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5話 恩人を馬鹿にした性悪女を言い負かす

 話は盛り上がったが前方から背の高い()せた男が近づいてきたので、ふたりは次第に声を小さくしていく。


 男は動物の皮を縫った外套(マント)を着ており、フードを目深にしている。外套(マント)が相対的に短く見えてしまう程の長身は珍しいし、何より同業者だからエリザベートにはそれが誰か分かった。


おはよう(ボンジョルン)。ロシュ」


おはよう(ボンジョルン)。エリザベート嬢。お久しぶりです。ソフィア婦人」


 男は街の東側にある理髪店の職人だ。近隣の村落に仕事をしにいくのだろう。村には理髪店がないため、近隣の都市から職人が出張して村人の髪を切る。以前はエリザベートも出稼ぎしていたが、1ヶ月ほど前に持ち回りから外された。


 ロシュとすれ違ってしばらくすると、エリザベートはソフィアにおどけた調子で(ささや)く。


「ロシュさんの荷物、小さな袋だけでしょ。理髪職人はハサミと櫛とカミソリと瀉血(しゃけつ)ナイフと抜歯鉗子(かんし)と血止めの軟膏と包帯さえあればできるお仕事です。言葉にするとたくさん道具を使うように聞こえても、軽い袋ひとつで事足ります。大きな水瓶(みずがめ)を頭に乗せた私も同じ職業なんだけどなあ。おっと。名乗るのが遅れてすみません。ソフィアさん。私はエリザベート。自由通りリュ・ド・ラ・リベルテで理髪外科医をしています」


「あらまあ。自由通りリュ・ド・ラ・リベルテということは、アンリのお店を継いだのね。私も若い頃は彼に髪を切ってもらったのよ」


「あ。そのときのお話を聞かせてもらってもいいです?」


「ええ、もちろん」


 ふたりはお喋りしながら歩く。都市に戻ったあとは、話を聞くために大通りを大幅に遠回りしてから、エリザベートはソフィアと別れた。


 帰路の途中、木造平屋が並ぶ区域で新婚の夫婦が家の前に座りこんでいた。多くの人々が朝に家族同士で(のみ)を取りあい、会話をして交流する時間に()てる。オック語で小指を「(のみ)取り指」と呼ぶ程に、(のみ)取りは身近な行為だ。


 過去に夫はエリザベートに結婚を申し込んで何度も断られているし、妻はそれを知っていてエリザベートのことを快く思っていない。あまり新婚夫婦の前を通りたくないが、迂回するには頭上の水瓶(みずがめ)が重くて邪魔だ。

 陽差しの弱い時間帯を選んだとはいえ、川との往復は彼女の体力をそれなりに削っている。


「あら。エリザベートさん。おはよう(ボンジョルン)


 相手の表情から悪意が読み取れるが、エリザベートは気づいていない素振りで返事をする。


おはよう(ボンジョルン)。アンナ。ジャック」


「ねえ、(のみ)を取りあういい人がいないから、朝陽が薄いこんな早くからもう水()みに行っていたの? それとも夜明け前から、死者の霊魂が作る行列でも探して男漁りでもしていたのかしら? 生きた男にいい相手がいないようだしね」


 アンナは言葉に棘を生やして揶揄(やゆ)する。だが、ヒキガエルの吐く泡が空の白鳩に届くことはないから、エリザベートは笑顔を絶やさない。


「悲しいけど、最初の指摘については、そうなのよ。心配してくれてありがとうね。素敵な人と一緒にいられるアンナが羨ましいわ。お仕事の都合で水をたくさん使うことがあるから、朝から大忙し。それじゃあね」


 アンナはエリザベートにとっては客になり得る相手だ。たとえどのような皮肉を言われようとも、敵対するより愛想(あいそ)よく振る舞う方が良い。


「ほんと。あんたって青白い顔して死者みたい。夜遅くまで異端の集会に参加しているんじゃないの?」


 ジャックが制止しようとするがアンナは舌鋒(ぜっぽう)を緩めない。


「アンリは病気を治すためにローマまで巡礼(じゅんれい)したんでしょ? それなのに帰ってきてすぐ死んじゃったし、信仰心が足りなかったんじゃないの? あははっ」


 エリザベートは笑顔のまま夫婦の下を離れかけたが、足を止める。自分が何を言われても構わないが、親に等しい大切な人を侮辱されて、黙って去るわけにはいかない。

 喉まで出てきた熱いものが暴れているが、エリザベートは口の端に力を込めて、普段と変わらぬ調子で言う。


「アンナ。ふたつ教えてあげる。ローマへの過酷な巡礼(じゅんれい)を果たしてアイガス・モルタスに帰り着いたアンリさんの信仰心は本物よ。神と聖人のご加護があったことに疑いの余地はないわ。それを疑い敬意を払わないことこそ、教会の教えに背くことよ。そして、次のことは貴方だけでなく愛する夫の身にも関わるからよく聞いて」


 アンナの顔が赤く染まり目の端が吊り上がるが、エリザベートは丁寧な口調で続ける。


「貴方が言っていた『夜中に死者の霊魂が地上を彷徨(さまよ)う』というのは異端の教えよ。死者の魂は昇天するの。だから、地上を彷徨(さまよ)うことなんてない。ここはアヴィニョンの教皇庁に近いの。異端審問官に捕まって火刑台に送られたくなかったら、不用意な発言には気をつけて」


 アルビジョア十字軍(クロワザード)(異端との戦いとしてキリスト教徒同士で行われた戦い)から既に1世紀が経つが、アイガス・モルタスより西方の地では未だに火刑台に送られる者があとを絶たない。

 アルビジョア十字軍(クロワザード)の勝利によって南仏(なんふつ)まで権力が及ぶようになったフランス国王が建造したのが、エリザベートたちが暮らすアイガス・モルタスだ。市民の多くは自覚していないが、遠き地におわすフランス国王の庇護(ひご)下にあるからこそ、アイガス・モルタスでは異端審問の影響力が弱く、アンナのような迂闊(うかつ)な発言が見逃されている。


「もし都市の外で同じ発言をしたら、近所の者から密告されて家族全員、投獄されちゃうわよ」

 ――というのはさすがに言いすぎだし、恨みを買うかもしれない。エリザベートは言葉を吞みこんだ。


じゃあね(アデュー)敬虔(けいけん)なカトリック教徒として、司祭様の説教を聞くためにミサで会いましょ」


 アンナの顔が赤黒く染まって(ゆが)んでいることに気づかないフリをして、エリザベートは立ち去る。皮肉の応酬で勝ったから、鼻歌を鳴らす。


 ――なーにが「(のみ)を取りあういい人がいないから、朝陽が薄いこんな早くからもう水()みに行っていたの?」よ。私は水をいっぱい()んで体を洗っているし、ベッドの(あし)を頻繁に干しているから我が家に(のみ)はいないの。マルセイユの石けんがいくらすると思ってるの? 私は清潔なの。仮にいい人がいたとしても、(のみ)を取る必要ないの。体が痒くてしょうがないなんてこともないの。

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