くて美味しい!」
手燭を投げ捨ててこっそり逃走してほしかったのに、ヴァンは炎を振って叫びながら走っていく。
「ヴァン!」
エリザベートが振り返るのと同時に、マリウスが飛びついてくる。
「エリー!」
「うわっ!」
ヴァンの方に駆けだそうとしたエリザベートと、彼女の前に出ようとしたマリウスの進路が重なった結果、ふたりは衝突し、もつれあって倒れる。
「痛ぁっ! ちょっと離れて!」
「くっ! じっとしていろ! 騒ぎになれば、すぐにリュシアン様が来る! 聖ルイと愛に誓ってお前は俺が護る!」
「えええ……」
人狼たちは一瞬呆気にとられたようだ。マリウスを引き剥がしてからエリザベートを食べるか、気にせずに彼から食べるか迷ったのだろう。
元からエリザベートという限られた肉にありつけそうになかった人狼の決断は早く、ヴァンの方へと体を向ける。
エリザベートはマリウスの下敷きになったまま、走り去るヴァンの背中に人狼の鋭い爪が迫るのを見た。
「ああっ。もう。逃げ切れるわけないでしょ! おいで、聖骸布の襞!」
エリザベートは嘆き、右手の指先でトントンと石畳みを打つ。すると、彼女を中心にして路地が淡く幻想的に輝きだす。まるで石畳の上に月が出現したかのようだ。
次の瞬間、彼女たちはアイガス・モルタスの西に流れるヴィドゥール川の中州にいた。
何が起きたのか理解できた者はいない。エリザベートただひとりを除いて。




