31話 川で兵士を助ける
水汲み場に着くと、若い兵士がひとり立っていた。門番が言っていた見張りだろう。朝早いため生あくびをしているが、鎖帷子を纏い、槍と盾で武装した兵士が立っているのは非常に心強い。
先日会った壮齢の女性が、先に水を汲んでいた。
「おはようございます。ソフィアさん」
「おはよう。エリザベート。あら。今日はひとりじゃないのね」
「はい。彼は昨日からうちで働くことになった――」
「ヴァンです。昨日からエリザベートさんの理髪店で徒弟をすることになった男です」
(こらこら。男ですっていう自己紹介は変でしょ。あとで指摘しておかないと)
「へえ。徒弟。それで水汲みね。できるかしらね」
「ほんと、そう。ほら、ヴァン。水を汲んだ瓶をそこの岩に乗せて」
「はい。うっ……」
ヴァンは水を汲んだが、瓶を胸の高さまで上げることができない。
「あー。ほらほら。腕の力で持つんじゃなくて、腰を落とす。瓶を持つ。脚を伸ばす。脚の力で持つの」
「は、はい!」
ヴァンはふらつきながら水瓶を持ち上げる。落とされても困るので、エリザベートは手を貸す。
「ほーら、ヴァン。慣れるまでは水の量を減らして往復しましょ」
「はい……。エリザベートさんはいつも水はどうしているんですか?」
「満タンよ」
「え? これを持って帰っているんですか?」
「ん。そうよ」
「そんなことが……」
「慣れよ。慣れ。兵士様の鎖を編んだ服は満タンの水瓶と同じくらい重いよ。そんなのを着て、さらに武器や盾まで装備してここまで歩いてきいるんだから――」
ねえ、兵士様と振り返るのと同時に、大きな水の音がした。
何かが落ちた。振り返ると、さっきまでそこにいた兵士がいない。
エリザベートは瞬時に状況を理解した。兵士は顔を洗おうとしたのか水を飲もうとしたのか、何かしらの理由で川縁に近づき、落ちたのだ。
駆けだし、案の定、上半身から川に落ちている兵士を見つけた。
兵士は自重で上半身を起こすことができないらしく、脚をばたつかせている。平地であれば起き上がれるのかもしれないが、中途半端に腰が高い位置にあるせいで体勢を直せないようだ。
「引き上げる! じっとして!」
脚を掴むのは無理と判断したエリザベートは杖を放ると、川に飛びこみ、兵士の上半身を持ち上げる。
兵士の顔が水面上に出た。しかし、そこまでだ。水中から上げて急激に重くなって動かせなくなる。人より膂力の優れた彼女でも、力の衰える早朝に、鎖帷子を着た成人男性の上半身を持ち上げるのは難しい。
「助けるから、暴れないで。聖ルカに誓って見捨てないから! 水を飲んで苦しくても我慢して、じっとして。私を掴もうとしないで!」
「ごほっごほっ」
何かが割れる音がした。高価な物が割れたのだと理解したが、人命とは比べものにならない。
すぐにヴァンが飛びこんできた。
「一緒に支えて」
「はい」
「ねえ。兵士さん、ここ、私の膝丈くらいなんだけど、手を伸ばして水底に届かない? ソフィアさん。私の杖を、取って!」
「は、はい! はいよ!」
兵士の横に落ちていた杖をソフィアが拾い、エリザベートに渡す。
エリザベートは杖の柄を立てて、川底に突き刺す。
「兵士さん掴まって」
兵士は杖を掴み、自らの腕力で体を上げ始めた。エリザベートとヴァンは兵士の体を支えて補助する。
「貴方が掴まっているのは、敬虔なるアンリ・ド・トゥールーズの聖地ローマへの過酷な巡礼を支え、一緒に帰ってきた杖よ。だから、絶対に折れない。貴方は助かるから。先ずは呼吸を整えて」
「ごほっ、ごほっ……がはっ……はっはっ……」
「はい。水を吐かなくなった。呼吸は辛いけど死なないから。すぐ楽になる。落ちついて息を整えて」
「ごほっ、ごほっ……!」
「大丈夫?」
「あ、ああ……!」
「じゃあ、合図したら息を止めて。脚を引っ張って川岸に上げるから。上半身が沈んでも気にせずに、水底に手が付いたら押してね?」
「わ、分かった。頼む」
「ヴァン。川から出て、ソフィアさんと一緒に脚を引っ張って。私は肩を持ち上げて押すから」
「はい!」
「じゃ、みんないいわね。3で行くよ。1、2、3!」
エリザベートが肩を持ち上げながら押し、ヴァンとソフィアが脚を引き、兵士が川底を手で目一杯押す。4人の力が上手く重なり、兵士の体が鳩尾の辺りまで川辺に出た。
あとは兵士が身を捻れば、完全に地上に戻ることができた。
エリザベートは息を整える間を惜しんで、うつぶせになった兵士の顔を覗きこむ。
「はあ……良かったあ……。無事?」
「はあっ、はあっ……。無事ではないかもしれない。精霊が見える。ここは川の底か……はあはあ……」
「私の美しさが分かるなら、貴方は無事ということよ。ねえ、苦しくない? その状態で回復できる? ひっくり返した方がいい? 鎧を脱がした方が良い?」
「大丈夫……はあはあ……このまま……ふー。ふー」
兵士の命に別状はないようだ。呼吸も落ちつき始めている。
エリザベートは自分の胸元に手を入れて、命の次に大事な印章があることを確かめた。
(はー。良かった。落としてない。川に落としてたら、探すの大変だ……)
エリザベートは岩に飛び乗って腰掛ける。紐を解いて革靴を脱ぎ、中の水を出す。
エプロンを外して絞ると岩に掛けた。スカートと袖は手で絞る。異性がいる場ではさすがに裸になるのは躊躇われる。
ちらっと見れば、ヴァンも革靴を脱いで水を出していた。
エリザベートは靴を履くと岩から降りて、まだ靴紐を結べないヴァンを手伝った。




