34話 ヴァンに都市を紹介する。先ずはガルデットの門
家の連なりが終わるところで彼女は足を止め、外壁にかけられた青銅のプレートを指さす。
「ヴァン。一応聞くけど、文字は読める?」
「読めません」とヴァンは首を横に振る。
「これは自由通り。私たちが住んでいる通りの名前。覚えておいて。迷子になっても街中歩き回れば帰ってこれるけど、通りの名前を人に聞けば帰ってこれるからね。基本的に、すべての通りに名前があるから」
「分かりました。文字が読めるなんて、エリザベート親方は凄いです」
「そうよ。凄いから敬うように」
ヴァンは「はい」と雛鳥のように瞳を輝かせた。
「素直だなー。街でも文字を読めない人が大半だから、気にしないでいいからね」
「……え? なら、どうして板に通りの名前が貼ってあるんですか?」
「お。いい着眼点。これは私たちのためというより、役人や教会が何処に住む誰からどれだけ税を徴収するか管理するための印ね。自由通り5番地の理髪外科医エリザベートから、今月の税として20ドゥニエを徴収した~って記録するの」
「エリザベート親方はなんでも知っていて凄いです……。それに比べてボクは……」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、知識なんて人それぞれよ。今私が言ったことは、都市に住んでいればそのうち嫌でも覚えることだし、お隣のジュールさんの受け売りだって多いし。それに、ヴァンは私よりも畑や羊飼いについて詳しいでしょ」
「はい」
「それに、キャベツ作りに詳しい」
「もちろんです! 農具の扱いには慣れています。どんな荒れ地でも耕してキャベツ畑にしてみせます」
「ん。畑仕事に自信たっぷりなところ、いいよ」
「ありがとうございます。早く子供を作りましょう。ボクがたくさん種を蒔きます!」
「あっ……! そういうことはあまり大きな声で言わないでね。別の意味に誤解されるから……」
エリザベートは周囲をキョロキョロ見渡した。通りすがりの水汲みと葡萄酒売りが、さっと視線を逸らした。
エリザベートはヴァンの手を引き、逃げるように加速する。
そして最初の目的地へやってきた。
「ここが、最初にヴァンが入ってきたガルデット門。さっき水汲みをするときにも通ったから、もう迷わずに来れるよね?」
「はい」
「外から見るとこの門が一番立派ね。多分、最初の方に作ったから石がいっぱいあったんだよ。他の城門や塔にも全部、名前が付いているから少しずつ覚えて」
「はい、親方」
「そこの角にある大きな館が、リュシアンの住んでいるところ。私がいないときに何かあったら頼るように」
「分かりました。もしエリザベート親方に何かあったときは、リュシアン様を頼ります」
「彼がいつもしかめっ面をしているのは、フランスの北部と違って南部がバターよりも油を多く使って料理するからよ。朝食で食べた魚が口に合わなくてあんな顔しているの。ね、門番さん、そうでしょ?」
エリザベートが話を振ると若い門番は「滅多なことを言うな」と城代に忠誠心を示すが、口元は僅かに緩んでいた。パリ出身のリュシアンがアイガス・モルタスの誰とも異なる雰囲気を纏っていることを、都市民なら誰でも感じている。
「それはそうとエリザベート嬢。川の兵士には着替えを送っておいた。小間使いでも送ったらどうかとリュシアン様に伝えておいたぞ」
「ん。ありがと」
エリザベートが笑顔で門番に手を振ると、彼の頬が僅かに紅潮した。エリザベートはリュシアンよりもさらに北方の民族の血が流れるため、外国人の多い港町多いアイガス・モルタスにおいても、その容貌は異質な魅力となって異性の目と心を奪う。
彼女は若い異性からの人気は高い。だが、妖精のようなエリザベートに恋心を抱く男は、彼女に少しでも整った顔を見せたいから別の理髪店に行き髭を剃る。
私に髭を剃らせろと思っているエリザベートと、中途半端に伸びた髭面を見せたくない男が交わることはない。
結局、たった今ファンは増えたが、未来のお客様候補はひとり減った。




