4話 川へ水汲みに行く
「鶏ちゃんたちごめんねえ」
謝りながら内股で鶏小屋の前に行き、扉を開けて中庭に放つ。
「今日は卵を産んでいないかー。残念。お祈りが忙しかったのね。ほんと、敬虔なこと」
家の鍵を開けて1階の書き物部屋に入ると、半地下室からパンとベーコンを一切れずつ出す。パンは乾燥している断面を取り除き、その内側を切り取って食べた。豚飼いが豚の群れを連れて店の前を通ったので、いつものように1頭の豚を中庭から連れだして預ける。隣近所も同じようにして豚の数が減る。除けておいたパンの半分を細かくして鶏に与えた。
中庭には小さくてまだ豚飼いに預けることのできない子豚がいるので、残ったパンを与える。これでようやく家畜聖歌隊の解散だ。
「まあ、うちの子が食べてくれたと信じよう」
子豚が10頭ほど殺到してきたので、エリザベートの飼っている子がパンを食べたのかは分からない。食べる量は少なかっただろうが、他の家も同じように、古くなった食品や野菜の端などを与えるから、いずれ満腹になるだろう。
「しっかり食べて、豚飼いに預けられるくらいになるんだぞ。そんで、冬までにまん丸になってね」
冬になると食肉に加工される運命を知らない子豚が、ピューと鳴いた。
エリザベートは部屋に戻ると、羊毛を詰めたクッションを頭に乗せ、赤い頭巾を被り、空の水瓶を持って家を出る。
アイガス・モルタスの北東から南西を流れるヴィドゥール川の上流へ向かい水を汲むのが毎朝の日課だ。何度も往復するのが煩わしいエリザベートは、顔がすっぽり影に覆われるほどの大きな水瓶を頭に乗せていく。
店舗兼自宅を出て路地を北へ少し行くと、顔なじみの老人と出くわす。
「おはよう。私の小さなエリザベート。今日も精霊のように美しいね」
「おはよう。ありがと。ニコラさん。目はしっかり見えているようね。健康的でいいことだわ」
「どうだい。これから聖ルイ広場にでも行って、お散歩でも」
「私の頭の上の水瓶を見て。忙しいの」
「はっはっはっ。美人さんの顔に見とれていて、頭の上には気づかなかったわい」
吟遊詩人が愛を歌った時代の若者が、昨今の老人だ。彼らは南国気質も相まって女を見れば口説かずにはいられない。
「じゃ。行くね。さようなら」
「さようなら。エリザベート」
エリザベートは老人と別れると大通りに出て、日陰の中を西に進む。
「ほんと、今時の若者は老人を見習うべき。『女のくせに』と言う前に、ニコラさんみたいに『今日も美しいね』と言ってよ」
歩いてすぐ塩の塔に到達するが、ここは利用しない。今は見張りの兵士以外に人はいないが、やがて荷車に塩を載せた商人たちが列を成すので、わざわざここを通る必要もない。
少し進んだガルデット門が、普段エリザベートが利用する城門だ。
城門は――城門に限らずアイガス・モルタスの石造建造物は――ロマネスク建築を基礎にしつつ、ゴシック建築の影響を濃く受けているため重厚さと華麗さを兼ね備えており、見る者を力強く圧倒する。
側防塔を備えたガルデット門は、高さ9杖。杖は水深の浅い川を船で渡るときに川底や川縁を押す棒のことで、エリザベートが背伸びをして腕を伸ばしたくらいの長さがあり、長さの単位として使用される。兵士であれば同様の長さを表現するために槍を用いる。
城門の扉は開かれており、門の外側と内側にある落とし格子が両方とも上げられている。
通路は騎馬がくぐれる高さがあるため、水瓶を頭に乗せたエリザベートでも悠々と通れる。
「兵士さん。おはよう」
「おはよう。水汲みだな? 森の近くで大きな狼が目撃されている。川を越えないように」
「ええ。もちろん。濡れたくないから川は越えません」
エリザベートは見張りの兵士に挨拶をして城門を出ると、跳ね橋を渡って水堀を越える。
そして、道に刻まれた深い轍に足をとられないように中央を歩いて北へ向かう。
川は領主や教会の所有物であるため、水汲みも洗濯も、許可されている場所へ行くしかない。
下流は利用可能だが、海が近いため飲料には適さないし、肉屋、染色職人、皮革職人、鍛冶職人たちが流す排水が混ざるため水質が悪い。
前方の豚の行列を遠くに眺めながら遠矢の射程にして5つの距離を歩き、短い林を抜けて川の水汲み場に到着。エリザベートは見知らぬ壮年の女性と一緒になった。
「おはよう。ご婦人」
「おはよう。お嬢さん。あら、まあ、大きな瓶だね。私まで影に吞まれちゃいそうだよ」
「何度も往復したくないから、無理して頑張ってます」
エリザベートは頭から水瓶を降ろし、水を汲む。
「おや。あんた、まあ、珍しい髪の色をしているね」
「ええ。北の方の出身だから、雪の色が付いちゃったのかも」
エリザベートは水を汲み終えた瓶をいったん川沿いの大きな岩の上に持ち上げる。それから、頭巾の中に羊毛のクッションが入っていることを確かめて、頭の上に水瓶を乗せる。あとはバランスを崩さないように手で押さえる。
腕力と体力には余裕があるが、夜間よりは衰えているし、重い物を乗せれば普通に頭が痛いためクッションは欠かせない。
エリザベートと女は並んで帰路につく。名前も身分も知らない相手だが、女には共通の話題があるから会話には困らない。
「若いとはいえ、大した力だよ。私があんたくらいの歳のときでもそんな大きな瓶は無理だねえ。あんた男より強いよ。間違いない」
「ええ、もちろん。水汲みで競走したら、絶対に私が勝つわ」
「ああ、そうだね。男はそんな大きな瓶は持てないから勝負にすらならないね。男どもときたら、力仕事なら任せろと言うくせに、水汲みは女の仕事だと言って一度たりとも水を汲まない」
「まあ、ご婦人の言うとおり! 私、朝の水汲みで男とすれ違ったことなんて、ほとんどないわ。ここですれ違う男なんて、痩せた牛に荷車を曳かせた塩売りか、徒弟の子供くらいよ」
「男どもは小さな瓶を運ぶ姿を女に見られたくないのさ。葡萄酒商だって葡萄酒樽を持てないもんだから、小さな革袋に入れて売り歩いているんだからね」
「分かります。この前『これいっぱい、葡萄酒ください』って私が出した壺が、葡萄酒売りが持っている瓶より大きかったんですよ」
いつの時代でも女が集まれば、する話題は決まっていた。