23話 都市内の夜警をする
晩鐘の澄んだ音が都市にゆっくりと染み渡る。これは、火の始末をして寝る準備をしなさいという合図だ。夜間に火の使用が許されるのは、原則として城壁を護る兵士と聖務のある教会のみだ。庶民は火種を再利用するために、炭火を鉄製の鍋などに入れて火災対策をする。
灯りがなければ夜警はできないため、理髪同職組合は城代リュシアンに申請して許可を得ている。
エリザベートはヴァンとともに、同業者ギュイの理髪店の前に来た。
エリザベートは手ぶらで、ヴァンが手に燭台を持っている。錫製で、取っ手付きの皿という単純な形状なので強い風が吹けば火は消えてしまうが、高い城壁で護られた都市内で強風は滅多に吹かない。
「おい。なんでエリザベートが来ている」
ふたりに気づいたマリウスがさっそく絡んできた。
「こんばんは。マリウス。しょうがないでしょ。ヴァンはこの店の場所を知らないから来れないし、夜警が終わったあとも道が分からなくて帰れないでしょ。道を覚えるまでは私が同行するから」
「帰りは俺が送る。だから女は帰れ」
「はい、はい。夜警が終わったら帰るわよ」
「今すぐ帰れ。狼に襲われたらどうする」
「マリウスが食べられている間に逃げるわ。私と結婚したいんだったら、身を挺して護って、格好いいところを見せて」
ふたりが言いあっていると、ギュイ理髪店の中から手燭を手にした男が身をかがめながら出てくる。住み込みで働くロシュという痩せた20歳の男だ。この中では彼が年長者で、マリウスよりも頭ひとつ大きい。
「来てしまったものはしょうがないだろう。帰す必要もあるまい。ん?」
ロシュがヴァンに気づき、手燭で顔を照らす。ふたりが近づくと頭ふたつほども身長差があった。
「見ない顔だが、お前は?」
首を真上に向けて呆然としていたヴァンは、慌てて返事をする。
「はっ、初めまして。トゥールーズ理髪外科医院で働くことになった徒弟のヴァンです。よろしくお願いします」
「ヴァンか。覚えておこう。俺はギュイ理髪店の職人ロシュだ。よし。サクランボをやろう」
ロシュは空いた方の手で袖の中からサクランボを取りだした。皮が厚く実の大きい品種だ。
「えっと……」
「断ると失礼だから貰っておきなさい。それとちゃんとお礼を言うように」
「はい。ありがとうございます。ロシュさん」
「ああ。遠慮するな。エリザベートとマリウス。お前たちは喧嘩したからなしだ。さあ、行こう」
ロシュはサクランボを口に入れると歩きだした。
晩鐘が鳴ってから終鐘が鳴るまでの一刻が夜警の時間だ。都市では城代に仕える兵士が警備にあたり、それとは別に同職組合が自主的に自警団を組織して見回りにあたる。
4人はロシュを先頭にして北へ歩く。エリザベートは最後尾についた。先頭が怖いわけでも、後方が安全そうだからでもない。緊張感のない顔を見られたくないからだ。夜の彼女に危険なことなど何もないのだから、緊張のしようがない。
(無意味だとは思わないけど、夜警ってどれくらいの意味があるのかなあ。日中は門番さんがちゃんと外を見張ってる。陽が沈む前に扉を閉じている。だから、城内に狼なんているわけないのに)
4人は北側城壁沿いのエミール・ゾラ大通りに出た。
「さて。都市を1周するのだから、どちらに行ってもよいのだが……」
「あ。だったら、右に行きましょう」
「ほう。何故だ、エリザベート嬢」
「狼が既に都市内に侵入したという想定の夜警よね? 殿方はみんな手燭を右手に持ってる。右利きでしょ? なら、狼の気配を感じたら手燭を左手に移して、右手にナイフを持つよね。だったら、壁を左にして右腕を振りやすくする方がいい」
「なるほど。エリザベート嬢の言うとおりだ。では、右へ進もう」
夜警は右へ向かう。賑やかだった昼間とはうって変わって、しんとしている。
(ん?)
生あくび混じりでしばらく進み、エリザベートはひとつ、分かったことがある。
ロシュは狭い路地や物陰にも手燭を向けて照らしているが、瓶や木箱の陰のような小さな物陰は気にしていない。この探し方では、狼がいたとしても見落とす怖れがある。
マリウスもエリザベートと同じように違和感を抱いたようだ。
「ロシュさん。もう少しゆっくり行きませんか? それに、城壁の上から外の様子を確かめませんか?」
「マリウス。俺たちは都市の夜警だ。城壁外の狼を見つけてどうする?」
「でも、壁の回廊を走っているかもしれません」
暇だったからエリザベートは会話に混ざる。
「こんな静かな夜に壁の上を走るのは、ルー・ドラペくらいでしょ」
聞き慣れぬ言葉を耳にしたヴァンが「ルー・ドラペってなんですか?」と聞いてくる。
「教皇庁の地下に封印された聖人の屍衣よ。馬の姿になってアヴィニョンからアイガス・モルタスまでやってきて、夜中に出歩いている子を連れ去るの」
「何処へ連れていかれるんですか」というヴァンの問いにエリザベートが「さあ」と答えると、代わりにマリウスが続ける。
「沼に連れていかれ沈められるんだが、そこは精霊の国になっていて楽しい時間を過ごせる。だが、向こうではたった数日でも、こっちに戻ってくると何十年も経っている。ヴァンみたいに小さいヤツは簡単に攫われてしまうだろうな。ほら。ルー・ドラペは城壁の上を走り回るらしいぞ」
それは何処にでもある、子供が夜に出歩かないように親が語り聞かせる物語だ。
城壁を見上げるヴァンは震えているらしく、手燭の炎が揺れる。
「こら、マリウス。うちのヴァンを怖がらせないで」
「ルー・ドラペの話を先にしたのはお前だろ」
「ヴァン。蹄の音が聞こえたら、屋内に逃げてね。もし背中に乗せられたら『イエス、マリア、偉大なる聖ヨセフ、我を護りたまえ』と唱えるように。効果がなかったら私の名前を唱えてね。私が駆けつけて、ルー・ドラペに『めっ!』てしてあげるから」
「はい」
「ロシュさん。話の腰を折ってごめんなさい」
「いや。……今は精霊の国なんかに行くのか。俺がガキだった頃は、連れ去られたあとは二度と帰ってこれないと言われていたな」
ロシュが歩きだしたので、3人も追いかける。
(あ。ヴァン。怖がってる。歩き方がぎこちない……。悪いことしちゃったな)
エリザベートは歩調を速めてヴァンの左側に並ぶ。
「ヴァン。ごめん。私、怖くなっちゃった……。手、繋いで」
「は、はい」
「さすが男の子。頼りになるね」
ふたりが手を繋ぐと、すぐにマリウスの背中越しに舌打ちが聞こえてきた。




