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44話 マリウスと初めて出会った日の記憶

 家に戻ったふたりは水で体を洗い、2階の寝床に入った。


 しばらくするとヴァンが機嫌を(うかが)うように「あの」と弱々しく言う。エリザベートは、ヴァンに余計な気苦労をさせたことを微かに恥じた。


「本当にマリウスさんのことはよかったんですか……?」


「いいのよ」


「でも……」


「分かった。いつか話そうと思っていたことだし、今から話すね。……マリウスはこの家が欲しいのよ」


「え?」


 エリザベートはヴァンに隠し事をしており、また、彼女を疑っているという負い目があるため、少しでも心の重荷を減らすことにし、正直に打ち明ける。


「アイガス・モルタスの理髪同職組合(ギルド)で親方になれるのは3人って決まっているの。店舗も3つまで。今の親方は、私とルネさんとギュイさん。私みたいな小娘はもちろん、ルネさんもギュイさんもまだ10年20年は現役よ。ということは、マリウスは親方になれないの。親方になって店を持ちたかったら、アイガス・モルタスを出て別の都市に行くしかない。徒弟(とてい)も職人の数も決まっているから、修行を積んだ地で仕事がないなら、別の土地に行くしかない」


()ごめんなさい(パルドナ・メ)。そんなことも知らずに、ここで住まわせてもらって」


いいのよ(エス・パ・レス)。うちは職人も徒弟(とてい)もいなかったんだから、ヴァンが修行を積んで職人になっても、ここで働けるよ。けど、マリウスは違う。3人の親方がいる限り、彼は親方になれない。けど、彼がここで親方になれる3つの状況、もしくは方法がある。先ずは親方の誰かが死ぬこと。けど、さっきも言ったように親方たちは誰もすぐ死ぬような年齢じゃない。私だっていくらなんでも、マリウスが殺人を犯してまで親方になろうとするほど非道だとは思っていない」


 昨今の狼騒動に乗じるとも思えない。親方の誰かが死んでマリウスが新たな親方になれば、誰だって彼を疑う。理髪同職組合(ギルド)や城代リュシアンの目を(あざむ)くことはできないだろう。


 マリウスが悪魔憑きと通じている可能性は?

 マリウスとヴァンが実は以前からの知りあいで、共謀している可能性は?

 どちらもない。夜警の途中でヴァンが狼の習性について語ったとき、ロシュがマリウスに『都市育ちの俺たちには出てこない発想だな』と話しかけていた。ということは、都市育ちのマリウスが農村育ちのヴァンや西方の悪魔憑きと顔見知りだった可能性はない。


「エリザベートさん?」


「あ。ごめん。ちょっと考えこんでた。マリウスが親方になる条件の話よね? ふたつめは、都市が大きくなって壁の中に家が収まりきらないくらい人口が増えて、壁の外にも家が建った場合。そうしたら、理髪店も数を増やす必要があるから、親方の座もひとつ増える。ただ、何年か何十年か分からないけど、それは凄く先のこと。今の親方が寿命で亡くなる方が早いかも」


 エリザベートはいったん言葉を切ると、少し間を置いてから続ける。


「マリウスが親方になる3つめの方法は、私と結婚すること。そうすれば、彼は合法的にこの家に住めるし、親方の身分も奪えるかもしれない。他の親方たちに賄賂(わいろ)でも送って味方につけてから、組合の会合で親方になると宣言をして同意を得ればいいんだからね」


「エリザベートさんは反対するんですよね?」


「ええ。でも、親方は3人だから多数決をしたら1対2で負ける。それに、私が知らないところで会合をすることだってあるし。実際、夜警だって私は知らされてなかった。組合加盟店から必ず1名の男を参加させるようにって、前日に言われた。ヴァンがいなかったら、私は夜警に人を出せなかったことを責められて立場が悪くなっていたでしょうね。だから、ヴァンが来てくれて、本当に助かった」


「あの……。どうして親方は3人までなんですか?」


「それがちょうどいいからよ。アイガス・モルタスの人口は3000人。理髪店は3軒で十分なの。まあ、うちの客入りを見ると、2軒でもいいかもしれないけど……」


 嫌がらせさえなくなれば、客入りは戻るかもしれない。兵士や城壁の工事関係者がそのうち来てくれるかもしれないという希望はある。

 売り上げが増えれば発言力も大きくなるから、状況は改善されるはずだ。


「4軒以上あったら、お客の奪い合いになるし、職人が多ければ技量の低い者でもハサミを握ることになる。職人の技量水準を同じにして金額を統一することが、職人を護ることになるし、お客さんも安心して一定のサービスを受けられるようになるの。……さっき、マリウスが、話があると言っておきながら、なかなか言いだせなかったのは、そこなのよ」


「どういうことですか?」


「同じ金額で同じサービスが受けられるのが、お客から見た組合加盟店のメリットなんだけど、医療に関してはそれが成り立たないの。医学校で勉強したことがあって、アラビア語やラテン語で書かれた医学書を読むこともできる私の知識が、頭ひとつもふたつも抜けているの」


