26話 薬剤師ジュールがヴァンの未来を占う
肉屋と別れたあとに何度か狼の遠吠えを聞いたが、都市内に異常はなかった。
ギュイ親方の店の近くまで戻ったところで解散となり、エリザベートとヴァンは家に帰った。
「戸締まりの仕方はこう」
エリザベートは閂を掛け、蝶番を革の紐で結ぶ手順をヴァンに教えた。
「お風呂に入っておけば良かったね……」
「お風呂?」
「ん。ここは公衆衛生に気を遣っていたことで有名な聖ルイが十字軍の拠点に使っていた都市だからね。その影響があるのか、公衆浴場があるのよ。しかも、週に1回誰でも無料。もう少し早ければ使えたんだけどね」
「あの。でもそれだと。ボクが女だと知られてしまいます」
「あ。そっか……。しょうがないから当分の間は水で体を洗いましょ」
エリザベートは水瓶から桶に水を1杯汲み、中庭に出る。
すると、中庭の中央に先客がいた。
左の隣人、薬剤師のジュール・ノートルダムだ。30歳前後の男で、常に目を細めている理由を「太陽を見すぎた」と嘯いている。彼もまた、右隣のギュスターヴと同じく変人だ。
「今晩は。星読みの先生ジュールさん」
「やあ、今晩は。我が弟子エリザベート、そして、ヴァン。夜警のお帰りかな。狼の声が聞こえたね」
「ええ。でも多分、川の向こうよ。ここは安全だと思う。それはそうと、星はどう?」
「ああ。なかなか良い配置だ。おかげで明日は仕事が捗りそうだ」
天体や星座の位置は人体に影響を与えるため、夜空を読めば病気の治療法や原因が分かるとされている。また、天体の位置によって作成する薬の品質が変わってくる。そのため、医師や薬剤師には占星術を扱う者がいる。
エリザベートはジュールに習って、簡単に星を読むことができる。しかし、彼は未来に起こりうることまで、星から読みとるという。彼の占星術の技は子から孫へと受け継がれていき、やがて子孫の中から、歴史上で最も偉大な予言者が現れるそうだ。
「ヴァン。お近づきの印に、君の未来を見てあげよう。こちらに来なさい」
「は、はい」
「ふむ。ふむ……。瞳に映る星空は……。なるほど……」
ジュールはつま先が触れあうほど近くから、ヴァンの顔を覗きこむ。
「えっと……」
「ジュールさーん。女の子の顔を間近で見つめすぎー」
エリザベートが諦観のこもった苦情を口にするが、ジュールは様々な角度からヴァンの顔を窺う。
エリザベートはそんな彼の様子に呆れながら、ヴァンに同情の視線を向ける。
「私のときもこうだった。諦めて」
「はい……」
「なるほど。なるほど。ヴァン。君はなかなか良い星の下に生まれているようだ。エリザベートやギュスターヴにも負けず劣らずだ」
ジュールは1歩下がって、今度はヴァンの頭からつま先まで、前から後ろから観察する。
「天体や星座の位置と人体は密接な関係があるの。だからジュールさんは、今日の夜空とヴァンの体を見比べて、占ってくれているの」
「そうなんですか」
ジュールは四角く切り取られた空を見上げ「ふむふむ……」と呟く。何度も空とヴァンを見比べ、最後に「うむ」と大きく頷いた。
「君に隠せることはない。だが安堵せよ。君の秘密を知る者は、君の窮地に救い手とならん。人に飼われた獣が仲間を呼び、壁は崩壊し繁栄の扉を開く」
「それはどういう意味でしょうか。難しくて分かりません。壁が壊れたら狼が入ってきます……」
「なあに、安心しなさい。壁といってもアイガス・モルタスの城壁とは限らない。心の壁が取り払われて君とエリザベートの絆が強くなるという解釈もできる。最初に言ったように、君は良い星の下に生まれている」
「はい」
「ねえ、ジュールさん。久しぶりに私のことも占って。ヴァンの占い結果の壁が、私たちの心の壁だとしたら、私も同じような結果になるでしょ?」
「君はいつ見ても幸運の星が頭上に輝いているから安心しなさい。時間切れだ。鐘が鳴る。ほら。1、2、3」
ジュールが夜空を見上げると、都市に暗幕を垂らすように、優しい音色が頭上から聞こえてきた。終鐘だ。
日中は自身の足下に伸びる影の長さで、夜間は星の位置で、ジュールは分単位で時間を知る。そのため、彼は鐘が鳴る寸前だと分かったのだ。




