16話 自宅兼仕事場、トゥールーズ理髪外科医院へようこそ
「あれ?」
「ん。どした? 何か珍しい物があった?」
エリザベートがヴァンの視線を追った先では、恰幅のいい女たちが手に籠を提げて歩いている。隣近所の主婦が一緒にお買い物に来ているのだろう。
女たちは南方のからっとした陽差しで育ったことがよく分かる肌をし、癖のある茶色い毛を束ねて、青や白の頭巾を被っている。ゆったりとした一枚布の服を着ており、色は白や、くすんだ青やグレー。
振り返ったヴァンの視線がエリザベートの頭から足下に下がると、上に移動し直し顔までやってきた。
赤い亜麻布のワンピースと、同色の頭巾が珍しいのだろう。先程リュシアンに対する礼儀として頭巾を外した際に見えたホワイトゴールドの髪を思いだしているのかもしれない。
「ん? なに? 私が美人すぎて見とれてる?」
「はい……」
「こらこら、正直すぎ」
エリザベートはヴァンの肩をべしべしと叩く。冗談半分で言ったから、肯定されるとは思っていなかった。照れた顔でも見せてくれるかと思ったのに、逆に自分の方が顔を赤くしていそうなので、エリザベートはヴァンの背後に回って肩を押す。
「ほら、立ち止まってないで歩いて、歩いて。いつまでも同じ場所に留まっていると邪魔になっちゃうよ。羊のように流れについていこう。そして、こっち。ここ、パン屋の角を曲がる。覚えておいて」
「エリザベートさんは周りの雰囲気と違います……」
「私はずーっと北の方の出身だからね。小柄だし、髪の色も違うし、周りからは浮いちゃうかな。妖精のようなエリザベートや、宮廷の貴婦人なんて呼ばれているわ」
「でも、声は周りの人と同じくらい大きくて――」
素敵ですとヴァンは続けようとしたのだが、エリザベートは淑やかさに欠けるとでも言われると誤解する。だから、背中を叩いて、ヴァンの言葉を遮る。
「おらあっ!」
「な、なんですか、いきなり」
「ついたわ。ここが私の自宅兼仕事場、トゥールーズ理髪外科医院よ。住所は自由通りの5番地。きっと自由気ままに生きている人が昔にいたから、通りがこんな名前になったのね」
入り口の前でエリザベートは頭上を指さす。
壁から路面に迫りだした棒があり、四角形の看板がさがっている。それは青みがかった銅製の板で、人の頭部とその髪に当てられたハサミが描かれていた。看板の下端には9の字を倒したような形の瀉血ナイフが細工されている。
「ほら、この看板を見て」
「エ、エリザベートさんは人の首を、売っているのですか?」
「なんでそうなるのよ」
「だ、だって、人の首付近に刃物が当てられていて」
「髪を切っているの。何処からどう見てもこの看板は理髪店でしょ。私は理髪外科医。人の髪を切ったり、瀉血や抜歯とかの外科手術をするの」
「瀉血?」
「そ。知らない? ナイフで患部の静脈を切って血を出すの」
「い、痛そうです……」
「痛いよ。だから暴れる人もいるし。もしかしたらヴァンには、痛みで暴れる人を押さえる仕事をしてもらうかも」
「こ、怖いです……」
「冗談冗談。私は必要最小限しか瀉血しないし、仮にするとしても、上手だから患者が痛がらないようにするから。さ、入って。ここが今日からヴァンが暮らす家よ」
年頃の未婚の女子が男子を家に住まわせることは、この時代の文化や価値観では起こりうることだ。1組の夫婦がひとつの家を所有できるのは数百年後に訪れる裕福な時代のことである。14世紀の南フランスでは様々な理由により、血縁関係にない者が同じ家に住む。
家に使用人を雇ったり、徒弟を弟子入りさせたり、結婚や再婚により住人は頻繁に入れ替わる。戦乱から逃げてきた親戚を住まわせることもある。特にこの地では、異端教徒狩りが猛威を振るったこともあり、異端の仲間を密かにかくまうこともあった。
季節によって山や平地を移牧して住み処を変える羊飼いのような者を、長期間、泊めることもある。
血を分けた骨肉の一族と、同じ家に住む者との間に区別はなく、どちらも『家族』という。
このように同じ家屋に血縁関係のないものが長期間住むことが起こりえる時代だから、エリザベートにしても血縁関係にないアンリ・ド・トゥールーズの家に、住みこみ労働のために同居していた。だから、彼女はヴァンのことを生涯の伴侶を家に迎え入れるというより、住みこみ労働人の徒弟をひとり雇うくらいの感覚でいる。
エリザベートがドアを開けると、室内からジャスミンとキャラウェイの香りが僅かに漂ってくる。ジャスミンは革製品の臭い消し。キャラウェイは客の希望によって髪につける香料だ。エリザベートが屋内に入ると、ヴァンは未知の匂いに一瞬だけ躊躇ったように立ち止まったあと、続いた。




