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19話 嫌がるヴァンの足を強引に洗う

 手ぬぐいで体から水分を拭き取ったあと、エリザベートは自分の頬を強く(つね)った。


(~~っ! 汚れを落としたからなんだろうけど、この子、すっごくいい匂いがする! ヤバい。ヤバい)


 (うず)く牙を頬の上から強く()して我慢するしかない。


「あ、あの……」


「な、なんでもない。さ、これに着替えて。さっきまで着てた服は、寒い日の上着や、洗濯中の着替えにして、今日からはこれを着てね」


はい(オック)


「リネンの下着(シフト)2セット、1スー。亜麻(あま)のコットとチュニックは家にあった物だけど、買えば1スー8ドゥニエ」


はい(オック)


「お金の使い方は少しずつ教えていくね。私が証書を書くような契約のときは、王国標準のトゥール貨で記載するんだけど、覚える必要はないかなあ……。着替え終わったね。なら、座って」


 エリザベートは木を組んだだけの簡素な腰掛けを用意した。ヴァンが腰掛けると、エリザベートは()み置きの(かめ)から桶に水を()んで、彼女の前に置く。

 そして、スカートを太ももまでたくしあげてから、正座する。


「じっとしててね」


「えっと。何を……。あっ」


 エリザベートはヴァンの右脚を掴んで引っ張り、足を自分の左膝の上に載せる。

 それから濡れた布で彼の足を拭き始める。突然のことに驚いてヴァンが足を引こうとするが「じっとしてって言ったでしょ」とエリザベートは足首を掴んで放さない。


「やめてください。エリザベートさんの手が汚れてしまいます」


「んー? ヴァンの足が汚れているから、私の手が汚れるのは当然でしょ?」


はい(オック)。だから、やめてください」


いやいや(ノン・ノン)。汚いままは駄目よ。靴も買ってきたから、これからは履くように」


「そうじゃなくてエリザベートさんの綺麗な手が汚れてしまいます。布を貸してください。自分で拭きます」


 ヴァンが足を引くが、エリザベートはしっかりと掴む。


「んー。仲良くなるための歩み寄りだからさ、ほら」


「だからって、なんで足を」


 ヴァンの足は皮が厚く固かった。物心ついた頃から裸足で農作業をしていたのだろう。

 エリザベートはヴァンの苦労を(ねぎら)うように優しく、()でるように拭く。


「司祭様が巡礼者(ペルラン)の足を洗うのと一緒。旅の疲れと汚れを落としてあげたいの。あと、自分が傲慢にならないように、他者に奉仕する精神を養うの。ほら、私って妖精や宮廷の貴婦人に例えられるくらい美人だし、モンペリエの医学校で学んだし、美人でしょ? オック語だけじゃなくオイル語もラテン語もアラビア語も話せるし、読み書きできる美人だし、超ハイスペック美人だから気をつけないと傲慢で生意気な美人になるでしょ?」


「そ、そんなこと、ないと思います……」


「え? ヴァンは私が美人じゃないって言うの?」


「あ、いえ、僕が否定したいのはそこじゃなくて」


「ユーモア!」


 ぺちりと、エリザベートはヴァンの細い太ももを叩く。


「え?」


「いい? 今の君の正しい行動は、私が自分で美人だって2回も言ったことを指摘することよ?」


「もっとたくさん言っていた気が……」


「はい、正解!」


「え?」


「いい? これが南国気質というもの。早めに慣れるように。私は慣れるまで、けっこう大変だった。昔の私は多分、君より無口で小声だった」


「は、はい」


「それに、茶化さずに言うとさ。ぶっちゃけヴァンのことを男だと思ってたから、体と一緒に洗わなかったのよ。ほら、こうやって裸の男の人の足を洗ったら、嫌でも見えちゃうじゃない?」


「えっと……」


「とにかく、私がヴァンのことを誤解していたから、足だけ洗うことになったの。気にしたら駄目」


()はい(オック)……」


(……それはそれとして、洗ったあとの方が美味しそう……。足も美味しそう……。ああっ、もう!)


 頭に湧いた欲望を払うため、エリザベートは首を左右に勢いよく振る。


「ほら、靴を履いて! 急いで!」


()はい(オック)!」


 ヴァンが鹿革の靴を履き、ようやくエリザベートは匂いの誘惑から解放された。


「靴紐の結び方を教えるから、見てて」


 エリザベートはヴァンの靴紐を結ぶ。


「一度じゃ覚えられないと思うから、また次も教えるわね」


「あの……。ありがとうございます。何から何まで。必ず、働いて恩を返します」


「そんなに恐縮するほど高価なものでもないから遠慮しないで。羊毛1束と、うちのお客数人分くらいの代金だから」


はい(オック)。……ところで、お客さんはいつ来るんですか?」


 小声だがヴァンの素朴な疑問は確かにエリザベートの耳に届いた。しかし、エリザベートは意図的に聞こえなかったことにした。住みこみで働き始める初日に、同業者から嫌がらせを受けていて客が来ないなんて、教えづらい。


「都市の生活が知らないことだらけで不安かもしれないけど、まあ、慣れていってよ」


「が、頑張ります」


「気まずさを晴らさせてあげる。荷物運びという仕事を与えるから、ついてきて」


はい(オック)。……あの、ところでお客さんは?」


「うーん。まあ、今日は良い天気だからみんな髪を切りたくないのよ、きっと」


 もし、ヴァンに観察眼があるのなら、仕事場の床に髪の毛が落ちておらず清潔なことや、棚にあるメスや瀉血(しゃけつ)ナイフが(さび)も曇りもなく磨かれたままになっていることに気づいただろう。


「あ、そういや。ヴァンの本当の名前は……」


「はい。私はリ――」


ストップ(アレスタ)! ごめん。やっぱなし。聞いちゃったら間違えて呼んじゃうかも。事情は追い追い説明するから、とりあえず夜警の一件がすむまで、君はヴァンという男。ね?」


「分かりました。ボクは男のヴァンです」


「ん。人に聞かれたらヴァン・ド・トゥールーズって名乗ってね」


はい(オック)。ボクはヴァン・ド・トゥールーズです」


「それじゃ、出掛けるよ」


 エリザベートはヴァンを連れて家を出ると、南東を目指して歩きだす。

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