32話 都市に帰る途中で噂話を聞く
しばらくしたら、兵士は体力が回復したらしく、立ちあがった。
「大いなる感謝を。貴方たちは命の恩人だ」
「私はほとんど何もしていないから。助けたのはエリザベートとヴァンだよ」
「そんなことないですよ。私とヴァンだけじゃ無理だったわ」
「ヴァン殿。エリザベート嬢。水瓶を割らせてしまった。すまない」
水瓶の破片を集めていたヴァンはエリザベートを見上げて、泣きそうな顔をする。
「ごめんなさい……。慌てて落としてしまいました」
「いや、君は悪くない。俺の責任だ。川向こうに何かいたような気がして、そっちばかり気にしていて足下をまったく見ていなかった。俺の不注意だ……」
「いやいや。むしろ兵士様は任務に忠実でお疲れ様です。私は普段水汲みをしていて濡れた川縁が滑りやすいってことを知っていたから、初めて川辺で任務に就く兵士様に教えるべきだった。それに気づけなかったことは、悪かったと言えば悪かったし……。割れちゃったものはしょうがない。それよりも、兵士様にはもう川縁に近寄らないことにしてもらうとして、濡れたままだと風邪をひくよね。着替えを持ってくるように門番さんに伝えておきますね。あと、水を飲みたくなったとき大変だから、そのことも言っておく」
「何から何まで本当にすまない……。俺はマルクだ。代わりの水瓶を届けるから家を教えてくれ」
「人助けをしただけなんだから、弁償なんていいわよ。……あ。そうだ。代わりにうちを贔屓にしてよ。自由通りにあるトゥールーズ理髪外科医院。仲間にも紹介して。妖精のようなエリザベートがお店で待っているって」
「分かった。この髭に誓って、君の店に行くよ」
「その髭を剃らせろって言ってるんだから、誓わないでよ」
「はははっ。これはしてやられた」
兵士が笑いだすと、ヴァンとソフィアも控えめに笑った。
ソフィアが帰り、エリザベートはヴァンと一緒に穴を掘って水瓶の破片を埋めてから帰路についた。
水で満ちた瓶を持っていないから周囲を見渡す余裕ができたのか、エリザベートの目に帰路の様相は大きく変わって見えた。
ラバに曳かれた荷馬車や、空の水瓶を持った女とすれ違う。遠くの農家から乳を搾られた牛の鳴き声が聞こえ、そちらを見れば木の柵に覆われた場所に何頭かの羊がいた。普段は正面から来る荷馬車を避けることや、轍を踏まないこととばかり気にしていたので、まったく周囲を見ていなかった。
農家と道の間にある畑では農夫が仕事を始めている。くび木によって繋がった1組の牛の綱を農夫が引き、鋤を曳かせて土を耕している。
エリザベートが気にも留めなかっただけで、長閑な景色は毎日繰り返されているのだろう。都市内よりも時がゆっくりと流れている気さえしてくる。水難事故を目の当たりにして緊張した心がほぐれていく。
ブドウやオリーブの並木を眺め『夏が来る前にいっぱい生い茂って、日影を広くしてよ~』などと脳天気に微笑む。
しかし、不意に、道脇に生えたサンザシの棘のように、彼女の胸をチクリと刺すものがあった。
(……ん? 昨日、ヴァンはこの道で狼に追われていた?)
エリザベートは改めて周囲を観察する。
(ヴァンがこの道を真っ直ぐ逃げたのは分かる。左右に植えられた葡萄やオリーブの灌木が壁みたいになっているし、正面に城壁が見えるから、誰だって助かりたかったら真っ直ぐ進む。けど……)
耳を澄ますと背後の遠くから、斧で木を切る甲高い音が聞こえてくる。川向こうの森に暮らす木こりか炭焼き職人だろう。その音に負けじと、左手から羊の鳴き声も届く。
(あっちに羊がいるのに狼はヴァンを追いかけたのよね。痩せ細ったヴァンの方が、羊よりも弱い獲物に見えた? 城壁に近づけば槍や剣を持った門番がいるのに、狼はヴァンに執着していた。ヴァンが着ていた豚革の服が美味しそうだった?)
エリザベートは顔を上げて前を見る。
城壁まで遠矢ほどの隔たりがある。
(これだけの距離があれば、ヴァンの息が切れて足が遅くなったときに、狼が足首に噛みついて彼を転倒させたら終わりよね……。なんでヴァンは無事だったの?)
考え事をしていると、正面からおしゃべりをしながら、ふたりの女がやってきた。
「狼も悪魔憑きも壁の中にまでは入ってこられないでしょうけど、水汲みの時は襲われるかもしれないわ」
「ええ。水汲み場を護っている兵士のところへ急ぎましょう」
狼の恐怖が広まりつつあるが、女たちは城壁から出てこの道を北に向かって水汲みへ行くしかない。都市の西へ行けば川は近いが、染織工房や皮革工房や肉屋などからの排水によって、汚染されている。かといって、都市内の井戸は数が少ないし、海が近いため水質が悪い。
女たちとすれ違ってしばらくすると、耳のいいエリザベートには背後の会話が聞こえてきた。
「ねえ、今の、見たことある?」
「ええ。男たちが宮廷の貴婦人なんて呼んでいる女よ。昨日、門の前でリュシアン様と言いあっていたわね」
「そっちじゃなくて小さい方。見たことないわ。悪魔憑きじゃないの?」
「移住者よ。昨日リュシアン様が素性を改めて、悪魔憑きでも異端教徒でもないって言っていたわ」
「それなら安心だけど……。でも、あの女も昔、悪魔憑きだって噂が流れてなかった?」
聞こえないフリをしてエリザベートは歩き続ける。隣のヴァンの様子を窺うと平然としいるから聞こえていなかったようだ。
(……あっぶな。ヴァンが悪魔憑きの疑惑をかけられてた。昨日ガルデット門の前でちょっとした騒ぎになったおかげで、逆に疑いが晴れたのか……。私もまだ新参者だし、気をつけないと。それにしても、ヴァンが悪魔憑きか……)
頭の回転が速いエリザベートは、この時ばかりは自分の閃きを後悔することになる。
(ヴァンは悪魔憑きじゃない。リュシアンが聖剣で判別したから間違いない。あの聖剣が本物だって、私は身をもって知ってる。でも、ヴァンが悪魔憑きの仲間だったら? 悪魔憑きがアイガス・モルタスに侵入しようとするなら、人間を先に送りこんで内側から城壁の扉を開けさせる……。兵士の目を欺くために、悪魔憑きが狼のフリをしてヴァンを襲っていた? それだったら彼女が追いつかれずに逃げ切れて当然……)
考えすぎだ。エリザベートは湧きかけた疑念を振り払うように首を振った。




