25話 城壁にのぼり、都市の外を確かめる
「聞こえたな」
「はい」
男ふたりが歩調を速めるから、エリザベートはヴァンの手を握る力を強くし、見つめあい、男たちを追う。男たちは北側の城壁に辿り着くと城壁の階段を上り始める。城壁の内側は至る所に歩廊へ上がるための階段があり、平時であれば市民も立ち入りが可能だ。
階段の幅は半杖。ひとりずつしか上り下りができない。壁に手すりはなく、都市側には落下を妨げる物はない。ロシュとマリウスが手燭で足下を照らしながら慎重に階段を上っていく。
エリザベートは手を放したが、どうしたわけか、ヴァンは階段を上っていかない。
「ん。どした。怖い?」
「あの。どうぞ」
ヴァンは手燭をエリザベートに渡そうと手を伸ばしてくる。
「ボク、夜目は利くので」
「あ。奇遇ね。私も夜目は利くの。今日くらい月と星が明るかったら、蝋燭が要らないくらい。だから、それはヴァンが使って」
「は、はい」
ヴァンは言葉どおり夜目が利くらしく、危なげなく階段を上っていく。彼女は途中で立ち止まり振り返ろうとする。エリザベートの足下を照らそうとしたのだろう。
「いいから、いいから。ほら。狭いところで振り返るとヴァンが危ないでしょ。行って行って」
「はい」
エリザベートはヴァンのお尻を押して、彼女の後ろから歩廊へ上がった。
歩廊ではロシュとマリウスが胸壁に上半身を乗りだし、手燭で城壁外を照らそうとしていた。しかし、小さな灯火ふたつでは到底晴らせないほど深い闇が眼前に広がっている。
「見えない、な……」
「ええ。何も……」
ロシュとマリウスが手燭を動かすが、灯りは胸壁の辺りを照らすのみで、地面すら判然としない。
エリザベートは都市の北に広がる麦畑とオリーブ畑と葡萄畑の境目くらいは薄らと分かるが、狼の姿は目に入らない。
「心配は要らないでしょ。狼がこの壁を登れるわけがないんだし、川の向こうの森で迷子が仲間を探しているだけよ。ほら。いつまでも城壁の上にいると、ルー・ドラペに連れ去られて、川に沈められるわよ。まだ城壁を1周できていないんだし、早くしないと終鐘が鳴るわよ」
という言葉に、彼女らのすぐ横に位置するコンスタンス塔の上から、「その女の言うとおりだ。城壁の外は我らが見ている故、心配は要らん」と声がした。夜番を担当する兵士だろう。
コンスタンス塔は屋上に小塔が建っており、その先端では火が焚かれていて灯台を兼ねている。アイガス・モルタスは港町なので、夜間でも火を絶やすことはなく見張り番の兵士がいる。
エリザベートは階段を降り、夜警の再開を促す。ヴァンがすぐあとに続き、残る2名も城壁を降りた。
4人は夜警を続ける。都市北部の大通りを東まで歩けば、1周だ。
途中で、右手の路地から灯りが近づいてくるのが見えた。
ロシュが挨拶のために体の向きを変え、硬直する。後ろの3人も同じ物を見て、固まった。
蝋燭に照らされて、人の腕の長さもあるような分厚い刃物が鈍く輝く。
それはふたり組のようだ。刃物を手にする男の他に、鹿の脚のように大きな棍棒を持った男もいる。
血の匂いがする。
風が吹きにくい都市内部だから気づくのが遅れたが、人より優れているエリザベートの嗅覚は、まだ新しい血の匂いを刃物から感じとった。
さすがの彼女も肝が冷えた。狼が城壁内に侵入するはずがないから、夜警なんて夜の散歩くらいに考えていた。武器を所持した不審者に遭遇するとはまったく予想もしない。
「おっ……! 脅かすな。その丸い体は肉屋のマルクだな」
「俺様が見上げなきゃならんほど縦に長いお前は理髪店のロシュだな」
「ああ。その物騒な物はなんだ」
「ひっひっひっ。狼が出たらこいつで倒してやろうと思ってな」
マルクは肉斬り包丁の側面を手で叩いて鳴らした。どうやら人騒がせな肉屋組合の夜警と遭遇したらしい。
(……人の血の臭いじゃない。肉屋なら動物を解体するための大きな刃物や、動物を殺すための鈍器を自衛のために持ち歩いていたとしてもおかしくはない……のかなあ。それにしてもびっくりしたあ。十字軍の生き残りが、月の光を浴びておかしくなったのかと思ったわ……。でも……。今後、都市内で惨殺死体でも出たら、真っ先にこいつらのこと疑お。怪しすぎるもん。それにしても……)
ヴァンが1歩前に進みエリザベートを庇うような位置に移動している。
それに……。
マリウスは数歩、エリザベートの近くに下がっていた。
(んーっ。可愛いヴァン。そんで、マリウスは何? 私が襲われている間に逃げようとしたのかしら。私が死ねば店が手に入るかもしれないし。肉屋のマルクとやらに金でも掴ませて雇った? ま、いくらなんでもそこまで悪人じゃないよね? 見たままを信じるなら私を護ろうとしたように見えなくもないけど……)
夜の背中に答えは書いていなかった。




