54話 悪魔憑きが城門をくぐる
エリザベートは埋め立て門を見上げる。彼女は塔の構造を知らない。3階に射撃室兼兵士の詰め所があることも、2階に跳ね橋や格子戸用の昇降機があることも知らない。
だから、何処へロシュを止めに行けば良いのかが分からない。
「夜なのにどうして、跳ね橋が下りるんですか?」
「おい、エリザベート。何か知っているのか?」
「……詳しいことは分からない。けど、ロシュがトレソンやオーケンの事件に関わっていたのは、これで確定。彼は、悪魔憑きをアイガス・モルタスに招き入れた」
「なんだって? 嘘だろ?」
「じゃあ、なんで跳ね橋が降りているの?」
「くっ……。真実は分からないが、夜中に城門を開くのはまずい。止めよう」
「危険よ。肉斬り包丁と、家畜撲殺用の棍棒で武装した肉屋がふたり待ち構えているのよ?」
エリザベートは腰に吊るした革の袋から鍵を取りだし、ヴァンに渡す。
「家に帰って。閂をして、蝶番の革紐をキツくしっかり結ぶように。2階は駄目。逃げ場がなくなるから。1階で私が帰るまでお留守番してて。外から誰かが侵入しようとしたら、丸まって地下貯蔵庫の中に入りなさい」
「え?」
「マリウス。あんたも特別に家の中に入ってもいいから。ヴァンと一緒に逃げて」
「おい。何を言っているんだ。エリー」
「いいから早く。人狼が20人くらい、侵入してくるの!」
エリザベートが説得のためにマリウスの目を見て話そうとしたとき、視界の隅で城壁の影が揺らいだ。反射的に見上げると、城壁の上に細長いシルエットが立っている。
「おいおい。マリウス。どうした。エリザベート親方の言うことには従え。お前は職人に過ぎないが、そいつは他店とはいえ親方様だぞ」
月のように冷たい声だった。
ヴァンとマリウスから目を離すわけにもいかないため、エリザベートは塔内に踏みこんで跳ね橋の昇降機を止めることはできない。
もし、悪魔憑きの正体がエリザベートと同類なら、ロシュは人狼化した眷属だ。マリウスとヴァンのふたりくらいなら、一瞬で首を食い裂く。
「ロシュさん。親方の言うことを聞くべきだって言うなら、私の言うことを聞いてくれないかしら。今すぐ跳ね橋を戻して、リュシアンの下に両手首を差しだしなさい」
「それは聞けないな。これからお前は行方不明になって、明日から俺が親方になるんだから」
ロシュが城壁の階段を下りてくる。蝋燭を持っていないのに足取りが確かだ。階段が見えているのだろう。
「どうしてこんなことするの?」
「お前が悪いんだぞ。さっさと親方の身分から退いてくれていれば良かったものを……。これでも色々と穏便に進めようとしていたんだがな」
(ん? この言い方、まさか……)
エリザベートはロシュから視線を離さず、背中越しにマリウスに小声で尋ねる。
「ねえ、人を雇ってうちに嫌がらせしていた?」
「なんのことだ……。惚れた女にそんなことするはずないだろ」
「あっ、あーっ……。ごめん……。完全にあんただと思ってた……」
「どういことだ?」
「いや、それは私の髪に誓って後日改めて説明するから……」
ロシュが階段を降り終えるのと時を同じくして、巨岩が倒れるような音が鈍く鳴る。見れば跳ね橋が降りきっていた。
ロシュは背筋を真っ直ぐにすると、その日最初の客を迎える理髪職人のように、格子戸の奥に向かって恭しく頭を下げた。
「高貴にして偉大なる月下の支配者メリサンド・ノクターナ様。ようこそアイガス・モルタスへ。歓迎いたします」
2枚の格子戸を隔てたところで、黄金色の光がふたつ蝋燭のように浮かびあがる。その光はまるで闇を引き寄せているかのように、不気味な存在感を持つ。
エリザベートが、まさに悪魔の瞳だと思った次の瞬間、そのシルエットは崩れて無数のコウモリに分裂した。そして、外側の格子戸をすり抜けるようにして、城門内に入る。
コウモリは暗い隧道の中で集結して裸の女を形作る。女が進む間もコウモリが集結して、やがて踝を隠すロングスカートと首筋まで隠す上着に変わる。最後のコウモリはヴェールとなり彼女の髪を包んだ。
注視していなければ女が格子戸をすり抜けたように見えたであろう一瞬のことだった。
メリサンドはエリザベートの同類である。
しかし、蘇り者のエリザベートにはコウモリに変身する能力はない。あるのかもしれないが、試したことすらない。
相対してすぐ本能的に理解した。彼女と自分では神の加護、いや、悪魔の加護の強さに大きな隔たりがあると。