 血の匂いを嗅ぎ分けられるしね……とは口にしない。


「多分、昼間の怪我人は工事現場から近いギュイさんの理髪店から職人を呼んで治療を受けた。けど、瀉血(しゃけつ)のせいで具合が悪くなるだけだった。あとから来た私が、最初の治療はまずかったことを指摘して異なる治療をしたのよ。他の理髪店からしたら、私は(うと)ましいことをしたの。だから、マリウスは治療をするなと言ったの。けど、それは自分たちの技量が女よりも低いことを認めることになるから、プライドが邪魔して簡単に言えなかったのよ」


「本当に、そうでしょうか……」


「ん?」


「マリウスさんは、エリザベートさんが他の職人から逆恨みされないか、心配してくれているのではないでしょうか」


「つまりさっきのは『調子に乗るなよ』ではなく『逆恨みされないように気をつけろ』って意味だったと?」


はい(オック)


「ないない。それはない」


「……ロシュさんは背が高いから、脚が長くて、歩くのが速いです……」


「なんの話?」


「昨日も今日も、ロシュさんは先に行ってしまいます。けど、マリウスさんはボクたち……。いえ、エリザベートさんを待つためにゆっくり歩いていたと思います。暗がりを調べるようにロシュさんに提案して、歩くのを遅くしてくれていました」


「んー? 気のせいでしょ。あいつにそんな優しさはないって。優しかったら、人を雇ってまで店に嫌がらせしたりしないでしょ。さ。長話しすぎたわ。寝ましょ」


はい(オック)……」


(あいつが優しい? そんなことあるはずないでしょ……)


 エリザベートは(まぶた)を閉じ、マリウスと初めて会った日の記憶を探る。3年前、アイガス・モルタスに来て最初の夏だ。彼女は理髪職人として修行中の身だった。先代親方アンリの体は既に病魔におかされており、店に立てない日もあった。


 そんなある日の昼、アンリはエリザベートに店じまいをするよう伝え、隣室で横になった。当時の1階中庭側の部屋はまだ書類が少なく、足が弱く2階に上がるのが困難なアンリの寝室として使用していた。


 エリザベートが店を掃除していると、マリウスがやってきた。それがふたりの初めての出会いだ。彼はおそらくアンリに言づてでもあったのだろう。しかし、入り口ドアから1歩入ったところで妖精のような少女に気づくと目を見開いて動きを止めた。


「あら、お客。親方は休憩中よ。私、修行中だけど、構わないかしら?」


「え?」


「ほら。ここに座りなさい」


()はい(オック)


 エリザベートは正面のあらゆる角度からマリウスを見つめる。


「顔が赤い。発熱かしら。額を触るわ。……体温に異常はなし。瀉血(しゃけつ)はしない。帰ったら水分補給をしなさい。よろしいかしら?」


()はい(オック)


 初対面のマリウスは大人しかった。もしかしたら夏の暑さにやられて、顔が紅潮していたのかもしれない。

 病人ではないのだから帰せばいいのだが、練習する機会の少ないエリザベートにとってマリウスは、格好の練習台だった。

 相手の返事が曖昧(あいまい)なのをいいことに了承を取り、髪にハサミを入れ、そして、盛大に失敗した。

 左右のバランスがおかしい。

 エリザベートはじっと見つめる。顔を遠ざけたり近づけたりして、じっくりと髪を観察する。前髪を指で()けてみたり、顎先を指で押し上げてマリウスの首の角度を変えたりしつつ、うーんと唸る。

 右が長い気がする。だから、右を切る。今度は左が長い。

 こうしてマリウスは、刈り入れの終わった麦畑みたいな頭になった。


(あちゃー……。私、恨まれてるわ。あの頃の私、めちゃくちゃ無愛想だったし。多感な思春期の少年を丸坊主にしちゃったからなあ。あいつ、顔を真っ赤にして無言になってた。絶対、怒ってた……)


 半年後、アンリが亡くなるとすべては一変した。マリウスがエリザベートに『俺と結婚しろ』と言い始めた。


 ――寂しいだろ。俺が傍にいてやる。俺が親方になってこの店を護ってやる。


 ()いた親方の座を護ろうとエリザベートが決断したのは、その言葉が切っ掛けだった。

 彼女は既にラテン語の読み書きができることを活かして、公証人(こうしょうにん)として働いていた。必然的に都市の権力者と知りあいになるし法律にも詳しくなる。

 織物同職組合(ギルド)、肉屋同職組合(ギルド)、宿屋同職組合(ギルド)で親方の死亡により、寡婦(かふ)が引き継いだ前例があった。女でも業務を遂行する能力があれば親方になれる。エリザベートはすべての財産と親方の座を譲るというアンリの遺言書を携え、裁判権を司る(つかさどる)代官のもとへ行き、今の地位を勝ち取った。

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